第399話 二日/昼/Side:美沙子/那岐和十萌の終焉
派手に飛び散る己の血を見て、那岐和十萌は奇妙な納得を覚えた。
ああ、やっぱり自分の末路はこんな感じか、と。
一度人生をやり直したにもかかわらず、結局はこうなってしまう。
しかもそれは、誰の責任でもないのが笑えてくる。
周りの誰もが自分を守ろうとしてくれた。
それを台無しにしたのは那岐和十萌本人で、だから浮かぶ笑いは自分への失笑だ。
自分が何もしなければ、きっと生き残れた。
普通に明日を迎えられただろう。
だけど、それができないから自分、ともいえる。
ああ、何ということはなく、ただ自分という人間はそういう性格なだけ。
こんなの納得するしかないじゃないか。
自分の末路はこんな感じか、と。納得するしかない。納得するしか。
あ~ぁ、せっかくやり直したのになぁ~。
大きな納得と小さな後悔を抱えつつ、那岐和十萌の意識は死の闇に落ちていった。
――そして彼女は『出戻り』する。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
戦いが始まる前に、美沙子が何より気にしたのは十萌のことだった。
「シンラさん、十萌ちゃんをお願いします」
「八雲については?」
「怖いメには合わせますけどね。こっちからは狙いやしませんよ」
十萌の兄、那岐和八雲については、この場にいた不運を呪ってもらうことにする。
この場に十萌もいるので最低限の配慮はするが、それでも最低限だ。
「委細承知。しからば――、ご存分に恨みを晴らしてください、美沙子さん」
「ええ、そうするつもりですよ。シンラさん」
二人が言葉を交わしているところに、王原が顔をしかめて声をあげる。
「お嬢さん、ご冗談はおよしなせぇ。あんた、そんなモデルガン一丁でこの場を切り抜けられると本気でお思いで? 悪いことは言わねぇ。風見なんて男は捨てて――」
だが、彼が全てを言い終える前に美沙子はトリガーをひいていた。
打撃音にも似た銃声が広い応接間に響き、王原の頬をかすめて壁に穴を穿つ。
「そのモデルガンの弾ァ、直にくらってみるかい、王原さん」
辺りに濃い硝煙の匂いを漂わせ、美沙子はさらに空いている方の手にも同じ拳銃。
「来てみなよ。こいつを喰らって風穴作りたいなら、幾らでも手伝ってやるよ?」
「ぐ、ぅぅ……!」
「何だ、この女。これだけの数を前に……ッ」
二丁拳銃を構える美沙子を前に、ヤクザ達は完全に迫力負けしていた。
王原ですら、まだ撃たれたショックから立ち直り切っていない。
この隙に、シンラが動く。
彼はソファから動くと、十萌の手を掴んで、部屋の端の方へと向かう。
「あ、あれ、ちょ……?」
「十萌殿、この一件に巻き込んでしまったこと、真に申し訳なく」
「え~! いえいえ、勝手についてきたのあちしの方だしさ~、気にしないで~!」
いきなり謝られたことに、十萌はテンパってしまう。
加えて、年上のイケメンから『殿』付きで呼ばれたことに軽い衝撃を覚えた。
「八雲殿の安全までは保証できかねますが、十萌殿につきましては余が責任を持ってお守りいたしますゆえ、どうか、余の言うことを信じていただきたく存ずる」
「あ、はい、信じて存ずる存ずる!」
十萌がコクコクうなずく。
美沙子と彼は、勝手に追いかけてきただけの自分を守ろうとしてくれている。
それがしっかりと伝わって、十萌はおとなしく従うことに躊躇を覚えない。
「兄貴は、仕方ないかなって。……美沙子さんのコト、バカにしすぎだよ」
「…………」
「死ぬとか、そういうのじゃなければ、一回怖い目見るといいんだよ、あいつは」
美沙子とヤクザ達の対峙を見て、立ちすくんでしまっている兄、八雲。
「十萌殿は、兄はお嫌いか?」
「ん……」
シンラに問われ、十萌は答えに窮する。自分が兄を、どう思っているか。
部屋を満たす空気がどんどん張りつめて気温を下げていく。近く、爆ぜるだろう。
「こちらを受け取られよ、十萌殿」
「へ?」
シンラから渡されたのは、大きめのコインのような何か。
