第三話 教会の少女
少女の瞳は、薄紫だった。銀色の髪の奥から、こちらを見ている。
怯えている。だが、泣いてはいない。
ゴーストは銃を下ろしたまま、ゆっくりと手を上げた。敵意がないことを示すためだった。
「大丈夫だ。何もしない」
言葉が通じるとは思っていない。それでも、そう言った。
少女は小さく息を呑み、白い布を胸元で握りしめる。尖った耳が、わずかに震えていた。
ジャックはまだ銃を下ろしていなかった。
「ゴースト、下がれ」
「子供だ」
「子供の形をした罠かもしれない。怪物かもしれないぞ」
ジャックの声は低い。
怒っているわけではない。警戒している。
ここがどこかも分からない。月は二つある。外には緑の小鬼と、丸太を振り回す怪物がいる。
もう、何を疑ってもおかしくなかった。
目の前の少女が安全だと決めつける理由はどこにもなかった。
だが、ゴーストは動かなかった。
少女が、何かを言った。
短い言葉だった。
柔らかい響き。聞いたことのない発音。英語でも日本語でもない。
ウィルが眉をひそめる。
「……今の、何語だ?」
「分かりません」
ゲイルが答えた。
「少なくとも、僕が知っている言語ではありません」
少女は怯えた目で四人を見回した。ジャックの銃。ウィルのショットガン。ゲイルの拳銃。そして、ゴーストの血に濡れた服。
その視線が、ゴーストの肩で止まった。
倉庫で撃たれた傷。応急処置をする暇もなかった。服の下で血が固まり、動くたびに熱い痛みが走っている。
少女は白い布を握ったまま、そっと寝台から降りた。
「動くな」
ジャックが警告する。
少女はびくりと肩を震わせた。
ゴーストは片手を上げたまま、首を横に振る。
ジャックの銃口は、まだ少女を捉えていた。
ゴーストはその銃身に手を添え、静かに下げた。
「銃を下げろ」
「近づけるな」
「下げるんだ」
短い沈黙。
ジャックは舌打ちしそうな顔をしたが、引き金には指をかけなかった。
少女はゆっくりとゴーストへ近づいた。
裸足だった。
教会の床に、小さな足音が落ちる。
ゴーストの前で立ち止まり、ゴーストは腰を落とし、少女と目線を合わせた。
少女は震える手を伸ばした。
その指先が、ゴーストの肩に触れる。
次の瞬間、淡い光が生まれた。
朝日のような、柔らかい光だった。
ゴーストの肩の奥で、心地よい熱が広がった。
痛みが消えたわけではなかった。
だが、裂けていた肉が内側から閉じていく感覚があった。焼けるような痛みが、鈍い重さへ変わる。流れていた血が止まり、服の下で傷口が塞がっていく。
ウィルが息を止めた。
「おいおい……マジかよ、魔法ってやつか?」
ゲイルも言葉を失っていた。
沈黙を破ったのは、またウィルだった。
「誰かツッコミ入れてくれよ……え? マジなのか? マジックじゃなくて魔法なのか?」
ジャックだけが、一歩踏み出す。
「何をした」
少女は答えない。答えられない。言葉が通じていないのだ。
ただ、光が消えると、小さく息を吐いた。膝がわずかに揺れる。立っているだけで少し辛そうだった。
ゴーストは自分の肩に触れた。
血はまだ服についている。
だが、傷は塞がっていた。
『これで痛くないよお兄ちゃん』
昔の記憶が少しだけ蘇る。
ゴーストは、すぐに切り替えて今に集中する。
体の重さは消えていない。背中の傷も焼けるように痛む。疲労も、痛みの記憶も、そのままだ。
だが、出血は止まっている。
「……治したのか」
ウィルの声が、いつもより低かった。
少女はゴーストを見上げた。言葉は分からない。けれど、何かを確認するように、心配そうに眉を寄せている。
ゴーストは自分の背中には触れなかった。
かわりに、長椅子に寝かせた子供を指差した。
少女が振り向く。
檻にいた子供。
泥と血にまみれ、薬で衰弱しきった小さな身体。
呼吸は浅い。まだ生きている。
だが、それだけだった。
ゴーストは少女を見る。
「こいつを」
通じない。
だから、ゴーストは自分の肩を指差し、次に子供を指差した。
少女は一瞬だけ目を丸くした。
そして、理解したように小さく頷いた。
ジャックが低く言う。
「ゴースト、先にお前の背中を治してもらえ」
「後だ」
「後じゃない」
「この子が先だ」
ジャックは口を閉じた。
少女は長椅子のそばに膝をついた。
子供の頬に触れる。次に、腕の注射痕に触れる。細い眉が苦しそうに歪んだ。
また、光が生まれた。
今度は少し弱い。
少女の手のひらから流れた光が、子供の体に染み込んでいく。
青白かった唇に、わずかに血色が戻る。荒かった呼吸が、少しだけ落ち着く。
腕の腫れが引き、薬で震えていた指先が、ゆっくりと静かになった。
だが、子供は起きなかった。
目も開けない。
