第7章 おあとがよろしいようで
可志楽さんと会わなくなってから、一年が過ぎた。
季節は一巡したはずなのに、私の心はずっと冬のままだった。
落語会には行かなくなった。
川沿いの遊歩道で彼を待つこともなくなった。
最初は、ただ時間が余るだけだった。
でも、時間の隙間に何を埋めこんでみても、胸の奥にぽっかりと空いた穴は埋められなかった。
落語の音源を再生しようとして、スマホを手に取ってはまた置く。
彼の声を聞いたら、胸の穴が拡がって私を飲みこんでしまうような気がした。
こんなはずじゃなかったのに……。
私はただ、彼の落語が好きだった。
でも気づいたら、彼自身を好きになっていた。
そして可志楽さんは、その想いを受け入れなかった。
——いや、受け入れないようにしていた。
彼は、深入りしないようにと私に言った。
私が踏み込もうとしたら、静かに距離を取った。
やっぱり、"独身キャラ"を守るため?
それとも、私のことなんて、そもそも何とも思っていなかった?
答えはわからないままだった。
そんなある日──。
仕事からの帰り道、不意に誰かに腕を引かれた。
「おい、久しぶり!」
息を呑む。
可志楽さんだった。
「どうして?」
「そろそろ潮時かも」
「……どういう意味ですか?」
「いやぁ、『もう会いません』って言われたけどさ、そうはいかないよ、っていう意味」
「……なにそれ」
彼は困ったように笑った。
「俺、あなたに恋しちゃったかもしれない」
一瞬、言葉の意味が解らなかった。
「冗談ですか?」
「冗談だったら、わざわざこんなところで待ち伏せなんかしないよ」
「でも、可志楽さん、"独身キャラ"って……」
「そうだよ。でも、それは"キャラ"だから。俺の本当の気持ちは、それとはまた別の話なんだよ」
「……ずるいですよ」
「そうかもね」
可志楽さんは苦笑して、少しだけ視線を落とした。
「俺、こういうの苦手だからさ…"付き合おう"とか、"これからずっと一緒に"とか、そういうのは言えない。でももし、あなたがそれでもよければ……」
彼は私をまっすぐに見た。
「……好きになっても、いいか?」
心臓が跳ねた。
ずっと聞きたかった言葉。
ずっと、望んでいた言葉。
でも、それは"普通の恋"ではなく、きっとまた"秘密の恋"。
それでも——。
「……いいですよ」
私はそう言って、そっと笑った。
「咳、しないの?」
彼が少し怪訝そうに聞く。
私は泣いていた。
「そっか……言葉に出さなくても伝わる時には、咳出ないんだね?」
可志楽さんはそう言って、手拭いを渡してくれた。
私はこくりと頷き、可志楽さんの手拭いで涙を拭いた。
そして、私たちは歩き出す。
「おい、そこ、段差!」
わかっている。
わかっているけれど──。
「可志楽さんに夢中で転びそうですよ」
私が言うと、彼はふっと少しだけ笑った。
「やっぱりあなたは面白い」
彼はそう言って、何事も無いように歩き出す。
私はただ、隣で歩幅を合わせる。
堂々と手を繋ぐことはできなくても……
確かに繋がっている、その距離を感じながら。
——おあとがよろしいようで。(完)