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別れの桜

 桜は散るからこそ美しいのだと、あれは誰の言葉だったか……満開の桜の木の下に立つときにはその言葉の意味をしみじみと実感する。

 花びらは音さえ立てずに降る。ちらちら、ちらちらと降る。

 中空にあるときは陽を透かして白い花びらも、地面に落ちて積もればそれが乳白にほんの一滴の紅を落としたようにうっすらとした色がついていることがわかるだろう。

 一面に散らされた薄紅色の花びらは、時折の風に吹かれて頼りなく転がる。まるで掃き集められたように道の隅にたまったこれを、私は花溜まりと呼んで愛でているのだが……ここに片手を突っ込んで花びらを一掬いすれば、桜という花がいかに儚いものかを思い知ることとなるだろう。

 新鮮な美しさを保っているのは本当に表面の、たった今、舞い落ちたものだけ。下のほうにはすでに茶色く変色した花びらが幾枚も隠されている。

 いや、上のほうに積もった花びらですら、ひとつとして無傷ではないのだ。地面を転がった時の加減か、それとも風に吹かれている時に折られたのか、細い傷がついて、それが茶色く変色し始めている。

 上を見上げれば、これほどの花びらを振るったというのにいささかの衰えなく満開を誇る桜花……

――これは、どこか物語に似ているのではないだろうか。

 蕾からゆっくりとひらいた物語はなには咲き終わりがある。盛りを過ぎた物語は人の心に余韻を残しながら音もなく散り行く。

 始まりがあれば終わりがあるは必定、ならば私は、一つの物語を終わらせようと思う。


 春の午後、静かに降り注ぐ乳白の花びらのように、あなたの心に余韻だけを残して……




◇◇◇

 

 クロは自分でも思う。物語になるような出来事は、もう自分の身には起こらないだろうと。

 今は人の姿をしている彼は、一匹の犬としてこの世に生を受けた。それも狂気じみた実験のための『実験動物』だったのだから、明るい出来事など何もなかった。

ただ、そんな悲惨な日々の中でも……桜は美しかった。

 仕事の帰り道、今日も彼は公園の脇で足を止めて桜の木を見上げる。住宅地のど真ん中にあるこの公園はさして広くはないが、並木風に一列に植えられた桜たちは今を盛りの満開に咲き誇り、プチ花見としゃれ込むつもりなのか子供を連れた母親の一団がその下にゴザを広げている。

 風は容赦なく花びらを散らし、樹下に憩う者の髪に、頬に降りかかる。

 少し強い春の風に吹き上げられて、クロの目前にもいくまいかの花びらが舞った。

「桜……か……」

 クフンと鼻を鳴らして鼻腔いっぱいに淡い香りを吸い込んだ彼は、ふと、あの島に残してきた桜の大木を思い出していた。

「あの木も、今頃は……花の盛りだろうか」

 春の緩い日差しの中、あの木の下に身を横たえて昼寝をするのが何よりも好きだった。あのころは犬の姿だったのだから、尻尾に鼻が埋まるほど体を丸めて、花びらが黒い毛並みに切なく降り積もるのをぼんやりと眺めながら……

「あの頃に比べたら、俺は……」

 ただの人間だ。

 もっとも衣服を脱げば胸元から腹にかけて黒犬だったころの名残である被毛は残っているが、日常でそれを他人に見せることなどないのだから、誰も彼の本質を見抜くものなどいない。

 それにもともとが規律を必要とする群れでの生活をする犬という生き物だったのだから、人間式の社会生活というものにも戸惑うことなくすっかりとなじんでしまった。

 毎日同じように仕事に出かけ、同じ家に帰り、何の不幸もないごく普通の家庭生活を送る、他人から見れば凡庸で、何の面白みもない人生だろう。

 クロ自身でさえこうした生活に退屈を感じることはある。何しろ犬だった頃の彼は強く、賢く、群れのトップであったのだし、いつ命を失うかわからぬ緊張感の中で生きているというのは、やはり……一日を生き延びた後で床につくとき、生の大切さを肌で感じる生き方でもあった。

「なんのために生きてるんだろうな、俺は」

 肩先に止まった花びらをつまみあげながら、軽く鼻先で笑う。

 彼は自分の半生を桜のようだと思った。

「パッと咲いて、パッと散る……か」

 派手に生きた盛りはすでに過ぎた。あとは花降りのように静かに、音もなく地面に花びらを散らす。それは誰にかえりみられることもなく風に吹き散らされ、雨水に洗い流されてやがては土くれの一塊と化して紛れて見えなくなってしまうのだろう。

 そう思いながら視線をあげたクロは、桜の下をゆっくりと歩いてくる女に気が付いた。片手を幼子とつなぎ、子供を宿した腹を大事そうに抱えて歩く女は……

「サクラ!」

 夫の呼ぶ声に、彼女は顔を上げてにっこりとほほ笑んだ。

「お帰りなさい、クロ」

「なんでここに?」

「天気もいいから、ウメのお散歩ついでにクロをお迎えに来たのよ」

「そうか……」

 花降りの下で見る彼女は特に美しい。色白の肌は、よく見れば乳白に本の一滴の紅を落としたようにうっすらとした桜色をして、それが彼女の宿した生命までを内包する女の強さだと思えば何よりも愛おしいものなのだ。