ただ、死にかけていた呼吸が、かろうじて生きる呼吸に戻っただけだった。
少女の身体がぐらりと傾く。
ゴーストが咄嗟に支えた。
少女はゴーストの腕の中で、苦しそうに息をした。魔法を使ったせいか、額に汗が浮いている。
「無理をするな」
ゴーストが言った。
言葉は通じない。
だが、声の調子は届いたのか、少女は小さく首を横に振った。
そして、自分の口元に手を当てた。
何かを食べる仕草。
「ん?」
それから子供を指差す。もう一度、口元に手を当てる。
ゴーストはその意味を理解した。
「……食わせろ、ってことか」
少女は頷いた。
ジャックが子供を見る。
「傷と麻薬の影響はどうにかなっても、衰弱は治せないということか」
「体のヤバいもんも消せんのか? ならオレのも消してくれよ。レッドブル飲みたくてたまんねぇんだ」
ウィルが笑おうとした。だが、うまく笑えなかった。
子供は生きている。
けれど、助かったわけではない。
子供の身体はまだ軽い。
生きるには、水がいる。食べ物がいる。眠る場所がいる。
傷が塞がっただけでは、命は続かない。
ゴーストは携帯していた水筒を取り出し、まず少女に渡した。
それから子供の唇を濡らすように、ほんの少しだけ水を含ませる。
飲み込めるかを確かめてから、もう一度、少量だけ与えた。
「非常食、誰か持っているか?」
「水以外ない。短期間で終わる予定だったからな」
ジャックは窓を確認しながら言う。
「すみません。僕もです」
「ここに旅行する予定だったら、ビッグマックセットを持ってくる予定だったんだがな」
「ウィル、状況分かってるよな?」
「サーイエッサー」
ジャックは短く注意して、ため息を吐いた。
「今はここを確認する。メシは安全を確保してからだ。ゲイル、お前はそっちを警戒してくれ。ゴーストとウィルは、ここに何か使える物があるか探してくれ。バリケード、武器になりそうな物なんでもいい。静かにな」
ゲイルは残弾を数え、窓の外を確認する。
教会の外では、まだ怪物たちの声がしている。
近い。さっきより近い。だが、扉を叩く音はない。
見えていない。
少なくとも、正確には認識できていない。
「こっち側は数体いるな。そっちはどうだ?」
ジャックがゲイルに尋ねる。
「……妙ですね」
ゲイルが呟く。
「何?」
「連中、この辺りまでは追ってきたはずです。それなのに、この教会の中を探そうとする様子がない」
外にいる怪物たちは、教会に入ろうとせずに周囲を探索し続けている。
「何故、外を探しているんでしょうか?」
「この教会が見えねぇんじゃね?」
ウィルが言う。
「お前のメガネを貸してやれよ。そしたら襲いかかってくるぜ」
「黙れ。ヤツらに気づかれる」
ジャックが注意する。
ゲイルがため息をついて、礼拝堂を見回した。
「……やはり妙だな」
外から見た教会は、古びていた。蔦に覆われ、石壁は汚れ、扉も色を失っていた。
だが中は違う。
古い。古いのに、荒れていない。
床には埃が薄く積もっているだけ。長椅子も朽ちきってはいない。祭壇の布は色あせているが、破れてはいない。
そして、何年も放置された建物にしては、傷み方が奇妙だった。
しかも、長椅子の近くには、教会のものではない瓦礫が転がっている。
焦げた金属片。半壊した木箱。倉庫で見た弾薬箱の破片。
教会の古さとは、明らかに噛み合っていなかった。
ウィルは長椅子を動かす。
「バリケード増やすぞ。ドアが開いたら笑えねぇ」
椅子の下から、金属音がした。
ウィルが視線を落とす。
「ん?」
汚れた銃があった。
ウィルはそれを拾い上げる。細長い鉄の筒。安っぽい作り。古い木箱の陰にでも紛れていたのだろう。
「マジかよ。ステンMk IIか! なんでコレがここに?」
ジャックとゲイルが振り向く。
「使えるか?」
「確認する」
ウィルはボルト周りを見て、顔をしかめた。
「ダメだ。こりゃあ整備がされてねぇ。中が死んでる。撃ったら敵より先にこっちが死ぬかもな」
「なら捨てろ」
「本体はな」
ウィルはマガジンを抜いた。
手の中で弾を確認する。
「でも弾は使える。九ミリだ」
彼は一本ずつ弾を抜き始めた。
「しかし何でこんな所にサブマシンガンがあるんだ?」
「そのサブマシンガンは倉庫にいたテロリストが、持っていましたよ」
ゲイルは窓を見て警戒しながら言った。
ウィルは手を止めて、ゲイルの方を向く。ジャックもゲイルの方を向いた。
「どういう意味だ?」
「言葉通りです。倉庫にいたテロリストが持っていました。その男は僕が撃ちました。倒れる瞬間まで、その銃を握っていたはずです」
「ホントかぁ? 見間違いじゃねぇのか?」
少し笑いながら、ウィルは言う。