「それは防護結界を発生させる護符にて。弾丸程度であれば、それにより生ずる魔力結界が全て跳ね返してくれましょうぞ。これを持って、お待ちいただきたい」
「ま、ま、魔力? 何、魔力って!? そんなファンタジーな……」
「睡魔」
シンラが眠りの魔法を発動させて、十萌を部屋の隅に横たわらせる。
これで、その手に握らせた護符がある限り、十萌の安全は確立されたも同然だ。
「さて、あちらは」
呟いて、シンラは美沙子の方を見る。
ヤクザ十数人に囲まれながら、二丁拳銃を構えている美沙子の背中が見えている。
「助力は必要あるまいが――」
最後に十萌をもう一度だけ確認して、シンラは美沙子の方へと戻っていく。
彼が施した『睡魔』の魔法は、常人なら二日は目が覚めない眠りを与えられる。
その認識もあって、シンラは十萌については大丈夫だと考えた。
彼のその判断に間違いがあったワケではない。
状態だけを見れば、防護の護符を持つ十萌は確かに万全ではあったのだから。
だから、このあとに起きる事態については、やはり十萌自身の責任が大きかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
王原のあごから、汗が滴り落ちる。
「――お嬢さん。おやめなせぇ」
「王原さん、さっきも言ったよ。こいつはアンタが売った喧嘩だよ」
美沙子と王原。
二人は未だに銃を突きつけ合いながら、かろうじて会話を保っていた。
しかし、高まり切った緊張はもはや破裂寸前の風船にも等しい。
何かがあれば、それはすぐに弾けるだろう。
そうなれば、この部屋は戦場と化す。銃も単なる脅しの道具ではなくなる。
「な、何をしているんだ、君達は! ここは日本だぞ、法治国家なんだぞ!?」
八雲が青い顔で両者を止めに入る。
しかし、王原はそれを無視し、美沙子は「ハハンッ」と笑い飛ばす。
「今さらそんなおためごかしにどんな意味があるってんだい、ガリ勉君。王原さんに頼ったのはアンタだろ。だったら、こういう展開だってあるさね、そりゃあ」
「し、しかし……」
煮え切らない返事をする八雲だが、美沙子はもう彼にいささかの関心もない。
「お嬢さん。あんた、本当に《《あの》》美沙子お嬢さんなんで?」
「アタシは美沙子だよ。アンタが知る『美沙子』とは、ちょっと違うけどね!」
言い切った瞬間、美沙子は左手に構える拳銃をヤクザの一人に向けて発砲。
弾丸は、そのヤクザの右胸に命中し、場に痛々しい悲鳴が轟く。
「ひぎゃあァッ!」
子分の悲鳴が、王原のヤクザとしての本能を衝き動かす。
その瞬間、彼にとって美沙子は可愛がってきた『お嬢さん』から敵に変わった。
「野郎共ォ、この女をブチ殺せェ――――ッ!」
「「「ォ、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」」」
ヤクザ達が、絶叫と共に美沙子を銃で狙おうとする。
だが、いくら何でも遅すぎた。美沙子はその場からタンッ、と軽く跳躍する。
魔法によって増強された筋力を使った跳躍は、容易くヤクザ達の身長を越える。
そして、美沙子は囲みの外に華麗に着地。ヤクザ達はそれを呆然と見つめている。
「のんきだねェ、もう始まってんのにさ!」
笑って叫び、美沙子が二丁拳銃を連射する。
「ひッ、ひぃぃぃ~~!?」
響き渡る銃声に、八雲が情けない声をあげてその場で腰を抜かす。
近くにいたシンラが「やれやれ」と肩をすくめつつも、八雲へと教えてやる。
「十萌殿の近くにいくがよい。安全だ」
「あ、ァ……」
「美沙子さんは諦めろ。おまえ如きに御せる相手ではない」
「ご、如き……ッ」
八雲は一瞬反応を見せるが、そのときにはシンラも関心をなくして離れていた。
美沙子とヤクザ達の銃撃戦が始まっている。
「うおおおおお、ブチ殺してやるゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」
「ああああああああああああああああああああああ!」
