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恋文  作者: キヨモ
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05. 置き去りの夢

 秋は、密やかにやってくる。何もかもが唐突な夏のはじまりに比べ、ふと気づけば、空の色や風の匂いが変化しているのだ。

 夏と秋の間にあるその日も、わたしは図書館で卒論の資料を集めていた。窓際の席には、太陽の光が差し込んでいる。わたしは手元の資料から顔を上げると、大きな窓の向こう側に佇む桜の木に目をやった。ついこの間まで蝉が住み処とし、呆れるくらいの大音響を聞かせてくれていたのだが、いつの間にかいなくなってしまったようだ。



「桜子さん」

 ぼんやりと外を眺めていると、聞き慣れた声がわたしを呼んだ。振り返ると、予想通りの人物が五冊の本を抱えて立っていた。

「久しぶり」

 楓と会うのは、二週間ぶりだった。約束をしているわけではないので、会えない時はなかなか会えない。わたしが目の前の席をどうぞと指し示すと、彼はどうもと笑って椅子を引いた。

「図書館の中で会うなんて珍しいね」

 ふと思いついて、わたしは言った。楓の指定席は、ガラス窓を隔てた先に立つ桜の木の下だ。

「確かに桜子さんと会うのは、あの桜の木の下のベンチばかりだね。でも、結構ここで過ごすことも多いよ。あそこと同じくらいこの場所も好きだから」

「そりゃあ本好きなら図書館も好きだろうけど、いつも外で会うから屋外の方が好きなのかと思ってた」

「季節の変化を肌で感じながらの読書は好きだよ。だけど、紙とインクの匂いに包まれたこの場所で過ごすのも、最高の贅沢だ」

 そう言うと、楓は本当に幸せそうに笑った。


「桜子さんは、今日は面接じゃないの?」

 楓がわたしの水色のワンピースを見ながら尋ねてくる。もうそろそろ爽やかな色合いが似つかわしくない季節になってきたが、昼間はまだ暑いので、ついつい涼しげな色のワンピースに手が伸びる。

「うん。今日は卒論の資料集め」

「そっか。スーツじゃない桜子さんはあまり見慣れてないから、ちょっと新鮮」

 そう言ってまじまじと見つめられると、少し緊張してしまい、わたしは何故かひとり赤面した。

「就活に卒論に、大変だね」

「うん。でも、マイペースにやることに決めたから。周りを見て焦っても仕方ないしね」

 そう思えるようになったのは、目の前にいる人物のおかげだ。

「楓は、相変わらずすごい読書量だね」

「目の前に、こんなにもたくさん本があるんだもん」

 ずらりと並ぶ本棚を見やると、楓がおどけたように肩を竦めた。そんな根っからの本の虫である彼は、一体何を読んでいるのだろうか。ふとわたしは興味を引かれ、目の前に彼が積んだ本に手を伸ばす。けれどもタイトルからして小難しそうで、そっと表紙を開いたもののすぐにぱたんと閉じた。そんなわたしを見て、楓が目を細めて笑った。


「あっ、野辺留一だ!」

 重ねられた中で一番下にある本の背表紙に目が留まり、わたしは思わず声をあげた。それは、わたしが最も敬愛する作家の最新作だった。

「これは僕の私物」

「野辺さんの小説も読むんだね。わたし、彼の大ファンなんだ」

 重ねて積まれた分厚い本をそっとどかすと、一番下にある文庫本を手に取る。自分が好きな作家の作品を、他の人が読んでいることを知って思わず声が弾んだ。

「僕の好きな作家さんが、彼のことを絶賛してたから読んでみた」

「あ、それわかる。好きな人が影響を受けたと言うものに、自分も触れてみたいと思うよね」

「うん。だからその人が好きだと言う本を、その人がしたように桜の木の下で読んでみたかったんだ」

 楓の言葉に、微かな熱がこもる。いつも冷静な彼のこういう姿ははじめて見るので、彼がここまで熱心に追いかける作家とは誰だろうかと、無性に興味が湧いた。

「ねえ、楓の好きな作家さんって誰?」

 ぱらぱらと捲っていたページを閉じると、わたしはそう尋ねた。

「内緒」

 にっこりと笑みを浮かべながら、あっさりと躱されてしまった。野辺作品に影響を受けている人なら、わたしも好きになる可能性が高い。少し残念に思って口を尖らせてみたけれど、やはり彼は微笑するだけで、わたしの手から文庫本を取り上げると大切そうに鞄の中にしまった。