「間違いありません。僕は覚えるのは得意なので」
「じゃあ何でコレがここにあんだよ」
ウィルは、弾を抜く作業を再開して言う。
「分かりません」
「なんだよそりゃあ」
「じゃあウィルは分かるのですか? 説明できます?」
「マンガやアニメだったら、異世界転移ってヤツだな」
「……はぁ。今はジョークを検証する余裕がありません」
「やめろお前ら。静かにしろ。分からない事は安全になってから考えろ」
ジャックは呆れつつ注意する。
「一、二、三……十二発。神様はケチだな」
ウィルは抜いた弾をゴーストに渡す。
「ほらよ。お前にやるよ。オレにはこれ(グロック)があるからな」
ウィルは腰のグロックを軽く叩く。
「心配すんな。弾はまだある。……どこにって? 男には最後の二発が残ってるだろ?」
「ウィル。今すぐ黙れ。黙らないとその二発はスクランブルエッグだ」
ジャックの声が低くなった。
さすがにウィルは口を閉じて、ゴーストに弾を渡した。
ゴーストは片手で受け取った。
十二発。
多くはない。
だが、今は一発でも助かる。
ゴーストは血で濡れた手袋を軽く拭き、残弾の少ないマガジンへ弾を押し込んでいく。
一発。
二発。
三発。
金属の小さな音が、静かな教会に響いた。
四発目を押し込んだ時、空気が、震えた。
誰も声を出さなかった。
色あせたステンドグラスの表面に、ひび割れのような光が走った。風はない。なのに、祭壇の布がわずかに揺れる。
外の小鬼たちの声が、ぴたりと止まった。
ゲイルが窓へ顔を向ける。
「……外の動きが変わりました」
ジャックが銃を構え直す。
「こっちもだ。ヤツらの動きが止まった。そっちは?」
「こちらも同じで、止まっています。全員ではありませんが、かなりの数が」
ゲイルはバリスティックグラスの角度をわずかに変えた。
その奥の目が、森の暗がりを捉える。
「大型の怪物もいます」
丸太を持った巨大な怪物が、木々の間にいた。
叫んで暴れている。小鬼を丸太で叩き潰したり、木を薙ぎ倒したりとかなり苛立っている。
だが突然、動きを止めた。
不自然な止まり方だった。
獣が音に気づいた時の反応ではない。
自分たちに気づいた動きでもない。
何かに止められてるような……そう見えた。
操り人形の糸が一瞬だけ張ったように、ぴたりと止まっていた。
巨大な怪物の首だけが、ゆっくりと動く。
教会へ向いた。
ゲイルの喉が、小さく鳴った。
「……おかしい」
「どうした?」
「あれは見えていないはずです」
巨大な怪物の目は濁っていた。焦点が合っていない。口から涎が垂れ、肩が不自然に上下している。
それなのに、手の丸太だけを持ち直した。
教会の窓へ。
「!!」
まっすぐ。
ゲイルが叫んだ。
「伏せろ!!」
直後、巨大な丸太が飛んできて、教会の壁に直撃した。
石壁は砕け、ステンドグラスが割れ、長椅子が吹き飛んだ。
礼拝堂の横に、外の森が見えるほどの穴が開いた。
砂埃が一気に流れ込む。小さな石片が床を跳ね、割れたガラスが雨のように散った。
ゴーストは反射的に少女と子供の前に出た。
背中の傷が開くように痛む。
だが構わない。左腕で少女を庇い、右手でUSPを抜く。
ジャックが怒鳴った。
「ゲイル! 生きてるか!」
瓦礫の向こうから咳き込む声がした。
「……生きています。瓦礫で頭を打ちましたが、少し血が出る程度です」
「動けるな?」
「はい」
ウィルが青ざめた顔で立ち上がる。
「な、なにが……」
その声は、一瞬だけ素だった。
すぐに、いつもの軽口で塗りつぶす。
「ゲイル。お前の本体、割れてねぇだろうな」
ゲイルは砂埃を払いながら、バリスティックグラスの位置を直した。
「こっちは平気です。あなたの減らず口も無事みたいですね。残念です」
「おう。オレのチャームポイントだからな」
笑っている。
だが、ウィルの指は硬くなっていた。
ゴーストはそれを一瞬だけ見た。
「……」
ゲイルが瓦礫の向こうから視線を向けた。
「ゴーストさんは無事ですか」
「……ああ」
ゴーストは銃を構える。
外から、声がした。
小鬼の甲高い声。
さっきまで、教会の周りで迷っていた声ではなかった。
見つけた声だった。
崩れた壁の向こうで、黄色い目が光る。
一つ。
二つ。
三つ。
さっきまで、ここを見つけられなかったはずの目。
それが今、確かに礼拝堂の中を見ていた。
一匹が、耳障りな声で叫ぶ。
次の瞬間、森の奥から無数の声が返った。
ジャックが銃を構える。
ゲイルが割れた窓の向こうを睨む。
ウィルが笑おうとして、失敗した。
銀髪の少女は、衰弱した子供を抱えるようにして震えている。
ゴーストは、二人の前に立つ。
怪物たちが来る。
教会は、もう隠れていなかった。




