最終章 浮島の魔女は、今日も世界を拾い集める
秋になった。
森の木々が色を変えていた。採取に出ると、足元の落ち葉が柔らかく沈んだ。
空島の封印は安定している。ノルンからの連絡も途切れていない。
世界は、まだ完全ではない。
でも、壊れたままではなくなっていた。
リコリスは薬草の棚を整理しながら、過去を振り返った。
セレナが来たのは、春の終わりだった。
あの夜から数えると、半年が過ぎていた。森の奥で一人と一匹で暮らしていたのが、遠い話のように思えた。遠くはない。半年しか経っていない。でも、見える景色が全部変わった。
棚を整理していると、セレナが外から戻ってきた。
朝の採取だった。最近は二人で行くことが多かったが、今日はリコリスが薬の仕込みを優先したので、セレナ一人で行った。一人で行けるようになったのは、一か月ほど前からだ。どの草が何で、どこに生えているか、どう採れば根が残るか。全部覚えた。
「月草が多かった。あと霧苔も」
「今日の分で足りる」
「星砂草は少なかった。旬が終わりかけてるから?」
「そう。秋は少ない。春から夏にかけて多く採って、保存してある」
セレナは採取袋を下ろして、中身を棚に分けた。覚えた通りの場所に、覚えた通りの順番で並べていく。
リコリスは横目でそれを見た。
半年で、覚えた。全部ではないが、日常的に使うものはほとんど分かるようになっていた。
記憶は、少しずつ戻っていた。
断片が繋がる、という感覚がセレナにあると言っていた。全部が揃ったわけではないが、空島で過ごした子どもの頃のことや、ノルンとの日々の一部が夢の形で返ってくることが増えていた。
儀式のことも、少しずつ分かってきていた。
代償の度合いは、セレナが儀式に込める意志の強さによって変わるらしかった。全部を捧げようとすれば、全部を失う。でも、補強として使うのであれば、失うものは少ない。ノルンはそれを、セレナが自分で理解するまで待っていたと言っていた。
理解してから選ぶ。それがノルンの考え方だった。
「今日、ミラが来るって言ってた」
セレナが棚を整えながら言った。
「薬を取りに来る日だっけ」
「うん。それと、何か手伝えることがあれば、って」
「手伝いに来てくれるのはありがたい。今日は浸透薬を大量に作る予定だから、瓶詰めを頼める」
「あたしは何をする?」
「月草を砕く作業を頼みたい。均一に砕くのが得意になったから」
「得意になった」
「なった。最初は不均一だったけど、今はほぼ揃う」
セレナが少し嬉しそうな顔をした。
モクが棚の上から言った。
「我の仕事は?」
「木の実の在庫確認」
「それだけか」
「重要な仕事です」
「確かに。やっておこう」
午前中は作業をした。
リコリスが薬を煮る。セレナが月草を砕く。モクが木の実を数える振りをしながら二個食べる。そのうちミラが来て、瓶詰めに加わった。
「リコリスさん、最近村の人たちが変わってきています」
瓶に薬を注ぎながら、ミラが言った。
「どう変わった?」
リコリスは火加減を見ながら尋ねた。
「魔女が怖くなくなった、という人が少しずつ増えてきています。全員じゃないですけど」
「アルヴィンが動いているから?」
「それもあると思います。でも、直接薬をもらった人たちが、周りに話しているのが大きいと思います。実際に助けてもらったから、怖くないって」
「それが広がるには時間がかかる」
リコリスは薬を混ぜる手を止めずに言った。
「かかりますけど、広がってます。ゆっくり」
ミラは瓶の蓋を閉めながら答えた。
リコリスはそれを聞いて、エルシアの言葉を思い出した。百年、二百年かけて変わることだと言っていた。その変わり始めが、今起きているのかもしれない。
「ミラが話してくれているんでしょ」
セレナが、月草を砕く手を止めて言った。
「話しています。自分で見たことを話すのが一番だと思うから」
ミラは少し照れたように笑った。
「ありがとう」
リコリスが言うと、ミラは首を振った。
「お礼を言うのはわたしの方です。弟も、おじいさんも、みんな薬のおかげで元気です」
昼食をみんなで食べた。
セレナが作ったスープと、リコリスが焼いたパンだった。モクは木の実パンを要求して、ミラが笑った。
「モクって、毎回木の実パンを要求するんですか?」
ミラが尋ねた。
「毎回じゃ」
モクは胸を張った。
「可愛い」
「我は可愛くない」
「でも可愛いです」
「それ以上言うと怒るぞ」
ミラがまた笑った。セレナも笑った。リコリスも少し笑った。モクは不満そうな顔をしたが、木の実パンは受け取った。
ミラが帰ったのは昼過ぎだった。
薬を持って、機嫌よく帰っていった。また来ます、と言った。また来てください、とリコリスは言った。
午後は素材の分析の続きをした。
最近は、空島から持ち帰った素材と、地上の素材を組み合わせた調合を試していた。浮遊石と月草を組み合わせると、持続時間の長い軽量化薬が作れることが分かった。星霧水晶の粉と霧苔を合わせると、魔力を安定させる効果が倍以上になった。