仲間を撃たれたからか、恐慌状態に陥ったヤクザ達が、やたらめったら発砲する。
弾丸は、美沙子の細い体に次々に穴を穿ち、血が噴き出る。
「全快全癒」
しかし、その一声と共に、美沙子の傷は完全に消えた。
「――へ?」
彼女を撃ったヤクザが、その現象を目の当たりにして動きを止める。
次の瞬間、彼の眉間にボッ、と穴が開いた。美沙子の撃った弾丸をくらったのだ。
「な、何だこいつ。何だよ、この女はァ~~~~!?」
「うあぁ! うあああああぁぁぁぁぁぁぁあ!」
ヤクザ共が、悲鳴をあげて美沙子を撃つ。
十数人からの同時の銃撃は、まさしく弾丸の雨。それは人体を軽く破壊する。
しかし、殺せない。
「全快全癒」
美沙子の体から、傷が消える。
千切れ飛んだ部位も、一瞬にして復元する。ヤクザの攻撃が無為に終わる。
「ダメだねぇ。人を狙うなら、ちゃんと急所を狙いなよ?」
「ぅぅ、ぐ……ッ!」
「こんな風にさ」
身を竦ませる別のヤクザの眉間を、美沙子の弾丸が貫いた。
「やはり、余の助力は必要ないようですな」
場に弾丸が飛び交う中、悠然とした足取りでシンラが美沙子のもとに戻ってくる。
「こっちはアタシ一人で何とかなりますから、休んでてもらっても構いませんよ」
「それをすれば、余は父上に叱られてしまいます」
苦笑するシンラの右肩に、弾丸が命中する。
それを皮きりに、彼の身も数多の銃撃によって穴だらけになるが――、
「全快全癒」
それらの傷は、すぐに消え去った。美沙子と同様に。
「な、何だァ、おめぇら、何なんだァ!?」
声を裏返らせる王原に、近くに落ちていた拳銃を拾い上げたシンラが答える。
「余はシンラ・バーンズ。金鐘崎美沙子さんに宇宙一愛されている、婚約者である」
「やめてくださいよ、そういうの……」
炸裂した惚気に、美沙子がほんのり頬を赤く染めた。
「え、ダメでしたか!?」
「ダメじゃないですけど、その、そういうのは二人だけのときに……」
「おめぇら、ふざけやがってェェェェェェ――――ッ!」
この鉄火場にイチャつく美沙子とシンラに、王原がブチギレる。
「殺せ、あいつらを、何としても殺せェェェェェェェェェェ!」
「「「ウオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォ――――ッ!」」」
王原の号令を受けて、組員達が決死の形相で二人の『出戻り』に挑む。
「シンラさん、異面体はなしでお願いしますね」
「蘇生前提ということですな。わかりましてございまする」
そして、那岐和兄妹を外に置いて、応接間の銃撃戦はさらに続いていく。
だが、運命は彼と彼女を見逃すことなく、容赦なくその渦中へと巻き込んでいく。
「クソッ、あいつ、あの野郎、僕のことを、この僕のことを『如き』だなんて……」
寝入っている妹の傍らで、八雲は拳を強く握って歯噛みしている。
彼がいる場所は、十萌の防護結界の範囲内。
そこにいれば、弾丸は届くことはない。那岐和八雲の安全は確約されている。
だが、彼は根っから愚かであった。
どれだけ勉学に励んでも、礼儀作法を洗練させても、性根の愚かさは覆らない。
美沙子に撃たれたヤクザの手から、拳銃が勢いよく放られる。
それは床を転がって、八雲の目の前に落ちた。
「……これは」
そのとき、八雲の恐怖の雲に覆われた心に、一筋の光明の如く『魔』が差した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
那岐和十萌は、一度人生をやり直した。
それはつい数年前の話。彼女が、中学を卒業する寸前のことだ。
兄、八雲と違って、彼女は親からほぼ放置されて育った。
長男で、ゆくゆくは父親の基盤を継いで政治家となる役目を負った、兄・八雲。
それに対して、彼女は背負うものもなければ、大した期待もされていなかった。
父・六郎も母・七子も、手間をかけるのは八雲に対してばかり。
たまたま生まれてしまった妹の彼女についてはほとんど手間も金もかけなかった。
