22 プロローグ
――神の背に這うこともできない人間は、寝返りの震えを地震と呼び、体温の息吹を火山と恐れる。
気候の巡りも資源の恵みも、ただ大地という巨躯の「体調」がもたらす揺らぎに過ぎない。
人が捧げる祈りは蚊の羽音に満たず、神が応じる言葉は大陸を砕く災害となる。
絶対の断絶に閉ざされた世界で、人々はその肉体の上にも行けず、ただ静かに貪り生きている。
祝福を受けた蟻は豊かな地『森林』で繫栄し、裏切りの人々は砂漠へ追いやられた。
――カレン教聖典より抜粋
◇
朝日が差し込む静かな朝。ホテルのベッドで目を覚ましたシエンは、上体を起こしたまま、昨日アシ牧場で起きたあまりにも奇想天外な出来事を思い出して深く思案に暮れていた。
「えーっと。よろしくーアズキ」
シエンは目の前に立つ栗色のくせっ毛の少女に、少し緊張しながら自己紹介をして右手を差し出し、握手を求めた。
「あー?」
だが、アズキは握手に応じる代わりに、シエンの顔をじっとのぞき込むようにして少し前かがみになり、ぽかんと口を大きく開けて妙な反応を返してきただけだった。
「え?」
少女の意図が全くわからない予想外の行動に、差し出した手のままシエンの身体は完全に固まってしまう。すると、後ろからエルウイがシエンの肩へと静かに手を置いた。驚いて振り返るシエン。
「シエン…アズキは言葉を知らなくてしゃべれないのだ。アスキに言葉を教えてくれないか」
普段の軽妙な調子とは打って変わり、エルウイは真剣そのものの真顔でそんな無理難題を頼み込んできたのだ。
「なんという無茶振り」
それが、昨日の牧場で交わされた信じられないやりとりのすべてだった。シエンはホテルのベッドの上で、やりきれない頭を抱えて重いため息をつく。
「つまり。言語障害の女の子を『森林』に連れていくってことだろー」
「わざわざ軍使わなくても民間にでも頼めばいいやんかー」
背後に渦巻く皇子の暗殺計画や人脳器を巡る国家規模の謀略など、エルウイが重要な核心を何一つ説明していないのだから無理もない。シエンはアズキという少女がどれほど世界を揺るがす重要性を持っているのか、この時点ではまだ何も理解していなかった。
「あっ、そっか!」
ぶつぶつと文句を並べていたシエンが、突然何かを閃いたように顔を跳ね上げる。
「ルーブランドの壁門は軍管理だった orz」
ルーブランドの壁門――それは人間が管理する世界の境界線であり、先の戦争に勝利したモトラ軍が現在厳重に直轄管理している絶対的な関所だ。民間人にアズキの護送など到底不可能なのだと気づき、シエンはがっくりと項垂れた。
そうして一人で激しく考えを巡らせていたシエンの耳に、突然客室のドアを叩く規則正しいノックの音が響いた。
「入るぞ」
返事をする間もなく、私服姿のエルウイが室内へと入ってきた。
「職安に行くぞ」
これからの過酷な旅路を前にしているとは思えないほど、エルウイはどこか爽やかな、清々しい顔でそう言っている。
「えっ? 無職!?」
騎士団長ともあろう男の口から飛び出したあまりに世俗的な単語に、シエンは呆然と声を裏返した。度重なる意外な事実の連続に、少年の頭はとうとうついていけなくなる。
そんなシエンの無礼な驚きに対し、自分が無職であることを断固として否定するように、エルウイの男前な表情はあからさまにムッとしたものへと変わっていた。




