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恋文  作者: キヨモ
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01. 葉桜の季節に

 わたしが彼と出会ったのは四月の半ば、新年度を迎えたキャンパスに初々しい緊張感が漂う頃だった。彼は図書館の裏手に立つ一本の桜の木の下でぼんやりと、いや、呆然とした様子で佇んでいた。

 わたしが通う大学の校内には桜の木が何本も植樹されており、特に校門から校舎まで連なる桜並木は見事で、毎年桜の花が咲く季節になると地元地域の人たちに開放してお花見を催している。そんなたくさんの桜の中でも、活気溢れるキャンパスの賑わいから隔離されたこの場所にひっそりと立つ桜の木が、わたしは一番好きだった。図書館の裏庭はきちんと手入れがされてベンチも置かれてはいるものの、大学の敷地の一番奥にあるせいかいつも人影がなく、わたしは好んでこの場所に来ていた。薄紅色に咲き連なる桜並木よりも、どこか控えめで清楚な美しさを醸し出しているこの桜を見ていると、何となく気持ちが落ち着くのだ。


 わたしは購買で買ったサンドウィッチとオレンジジュースが入ったビニール袋と文庫本を一冊手に持ったまま、しばし彼の後ろ姿を眺めていた。彼の視線の先にはすっかり葉桜となった枝がさわさわと風に揺れ、時折僅かに残った花弁を空へ舞い上げている。

 不意に、目の前の彼が振り返った。思い切り、目が合う。

 目を逸らすのも失礼な気がして、けれど見知らぬ人に話しかけられるほど社交的な性格でもなく、わたしは黙って小さく会釈した。


「終わったんだね」

「へ……?」

 彼が唐突に発した言葉の意味を瞬時に理解できず、わたしは思わず間抜けな声を発した。

「終わったんだね、桜」

 舞い散る薄紅色の花弁を名残惜しそうに眺めながら、彼はまるでひとりごとのように呟いた。

「先週の、入学式の前の水曜日くらいが見頃だったかな」

 わたしも彼と同じように桜の木を眺めながら、小さく答える。

「見に来てたの?」

 桜の木からわたしへ視線を移すと、彼は少し驚いたように問いかけた。

「まあね。わたしの家、すぐ近所だから」

 苦笑いを浮かべながら、そう説明した。

 三年前、大学進学のために田舎から出てきたわたしは、学校の近くにアパートを借りた。昔から桜が好きで、この桜の木を見つけた時にはここに入学して良かったと思った。だから、この桜が枝いっぱいに咲き誇るその瞬間を見逃したくなくて、春休みの間に何度か登校するのが大学生になってからのわたしの年中行事になっていたのだ。


「いいなあ」

 呆れた表情を見せられるかと思ったけれど、彼の口から出たのはわたしを羨む言葉だった。

「この桜を見るのを、ずっと楽しみにしていたのに」

 いつも自分はタイミングが悪いのだと悔しそうに呟くその表情は、最初の大人びた雰囲気とは違って少し幼く見える。

「新入生、じゃないよね?」

 わたしは一度口にした質問を、そのまま自分で否定した。彼の表情の変化が幼く見えたとは言え、さすがに数日前まで高校生だったとは思えない。けれど、在校生の発言にしても少し妙だ。

「まさか。れっきとした四年生だよ」

「じゃあ、わたしと一緒だ」

 わたしは思わず嬉しげな声を出した。同学年という共通項を見つけただけで、ぐっと親しみを感じてしまう。


「名前、何て言うの?」

「結城桜子」

 わたしがそう名乗ると、彼は少し驚いた表情を見せた。もっとも、その反応は珍しいものではない。亡き祖父がつけてくれた大袈裟な名前は、どこへ行っても珍しがられるのだ。

「桜子さんか。良い名前だね」

「サクでいいよ。桜子だと長いし、みんなそう呼んでるから」

 子供は人と異なるものを見つけると、すぐにからかいの対象とする。通常女子の名前は二文字か三文字だが、四文字あるわたしの名前は絶好のターゲットだった。大人にとっては些細なからかいも、子供にとっては繊細な問題だ。だからわたしは毎年新学期になると、新しくできた友達に“サク”と呼んでもらうように頼んでいたのだ。大学生ともなれば人の名前をからかうような者はいないが、友人の間ではサク呼びの方が定着していたので、家族以外から名前を呼ばれることは殆どなくなっていた。


「いや、省略したらもったいないよ。せっかく綺麗な名前なのに」

「でも、古風すぎるでしょ。二文字とかの方が可愛いじゃない?」

 異性に真顔で名前を褒められるのは、慣れていないのでどうにも恥ずかしい。照れ隠しもあって、わたしは小さく反論した。

「“桜”じゃなくて、“桜子”っていうのが良いんだよ。三文字が四文字になるだけで、桜の花そのものだけじゃなく、桜が持つ悠久の美しさとか神聖さとか、そういうものを含んでいるような感じがする」

 わたしは、彼の顔をまじまじと見つめていた。今まで自分の名前に、これほど美しい価値をつけてくれた人はいただろうか。

「ご、ごめん。何か熱弁をふるってしまって……」

 我に返ったのか、彼は急にしどろもどろになった。

「ううん、ありがとう」

 頬が火照るのを感じながら、小さくお礼を言った。


「ねえ、あなたは?」

 少しの沈黙のあと、わたしは彼の名前をまだ聞いていないことに気づいた。

「水森楓」

「楓……。じゃあ、あなたは秋なんだね」

 わたしがそう言うと、彼は穏やかに笑った。

「桜子さんと、反対にある季節だよ」

「桜子で良いよ」

「じゃあ、桜子」

 ためらいがちに、彼が呼ぶ。身内以外が呼ぶ自分の名前が、少しくすぐったい。

「そう言えば、楓くんは国文科なの?」

「楓」

「楓は、国文科?」

 わたしを真似るかのように悪戯っぽく笑いながらそう訂正した彼は、どうしてそう思うのかと逆に問い返した。

「だって、言葉へのこだわりがあるみたいだから」

「そう?」

 不意に、風が吹き抜けた。咄嗟に、乱れた髪を抑える。

 薄い緑の葉がさわさわと揺れ、柔らかな花弁が白く霞む春の空へ高く舞い上がった。



 それが、わたしと楓の出会いだった。

 けれどもそれから暫くの間、わたしは何度も図書館裏のその場所を訪れたけれど、楓と会うことはなかった。

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