ただ一つ、六郎が彼女に叩き込んだ教えは『人に迷惑をかけるな』だった。
それだけを見れば、いたって普通の教えだ。当たり前のことだ。
だが、幼い頃から賢かった彼女は、父の教えの意図を正確に読み取った。
――ああ、そうか。父が言っているのは『自分に迷惑をかけるな』ということか。
父・六郎は国会議員を務める。
その家族である彼女が教わったのは、父の迷惑にならぬよう生きろ。それだけ。
この時点で、那岐和家と彼女の関係性はすでに破綻していたと言ってもいい。
だが、彼女はそれを特に苦には思わなかった。
皮肉なことに、彼女の精神は強靭であった。
家族に期待されず、満足に愛情も受けられない環境で、彼女は健やかに成長した。
それは、父・六郎が息子の八雲に最も期待した才覚である。
片や、兄・八雲は精神的に脆く、荒事に接すると途端に平常心を保てなくなった。
波乱が約束されてる政治家の道を進む者として、それは大きな短所となる。
一度だけ、父・六郎がボヤいていたのを聞いたことがあった。
「おまえが男ならば、何もかも上手くいったのだがな」
ただでさえ薄れていた父への関心が、それを聞いた瞬間に完全に消えた。
繋がりを感じられない家にいることに、彼女は意義を見出せなくなっていた。
父と母は、精々、バカな兄を可愛がればいい。
だが自分は、兄が政治家になっても票を入れることはないだろう。
そんな諦念が、彼女の中に巨大な岩の如く鎮座していた。
だから、行儀見習いとして金鐘崎本家に行くという話は、まさに渡りに船だった。
話が出たのは、彼女が中学三年になった頃のこと。
そして、彼女が誘拐されたのは、その話が出た直後のとある雨の日。
中学校からの帰り道、無理矢理車に押し込められた。
怖かった。強い心を持つ彼女でも、このときばかりは恐怖に心を凍えさせた。
一人ぼっちの心細さから、生まれて初めて家族に助けを求めた。
犯人は、身代金目的で彼女をさらった。
しかし六郎も七子も『余計な荷物』でしかない彼女に金を使うことを惜しんだ。
唯一、身代金を出そうと提案したのが兄の八雲であった。
自分の後継者にそれを言われては、六郎も動かざるを得ない。
結局は犯人一味は警察に捕まり、彼女は救出された。
そして家の使用人から自分の身代金に関する話を聞いて、彼女は心を決めた。
自分の家族は八雲だけでいい。
愚かで、心の弱い兄だけど、それでも彼だけが自分を助けるために動いてくれた。
そして、自分は一度人生をやり直す。
金鐘崎本家に行く日を境に、彼女はその決意を実行に移した。
誰も、それに文句を言わなかった。
父・六郎も、母・七子も、兄も、中学の友人も。国も、役所も。誰も。
「ん……」
何とも懐かしい夢を見て――、那岐和十萌は夢の底から覚醒した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
シンラの魔法の効果が弱かったワケではない。
これは、単純に十萌の抵抗力がそれだけ強かったというだけの話である。
「あれ……?」
目を覚ました十萌が見たものは、彼女にとっては最悪の光景。
拳銃を両手に持って、ブルブル震えている那岐和八雲の姿であった。
「ちょ――」
「あ、あの野郎。あの野郎を、ぼ、僕は、ぁ、あいつを……!」
その身を激しく震わせながら、だが、八雲は尋常ではない目つきで一方向を睨む。
気づいた十萌がその視線を追うと、先にいるのは、シンラだった。
「ちょっと、兄貴……?」
まさか、という思いから、十萌は八雲に呼びかける。
だが、兄は返事をしてくれない。震えたままで、シンラをジッと睨み続けている。
「兄貴、やめてよ。風見さんを、どうするつもり!?」
最悪の予感に、十萌は声を荒げる。
すると、ようやく八雲が彼女の方を向いて、大口を開けた。
「決まってるだろ! あいつに身の程を教えてやるんだよ! 僕自身の手で!」
「バカなこと言わないでよ! そんなモノ、兄貴に扱えるはずないでしょ!」
拳銃を指さして叫ぶ十萌に、八雲はさらなる激昂を見せる。
「ぉ、おまえまで僕のことをバカにするのか!?」