「ところで、桜子さんは自分で何か書いてみようとは思わないの?」

「へ?」

 不意に思いついたように、楓が尋ねてきた。あまりに突拍子のない話題転換についていけず、わたしは思わず呆ける。質問の意味を理解するのにたっぷり数秒かけて、そのあと思い切り否定した。

「そんなの無理に決まってるじゃない」

 そう言って笑いながら、顔の前でぶんぶんと大きく手を振った。

 本当は、わたしは昔から小説家に憧れていた。自分で物語を作り出すことに、夢中になっていた。高校時代は文芸部に所属し、いくつかの作品も書き上げた。けれど、書くごとに自分の才能に限界を感じ、他人の才能に嫉妬して、努力することよりも諦めることを選んだのだ。

 そもそも、どこまで本気で作家を目指していたのかも、今となっては怪しいところだ。なのに、目の前の人物は、何故唐突にそんなことを言いだすのだろう。


「桜子さんも、いっぱい本読んでるでしょう? 自分もそんな世界を創り出したいとは思わないの?」

「それは、選ばれた人たちができるんだよ」

 わたしは言った。

「そうかな。書く資格は誰にだってあるよ。もちろん読者の心を揺さぶることができるのは、ごく限られた人たちだけだけど」

 わたしの言葉を、楓は柔らかく否定する。だけどわたしは彼の言葉には答えず、逆に問い返した。

「楓こそ、何か書かないの?」

「僕は、自分で生み出すことに興味はない。むしろ、誰かが創り出した世界を徹底的に調べて、すべてを知りたいんだ」

 きっぱりと、そう答えた。

「根っからの研究者だね」

 そこまで思われる人は作家冥利に尽きるだろうと、少し羨ましく思った。作品を愛されて、その背景を考察され、文章の奥に隠していた真のメッセージもすべて読み解かれる。

 ――書く資格は誰にだってあるよ。

 わたしは彼の言葉を、心の中でそっと反芻していた。



「サク」

 やがて会話が途切れる。ふたりの間の沈黙を破ったのは、わたしの名を呼ぶ親友の声だった。

「亜矢、来てたんだ」

 振り返って友の姿を認めると、わたしはひらひらと手を振った。

「うん、この間借りた本を返しにね」

「わたしも今日は資料集め。そっちは進んだ?」

「全然。借りた本も、殆ど役に立たなかったわ」

 大袈裟に溜息をつく亜矢に、わたしは苦笑いを漏らす。ちらりと楓を見ると、少し戸惑っているようだった。紹介した方が良いのかな、そう思った瞬間、亜矢が楓に向き直ってにこりと笑った。


「こんにちは、サクと同じ社会学科の渡部亜矢です。この間の彼だよね?」

 最後の問いは、楓とわたしの両方に向けられているようだ。楓は意味がわからないようで、何のことかとこちらに目で問いかけてくる。

「この前、学食から手を振ったことあったでしょ。あの時、一緒にいたのが亜矢」

 楓は記憶を辿るように視線を漂わせたのち、納得したように小さく頷いた。

「ああ、あの時の。どうもはじめまして、水森です」

 そう言って、楓はいつもの柔らかい笑みを亜矢に返した。

「ふたりは一緒にお勉強?」

 わたしの隣に腰かけた亜矢が、楽しそうに問いかけてくる。

「違うよ。さっきたまたま会ったの」

「僕が勉強してる桜子さんに声をかけて、邪魔したんだ」

 楓が、少し申し訳なさそうに言った。

「邪魔も何も、最初から勉強なんて進んでいなかったけどね」

 そう言って真っ白のレポート用紙を見せると、楓と亜矢が小さく吹き出した。


「さてと、じゃあ僕はそろそろ行くよ」

 そう言って手元の本を抱えると、楓が俄かに立ち上がった。

「え、ごめん。わたしなら気にしないで。これから就職課に行くし」

 慌てて亜矢が立ち上がる。

「いや、そうじゃないよ。もともとこれから用事があって、そろそろ出ないと間に合わないから」

 またねと言って、楓が笑う。わたしもまたねと、小さく手を振った。

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