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恋文  作者: キヨモ
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14. 告白

「久しぶりだね」

 これまで何度もこの桜の木の下で、偶然顔を合わせた。その時とまるで同じ声音で、表情で、楓はわたしに笑いかけてきた。

「……」

 わたしは挨拶を返すことも忘れ、ゆっくりと近づいて来る楓の姿をただ呆然と見つめていた。


 会いたいと願っていた。あの夜以来、ずっと。

 そんな願いと晴れない疑惑が心に渦巻いていたけれど、卒業後もこの桜の木の傍にいられる権利を得る為に、わたしはとりあえず大学職員の採用試験に集中した。彼の方へと傾きそうになる意識を修正しながら臨んだ面接でようやく内定を掴み取ると、誰よりも彼に伝えたいと思った。

 けれどもわたしの携帯に登録された番号が、彼に繋がることは二度となかった。本当は電話をかける前から、繋がらないということは予感していた。あの日、あの列車事故の夜から、それはわかっていた。いや本当は、いつか彼との連絡が途絶えてしまうだろうということに、最初から気づいていたのかも知れない。


「そんな幽霊でも見るような目で見ないでよ」

 苦笑いを浮かべながら、楓はわたしの隣にそっと腰かけた。

「だって、幽霊みたいなものなんだもの」

 小さく零れた言葉は、思わず詰るような口調になってしまった。

 わたしはこの人のことを何も知らない。出身地も、家族構成や交友関係も、何を専攻しているのかさえ知らない。いつも穏やかな空気を纏っている彼は優しくて、けれども出会った頃からどこか見えない壁を築いているように感じられた。だから彼について深く知ることは躊躇われて、それらは瑣末なことに思えて、ただ彼の隣の居心地の良さに満足して壁を壊すことを放棄していたのだ。

「……ごめんなさい」

 詰ったその瞬間に後悔して、わたしは弱々しく謝罪の言葉を口にした。


「おめでとう」

 僅かな沈黙のあと、楓の口から零れたのは意外な言葉だった。

「え?」

 思わず楓を見つめ返す。彼は柔らかな表情でこちらを見ていた。何についての祝いの言葉かも、何故それを知っているのかも、わたしは楓に尋ねはしなかった。代わりに、淡い願いを込めて彼に問いかける。

「春からもまた、この場所で会えるよね?」

 大学職員と大学院生というように立場は変われど、春以降も活動する場所がこの大学であることは変わらない。卒業してからも、この桜の木の下で会うことは叶う筈なのだ。

「……」

 穏やかに微笑んでいた楓が、そっと目を伏せた。

「会えるよね?」

 もう一度問いかけたわたしの声は、小さく震えていた。ふたりの間を、冷たい北風が吹き抜ける。空は青く晴れ渡っているけれど、空気は凍えるくらいに冷たかった。


 どれくらい沈黙が流れただろうか。大学の敷地の一番奥で、尚且つ図書館の裏手に位置するこの場所は、いつも静寂に包まれている。今この時も、まるで世界から切り離されたかのように無音だった。

「……あなたは、誰?」

 ついにわたしは、これまでずっと喉の奥に押しとどめていた疑問を口にした。楓が伏せていた視線を上げる。わたしたちは無言でただ見つめ合っていたが、やがて彼は小さく白い息を吐いた。

「水森楓、文学部国文科の四年だよ」

「嘘、嘘っ!」

 わたしは思わず、楓の腕を掴んだ。


「嘘じゃないよ。学籍番号は、桜子さんよりも三桁くらい多いかもしれないけど」

 わたしはその意味を理解する為に彼の言葉を脳内で反芻しながら、濃い茶色の瞳をじっと凝視していた。楓はそっとわたしの手を離すとゆっくりと立ち上がり、桜の木へと近寄って行った。

「この桜を見に来たんだ、未来から」

 愛おしそうにその幹を撫ぜると、楓は静かにそう告げた。わたしは呼吸をすることも忘れて、桜の木に触れる楓の姿をただ茫然と眺めていた。


「僕はれっきとしたこの大学の学生で、国文科に所属している。言い訳をさせてもらえるとするならば、桜子さんに嘘はついていないよ。卒業後に院へ進むのも本当。ただ、すべてを伝えてはいなかったけどね」

 淡々と告げると、楓は寂しげに笑った。

「僕の生きる時代には、この桜は老いて花をつけられなくなっていて、だから僕はこの桜が咲き誇る姿をこの目で見てみたかったんだ。そしてこの木の下で季節の移ろいを感じながら、本を読みたかった。僕の敬愛する作家がそうしたように」

「敬愛する作家?」

 この桜の木が花を咲かせなくなるという未来に痛みを感じながら、わたしは楓に問いかけた。喉の奥から零れ出た声は、小さく掠れていた。

「桜子さんの知らない人だよ。この時代には、まだデビューしていない」

 わたしは知らないと言われ、ぐさりと傷つく。楓が言葉を紡ぐたびに、その距離がどんどんと広がってゆく。落ち込みながらもわたしは、ふとあることを思い出した。

「もしかして、野辺留一も?」

 わたしが小さく尋ねると、楓は少し驚いた表情をして、それから肯定を示すように頷いた。

「その作家が最も尊敬していたのが、野辺留一だった。この大学出身であるその人は学生時代にこの桜の下で、このベンチに座って、野辺作品を読み漁ったらしい。僕の研究対象はその作家なんだ。憧れの人と同じように同じ場所で、同じ本を読みたい。それが僕の夢だったんだ」


 わたしは言葉を失い、彼が淡々と語る内容に黙って耳を傾けていた。

「大学四年になると研修旅行があり、厳しい試験をパスすれば希望する時代の希望する場所に行くことができるんだ。もちろんすべての希望が通るわけではないし、たくさんの制約はあるけどね」

 目眩がしそうだった。現実離れしているにも程がある。けれどもわたしには、荒唐無稽な彼の話を肯定せざるをえない複数の理由があるのだ。

「たくさんの制約があるんだよね。もちろんその時代の人に、未来から来たってばれたら駄目だよね?」

「禁止事項の中でも、それが最重要事項だね」

「じゃあ、どうして……」

 何故あの夜、わたしに電話をかけてきたのか。安否を確認するようなことをしたのか。

 会うのはいつも偶然にまかせていて、メールも電話もしない間柄のわたしにあの電話の用件はあまりにも不自然で。あの恐ろしい事故を知ってからの安否確認ならば納得できるけれど、彼の電話があったのは事故よりも三十分近く前だったのだ。

「やっぱりおかしいと思ったよね?」

 そう言うと、楓は困ったように笑った。


「あの事故は僕らの時代にも悲惨な事故として語り継がれていて、もちろん僕も知っていたけれど、あの日がそうだということは忘れていた。桜子さんからメールをもらってまだ実家にいたんだなあとぼんやり考えていたら、ふと事故のことを思い出し、年末に聞いていた特急の名前が一致することに気づいた。僕が関わったせいで桜子さんが事故に巻き込まれたかも知れないと想像するのは、とてつもない恐怖だったよ。僕に楓の木の写真を送る為に、予定を変更したんじゃないかって。だから、もしも桜子さんが車内にいたら何としても途中の駅で下車させようと、僕のことがばれてしまっても構いはしないと、そう決意して電話をかけたんだ」

 そこで言葉を区切ると、楓は真っ直ぐにわたしを見つめた。思わずわたしは立ち上がると、桜の木の下で佇む楓と向き合った。

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