地上と空島の素材は、組み合わせると効果が増す傾向があった。
理由を考えると、封印と関係があるかもしれないとリコリスは思った。空島と地上は封印によって繋がっている。素材もその繋がりを持っていて、組み合わせることで本来の繋がりを活かした効果が出る。
分かったことを調合帳に書き留めながら、セレナに話した。
「空島の素材を使うためにも、定期的に採取に行く必要がある」
「また行けるね」
「行けるようになった」
「ノルンも喜ぶと思う。来るたびに、少し話してくれるようになってきたから」
「ノルンが変わってきた?」
「変わってきた。感情を出せるようになってきたというか、出してもいいと分かってきたというか」
「セレナが引き出してるんでしょ」
「あたしだけじゃなくて、リコが来るから、ノルンも話しやすいんだと思う」
「わたしはあまり話さないけど」
「話す量じゃないよ。来るか来ないかの問題」
リコリスはそれを聞いて、少し考えた。
自分が来ることで、何かが変わる。それはリコリスには実感しにくいことだったが、セレナが言うなら、そうなのかもしれない。
「また来週、空島に行こう」
「行こう。ノルンに話したいことがある」
「儀式のこと?」
「うん。全部を捧げるんじゃなくて、補強として使う。そういう形なら、あたしにもできると思う」
「セレナが自分で決めたことなら」
「うん。あたしが決めたことだよ」
「分かった」
夕方近くに、石橋の方から声がした。
アルヴィンだった。
最近は週に一度来るようになっていた。毎回、何かを話して帰る。騎士団の内部での動きのことや、王都での審査の進み具合のことや、村での変化のことを話してくれた。
「グランベルの件、進展があった」
「どんな?」
「証拠の精査が終わった。装置と古代遺構への関与は、しばらく禁じられる。王都での立場も、前と同じではいられない」
「もう、すぐには動けない?」
「動けない。少なくとも、同じ方法では」
アルヴィンは少し間を置いた。
「君たちが止めたことは、無駄ではなかった」
セレナが外に出てきた。アルヴィンの声が聞こえたらしかった。
「グランベルの件が動いたって?」
「動いた」
「良かった」
「まだ完全に終わったわけではないが、大きく制限された」
アルヴィンはリコリスを見た。
「今後、騎士団としての立場から、封印の守護に協力できるか検討している」
「検討している、というのは」
「正式にはまだ決まっていない。でも、方向としては、ノルンと、魔女たちと、騎士団が連携して封印を守る仕組みを作れないかと思っている」
「それができれば」
「できれば、グランベルのような人間が介入しにくくなる。透明な仕組みにすれば、不正が起きにくい」
「良い方向だと思います」
「リコリスが協力してくれるか確認したかった」
「します。できることがあれば、全部」
アルヴィンは頷いた。
「ミラも協力すると言っていた。村の人間として、証言できると」
「ミラならやれる」
「そうだな。あの子は強い」
アルヴィンはそれから少しの間、川の方を見た。
「リコリス、あなたと話して、多くのことが変わった。感謝している」
リコリスは返事を探した。
「わたしも、アルヴィンと話して、見え方が変わったことがある」
「例えば?」
「間違えた方向を向いていた人間が、気づいて向きを変えることができると分かった。それが知れたのは、アルヴィンのおかげです」
「それは、お互いということか」
「そういうことかもしれません」
アルヴィンは少し笑った。前に初めて見た笑顔より、今の方が自然だった。
「また来る」
「来てください。次にエルシアが来たときに、一緒に話しましょう」
「エルシアはいつ来る?」
「手紙が来た。南の調査がもう少し長引くって」
「戻る時期は?」
「春までには一度戻ると書いてあった」
「南の燻製を楽しみにしていると、モクに伝えておいてくれ」
「モクに直接言ったら喜びますよ」
「直接言うと、またうるさくなりそうだ」
「なります」
アルヴィンが帰った。
セレナがリコリスの隣に来た。
「アルヴィン、変わったね」
「変わった」
「最初に会ったとき、怖かった?」
「怖くはなかった。ただ、どう動くか分からなかった」
「今は?」
「分かる。整理しながら動く人だから、整理できれば動き方が変わる」
「リコって、人のことをちゃんと見てる」
「見ないと怖いから、と前にも言った」
「言ってた。覚えてる」
夕方の光が、森に差し込んでいた。
木々の葉が橙に染まって、地面に長い影が落ちていた。秋の光だった。春の終わりとは違う、斜めで柔らかい光だった。
モクが屋根から降りてきた。
「夕食はいつじゃ」
「もう少ししたら」
「何を作る?」
「豆と芋と、月草の粉を入れたスープ」
「パンは?」
「焼く。木の実パンも」
「うむ」
モクが家の中に入った。
リコリスとセレナは、もう少し外に立っていた。
空を見た。雲がいくつか流れていた。その向こうに、空島があった。今日は雲が多くて見えなかったが、あるのは分かっていた。