「違うでしょ、そ~ゆ~話じゃなくて! ああ、もぉ~~~~!」
会話ではらちが明かない。
髪を掻きつつ、そう判断した十萌が八雲に掴みかかる。
「それ、渡しなさいよね、兄貴!」
「な、やめろ、十萌! これは僕のだ! 僕はこれで、あいつを、あの野郎を!」
美沙子とシンラがヤクザとやり合っている中、兄妹がもつれ合う。
十萌は拳銃を奪おうとし、八雲はそれを阻もうとする。
このとき、どちらかに多少なりとも拳銃の知識があれば、結果は変わっていた。
だが、十萌も八雲も、本来は荒事とは縁遠い一般人でしかなかった。
拳銃の安全装置に関する知識など、二人とも持ち合わせていなかったのだ。
だからそれは半ば当然の成り行きとして起きてしまった。
バンッ、という軽く爆ぜるような音。
それが銃声であることは八雲も十萌も理解できた。何せ近くで幾度も鳴っている。
「……え?」
だが、撃ったのが八雲で、撃たれたのが十萌であることは、理解できなかった。
弾丸は、よりによって十萌の左胸をブチ抜いていた。
八雲も十萌も共に固まり、彼女の胸に空いた穴から噴き出る血に我に返る。
そして、絶叫したのは十萌ではなく、八雲だった。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああッ!?」
「むッ!?」
「何だい、今の声!」
兄の悲鳴に、美沙子とシンラが気づく。
そして胸から血をしぶかせている十萌を見て、シンラがすぐさま駆け出した。
「これは、何たること……!?」
彼の切羽詰まった声を聞きながら、だが、十萌は奇妙な納得をしていた。
ああ、やっぱり自分の末路はこんな感じか、と。
痛みはあった。苦しくもあった。だが、急激な眠気が十萌を襲った。
これが、死ぬという感覚か。
この、どこまでも深い穴に落ちていくような感覚が。
「うあああああああああ! 十萌! 十萌! 十萌ェェェェェェェェェエ!」
八雲が、自分に縋りついて名前を叫んでくれている。
わかっている。彼に悪気はない。それはわかっているのだ。
「あに、き……」
ほとんど動かない手を、何とか動かそうとする。
ああ、だが、意識が急速に闇に沈んでいくのを感じる。
それは眠りよりもずっと深い。
沈み切ったらもう浮かんでこれない。そんな確信ができてしまう、死の無明。
「あにきは、わる、く、ない、よ……」
力のない弱い声で、何とかそれだけを告げて、彼女は震える右手を伸ばす。
それに、八雲は両手を伸ばして、しっかりと握り返してくる。そして彼は叫んだ。
「十萌、とも――、ぅ、ゃ、八白ッ! 死なないでくれ、八白ッ!」
半狂乱の兄が口に出したそれは、彼女が人生をやり直す以前の名前。
那岐和八白は、誘拐事件と家族との断絶を経て、十五になった折に名を改めた。
自らが名付けた『十萌』という名で、以降の人生を生きていく。
兄・八雲との繋がりまでは断ちたくなくて、那岐和という苗字はそのままにして。
「ごめん、ね……」
それが元・那岐和八白、現・那岐和十萌の最期の言葉。
そして、彼女は息絶えた。
「八白ォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ――――ッ!」
兄の絶叫を、その耳に遺して。自分の死に、大きな納得と小さな後悔を抱えて。
だが、意識が闇に沈み切る前に、自分の内側から誰かが問いかけてくる。
――いいのかい、あんた。せっかくの冥土の土産がそんなくだらねぇ納得でよ?
……え? 誰?
――俺だったら全力でNOを突きつけてやるね。ああ、くだらねぇ、くだらねぇ!
……でも、あちし、死んじゃったし。
――フ。死が何だってんだい? 命の摂理? バカバカしさも甚だしいぜ!
……えェェェェェェェェ?
――いいかい、八白の嬢ちゃん! 納得いかねぇなら、やるべきことはただ一つ!
……何する気? あちしは、何をすればいいの?
――決まってるだろ。その納得に『叛逆』だッッ!
そして彼女は『出戻り』する。
「全快全癒」




