第9話 検討。そして和睦
まさか、正木憲時が表裏の者であったとは……。
大膳めは、『槍大膳』と天下に名高い正木時茂の子であり、父上と苦楽をともにした男である。
また、一生目は、大膳も義頼の手の者に殺されていたから、無意識のうちに、信用に下駄を履かせてしまっていた。
何度も繰り返したのでわかってきたが、真に信用していい者は、決して多くはない。利をもって転ばぬ者の方が少数なのだ。
おそらく大膳も、父上が存命ならば、裏切ることはなかっただろう。
大膳は「小童」などと嘯いておったが、あやつも単純ゆえ、私の力を示してやれば、簡単には裏切るまい。
そうなると、一番の問題は北条めの存在じゃ。
前世でも、最後に逆転されてしもうたのは、伊勢の軍が乱入してきたからで、伊勢めさえ介入して来なんだら、あのような憂き目に遭うことはなかったに違いない。伊勢に介入させないためにはどうすれば良いか……。
そうじゃ! 義頼でなく、わしが伊勢の者と婚姻を結んでしまえば良い。伊勢を味方に付けてしまえば、義頼や小弓公方家がいくら騒ごうと稚児を捻るようなもの。正木大膳などは屁でもない。
思えば天正4年(1574年)の里見義堯様の死と、下総の関宿城の落城は、里見家にとって転機であった。
坂東の南の外れにいながら、越後の上杉謙信を動かすことができた岱叟院様の存在は、実に大きかった。それに加えて、関宿の梁田殿が、伊勢の軍勢を引きつけてくれていたからこそ、わずかな所領しかもたぬ当家が、関東の過半を制しつつある伊勢に対し、「一進一退」どころか、房総3国では有利に攻勢をかけることさえできていたのだ。
ただ、大の『伊勢嫌い』で通っていた岱叟院様は、間違いなく房相和睦の障害じゃ。
天正3年(1575年)に入ると伊勢の房総への侵入が本格的になる。父上は越後の上杉との再同盟を画策なさるだろうが、謙信は北陸のことが手一杯で、関東にまでは手が回らぬはず。
越後を頼れない当家が、伊勢と和睦しなければ、大変なことになるのは間違いない。これは、今まで何度も繰り返してきた歴史からも明らかだ。
結局、天正5年(1577年)に和睦を結ぶことになるのだが、小櫃川と一宮川を結んだ線の内という、天正4年と比べたら半分程度にまで縮小した領国しか、保つことはできなかった。
その時だって、妙な自尊心を発揮して、既に妻も子もいる義頼に人質同然なお飾りの妻を迎えるようなことをするからいけない。どうせするなら、覚悟を決めて「次期当主である嫡男の私の正妻として迎える」と、言えば良かったのだ。そうすれば、和睦の条件も良くなるだろう。
たぶん、父上は、謙信の越山に呼応して同盟を破棄し、反転攻勢をかける心づもりだったのだろうが、その謙信だって、再度の越山をせぬまま、天正6年(1578年)の3月には鬼籍に入る。変な保険をかけようとするから、本城である久留里城から数里しか離れていない、真里谷城や池和田城すら、伊勢方の持ち物になってしまうのだ。
和睦を進める方針を決めるのに重要になるのは、天正4年の関宿落城だ。これが避けられるように動けるのであれば、和睦はいらないかもしれぬ。しかし、避けられなければ、私の妻として伊勢の娘を迎える方向で和睦を進めてもらおう。
関宿落城後は、なるべく速やかに和睦を進める。そして、義頼めにではなく、私自身に伊勢の娘を妻として迎える。
よし! これでいこう!