「ねえ、リコ」
「うん」
「今年の冬、どうする?」
「どうするって」
「雪が降ったら、採取に行けなくなる?」
「森の奥は積もらないことが多い。でも、深いところには行きにくくなる」
「じゃあ冬の間は、素材の分析と薬作りが中心になる?」
「そうなると思う」
「あたしにできることを増やしておきたい。冬の間に練習できること」
「修復魔法の精度を上げることと、調合の基礎を覚えることが、今のセレナに必要だと思う」
「教えてくれる?」
「教える」
「冬の間、ずっとここにいる?」
「ここにいる」
「良かった」
セレナが空を見た。
「空島は冬になると、どうなるんだろう」
「分からない。聞いてみたら。ノルンに」
「来週、聞いてくる」
「一人で?」
「うん。そろそろ、一人でも行けるようになりたい」
「無理はしないで」
「しない。リコとも、また一緒に行く」
「行く」
リコリスは頷いた。
話しながら、二人で家の中に入った。
暖炉に火を入れた。鍋を出した。豆を水に浸した。芋を切った。セレナが月草の粉を計った。
いつもの夕食の準備だった。
半年前と同じ動作で、でも一人ではなかった。
夕食を食べながら、モクが言った。
「そういえば、エルシアはまだ南か。あやつ、また変な土産を送ってくるじゃろうな」
「変なものじゃなくて、薬草だと思う」
「薬草も変なものも、エルシアが持つとだいたい同じじゃ」
「師匠に怒られる」
「本人がいない今なら言える」
食事が終わった。
後片付けをして、薬棚を一度確認して、調合帳を閉じた。
普通の夜だった。
セレナが窓の外を見た。
「今夜、星が見えそうかな」
「雲が残ってるから、見えないかもしれない」
「見えなくてもいい。ただ見てみたかった」
「どうして」
「半年前のことを考えてた。あの夜、リコのところに落ちてきた夜。あのとき空を見た。何も分からなくて、ただここにいるって思った」
「今は?」
「今も空を見ると、ここにいるって思う。でも今は、分かることが増えた。名前も、場所も、リコのことも、ノルンのことも」
「記憶が戻ってきたから」
「それだけじゃなくて、ここで積み上げてきたことがある。それが今のあたしだと思う」
リコリスはセレナを見た。
半年で、変わったことがたくさんあった。セレナも変わった。リコリスも変わった。森の奥で一人と一匹でいたときとは、全部が違う。
「セレナがここに来て、良かった」
「言えるようになったね、それ」
「前から思っていた。言えなかっただけ」
「今は言える?」
「言いたかったから、言った」
セレナが笑った。
モクが棚の上で丸くなった。
「我も、空の娘がここに来て、良かったと思っておる」
「モクが言うと、重みがある」
「そうじゃろ」
「空の娘、じゃなくてセレナって呼んでほしいけど」
「セレナ。それで良いか」
「良い。ありがとう、モク」
「どういたしまして、じゃ」
静かな夜が続いていた。
その後、季節はゆっくり進んだ。
セレナは空島へ行き来することが増えた。ノルンを手伝い、封印の様子を確かめ、空島でしか採れない素材を少しずつ覚えていった。
森の家にいる日もあれば、空島にいる日もある。
けれど、それは別れではなかった。
セレナがどこへ行っても、帰ってくる場所はここにあった。
――数か月後。
冬の終わりの空から、白い光が降りてきた。
リコリスは薬棚の整理をしていた手を止め、外へ出た。
塔の方向から伸びた光が消える。森の奥から、足音が近づいてきた。
木々の間から、銀がかった金の髪が見えた。
セレナが走ってきた。手には、小さな布包みを持っている。
「ただいま、リコ」
リコリスは少し間を置いた。
あの夜、空から落ちてきた少女を思い出した。名前しか分からなかった少女が、今は自分の足で、ここへ帰ってきている。
「おかえり、セレナ」
セレナが笑った。
布包みの中には、空島の春の結晶が入っていた。
「ノルンが、調べてほしいって」
「調べる」
「一緒に?」
「一緒に」
リコリスは調合帳を開いた。
新しい素材のページを作った。春の結晶、と書いた。その下に、今日分かったことを書いた。薄い紫。光を当てると内側に動きがある。空島に春になると咲く花から。用途未確認。
ページが、また増えた。
調合帳は最初の頃より厚くなっていた。師匠が残したページから始まって、リコリスが書き足し続けた。これからも書き足す。知らないことがなくなるわけではないから、書き続ける。
台所からパンを焼く匂いがしてきた。
モクが幸せそうな顔をした。
外は春に向かいかけていた。
もう少しすれば、薬草が芽吹く季節になる。採取が忙しくなる。空島の花も咲く。ノルンが待っている。アルヴィンが来る。エルシアから、また手紙が届く。ミラが薬を取りに来る。
やることが、たくさんある。
リコリスは調合帳にもう一行書き加えた。
一緒に調べる、と書いた。
森の奥の小さな家に、今日も火が灯っている。
(おしまい)