 この妻こそが、花だ。その名の通り、寒風の季節を耐えて心地よい春風の到来を告げる花を咲かせる、桜の花だ。

 だからクロは彼女の隣で生きる今の生活がひどく気に入っている。たとえ凡庸で、物語になるような盛り上がりなど何もなく、ふと昔の強い闘争本能が疼くようなことがあっても、絶対に手放すことのできない平穏なのだ。

「サクラ、お前は本当にきれいだな」

「な、なに? 急に?」

「いや、たまにはきちんと言っておこうと思ってな」

「う? うん」

「俺は物語になるようなドラマチックな人生より、お前のそばで静かに過ごすほうが好きなんだ」

 彼の妻は少し首をかしげて、それからにっこりとほほ笑んだ。返事は、ひどく短い言葉だけだった。

「うん」

 夫婦なんて実際にはこんなものである。ドラマチックで大仰なセリフなどなく、ありきたりな会話があるだけ。

 それでも心が通い合うのは、隣にいるからだ。顔を突き合わせて二人で同じものを見ているからだ。

 ざあっと、強い風が吹いた。樹上から、道の隅にできていた花溜まりから、巻き上げられた花びらたちが宙を舞う。

 それに対する夫婦の言葉はやはり短く、そして同時であった。

「……きれい」

 それから二人は顔を見合わせてクツクツと笑う。幼いウメは両親の様子を見てにこにこと笑っている。

 ただ静かなだけの春がここにはある……

「帰ろうか、サクラ」

「はい」

 たったそれだけの何気ないやり取りに、クロの心は震える。

 灼けつくような生への執念と緊張感は桜の一花に似て美しい、が、ただそれだけだ。

 サクラと過ごす日々は桜花咲き乱れる季節に似て優しい。静かに音もなく陽光降り注ぎ、花散る午後のそれに似ている。

 そして静かな桜花たちは無為に花散らすわけではない。あれらは受粉を済ませ、実を結ぶ時を待って花散らすのだ。

 そう、受粉を済ませた花たちは『次の季節』を待つ力を秘めている。それはまるで繰り返しに似た生活がささやかな喜びのつながるかのように、幸せな未来への力を身の内に秘めて、最盛期を散る形で終わるのだ。

 これから先、楽しいことなどいくらでも待っているだろう。それもありきたりな形で。

 ウメは成長して彼なりの幸せを掴むのだろうし、これから生まれてくる子供たちも同じだ。

 その時に父親は……ほんの少しの寂寥を感じるのだろう。それが幹肌を離れる花びらに対する幹肌の恋慕に似た感情であろうことは知っているが、それだけはどうしても禁じえないだろう。

 だが、それだって特に生死にかかわるような大事件などではないことは知っている。極ありきたりな日常の延長があるだけだろう。

「結局、それが一番の幸せだよな」

 物語になど成りえない凡庸が何よりも愛おしい。

「俺は、一番ほしかったものを手に入れたのかもな」

 花は一時、咲き誇ることしかできない。しかし花は実を結んで次の物語へと命をつないでゆく。

――ああ、人生というのはやはり桜花のようなものだ

 ワンシーズンだけを見ればただ散り行くだけだが、葉桜の夏を、そして沈黙の秋冬を耐え忍べば再び花咲く季節が巡りくる。それは派手、地味にかかわらず大事な人生の積み重ねで、きっと終焉の桜を咲かせるその日まで、花降りは止まることなどない。

 だからこそ、この凡庸な日々を、危険と隣り合わせの過去と引き換えにするつもりが起きないのだ。

「サクラ、晩飯はなんだ?」

 夫の言葉に応える彼女はやはり簡潔で、日常会話の域を出ない。

「ハンバーグにしたの。もちろんたまねぎ抜きで」

「目玉焼きも乗っけてくれよ」

「クロ、それ、好きねぇ」

 本当にくだらない、文字に書き起こす必要などありはしない、ただの日常だ。静かに消費されるだけの、実に無駄な時間だ。

「ウメ、とうちゃが抱っこしてやろうか」

 クロの呼びかけに幼子が大喜びで飛びつく。もしかしたら今日のこの抱っこが記憶に残ることなどないのかもしれない。

 だが、無駄ではないと知っている。

「ウメ、抱っこと肩車、どっちがいい?」

 こうしたくだらない茶目っ気は、いつ、どこでというはっきりした『記録』ではなくて記憶としてこの子の心に刻み込まれることだろう。

 それこそが花の役割……クロは満開の桜を今一度見上げて呟いた。

「本当に……きれいだ」

 それが花に対する素直な賛辞なのか、彼の人生に対する暗喩なのかを知る者はいない。

 記録ではなく、記憶に残るのが桜……ならばこれからの彼の人生もきっと桜のように……

 

花降る日の、物語にすらならない、とりとめない日常の中での出来事であった。



今回、お別れのお話を書いたのには理由があります。

以前からこの作品のお気に入り数がキリのいい数まで行ったら、どこかの賞に挑戦しようということでした。

このたび、その目標を達成したので素体番号111を手入れ改稿し、どこか賞に投下しようと思います


まあ、あざとーのことなので記念受験的な・・・・・・たぶん泣きながら戻ってくると思うので、その時は温かく出迎えてくださいね♡


来年年明けとともにこの作品は非公開、もしくは削除いたします。お手数ですがPDFダウンロード、お気に入り外し等よろしくお願いいたします。

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