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天正5年(1577年)1月 上総国望陀郡 久留里城
北条との和睦がなった。今までは蔑称でよそ者であることを示すため、『伊勢』と読んでおったが、和睦がなって以来、先方の号する『北条』の名で呼ぶように改めた。
ちなみに和睦は、今までよりは早められたが、1年は前倒しできなかった。それもこれも、義弘がごねたからだ。
私だけでなく義頼まで和睦を勧めたにもかかわらず、「里見義堯様の遺命が~」とか言って、徹底してごねた。
おかげで有力な同盟者であった、東上総の両酒井(※土気城・東金城を拠点にした上総酒井氏)が北条に鞍替えするし、西でも下総はおろか上総北部の拠点、菊間郡の椎津城を失うなど、散々だった。
ただ、前世までは、義頼しか和睦を勧めるものはいなかったのに、今生では、嫡子である私までもが勧めるので、父上も、ようやく重い腰を上げたようだ。
婚姻の相手も私になった。相手は北条家当主、氏政公の娘、鶴姫。前世では義頼の正妻となった娘だ。
もともと義頼には正木時茂の娘が正妻として嫁いでおり、千寿丸(※里見義康)という嫡男もいる。そんなところに嫁ぐより、里見家の嫡男であり、まだ妻どころか許嫁もいない私のところの方が、印象は良いであろう。
義頼は反対するかと思ったが、意外や意外、全面的に賛成してくれた。
聞くと、どうやら奥方は相当な烈婦であるらしく、義頼は頭が上がらないらしい。
前世までの鶴姫は、相当短命だったが、まさかこれが原因か?
義頼はすんなりと認めたのに、ごねたのは、またしても父上だった。「血筋が~」とか「年齢が~」とか言ってごねるので、
「北条家にも、今川や小笠原といった源氏の血が入っているし、年上といっても、たった2つだ。そもそも、あまり若すぎては子はできまい」
などと言って説得した。
そのおかげで、庁南城、真里谷城、池和田城や藻原荘といった地域を領国として残せた。これは大きい。
前世のように本城の目と鼻の先が他領ということはなくなったから、国境を越えて敵勢が攻めてくるにしても、少しは時が稼げるであろう。
梁田氏
古河公方の奏者を務めた一族。川越合戦以降、下総関宿城を拠点として、北条氏と激しく対立した。物語当時の当主は梁田持助だが、隠居した父の晴助が多くの権力を握っていた。
関宿城
千葉県野田市関宿町付近にあった城。チーバくんで言うと、鼻先の黒いところのさらに先端。千葉県のどん詰まりのように見えるが、非常に重要な城で、北条氏康からは『一国にも等しい城』と評された。
理由は、利根川東遷以前は、ここが利根川水系と鬼怒川水系が一番近接する場所であり、さらに台地が連続しているため、大軍の移動も容易であったこと等が挙げられる。江戸時代も存続したが、当時の城地のほとんどは、その後の河川改修で川に沈んだ。現在は県立関宿城博物館として模擬天守が建っている。
真里谷城(木更津市)・池和田城(市原市)・庁南城(長生郡長南町)
里見の本城だった、久留里城からそう離れていないところにある城。房相一和では、北条方の持ち物になった。ちなみに、どの城も由来は上総武田氏。特に真里谷城と庁南城は2大拠点だったが、お互いに主導権争いをした結果、里見氏につけ込まれ没落することになった。
椎津城
千葉県市原市姉崎付近にあった城。文字からもわかるとおり近隣に港をかかえる重要な城だった。
土気城(千葉市緑区)・東金城(東金市)
房総酒井氏(※2か所に一族がいたので『両酒井』とも称する)の拠点。家康の関東入府でともに廃城。ただし、東金城は家康時代鷹狩りの拠点としても用いられた。
菊間郡
郡域は現在の市原市の養老川西岸。後に養老川東岸の海上郡(上海上郡)と合併して市原郡となる。
藻原荘
現在の千葉県茂原市付近にあった荘園。
小櫃川
現在の千葉県君津市、木更津市を流れ東京湾に注ぐ川。千葉県内のみを流れる川としては一番長い。
一宮川
現在の千葉県長生郡や茂原市付近を流れ、太平洋に注ぐ川。語源は河口付近にある上総国一宮、玉前神社から。




