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嗅ぐ女  作者: 七月 夏喜
第2話 存在価値
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その3


 楓とシバサキは階段を滑るように駆け降り、地下駐車場に辿り着いた。今にも途切れそうな蛍光灯の下を走り過ぎていく。幾台かの車を通り過ぎた後、楓はその走りを急に止めた。腕を掴んでいたシバサキは体勢を崩す。


「離して!」


 無理に掴んでいる男の手を楓は振り解いた。


「どうしたんだ」


「ネフロはどうするの。あの人はまだ逃げてない」


 息を切らし、必死の形相で女は叫ぶ。


「あいつよりおまえが重要だ」


 シバサキはその声を割いた。


「あなたの仲間でしょ。このまま放って置いてもいいの」


 男の目が驚いて見開く。楓の腕を再び掴もうとした手が空を切った。


「あいつは、仲間じゃない」


 楓の目が疑惑に変わる。


「そんな、どうして」


 シバサキは何かの動きに気付き、車の陰に身を潜めながら楓を引き寄せた。よろける体がシバサキと接触する。楓は少し体を硬直して抵抗した。


「静かに!」


 シバサキは楓の発言を制止して黙らせる。




 駐車場を歩いてくる靴音とカウントする声が聞こえてきた。やがて二人が隠れている車の側まで正確に近づいて、停止する。


「はい5台目。鬼ごっこはもう、お終いにしたら?」


 男は舌打ちした。


「所詮、手の内か」


 わかっていたように、車の陰から男は飛び出す。楓はその場に竦んでいた。


「おまえは早く逃げろ」


「そこにいる人が楓さんね。ちょっと用があるんだけど」


「俺が相手する」


「いいよ。二人とも一緒で」


 茜は二人を前に立ちはだかる。


 その堂々とした態度を見て楓は不思議に思った。幾ら何らかの能力を持っているとは言え、若い男を目の前にしても怖じけついていないからだ。一方、そのシバサキは動けないでいる。楓は高校生の茜の前に出た。


「高校生のあなたが、どうして私たちを追いかけるの」


 呆れて困った顔になった後、ひと息吐く。茜は唇に指を添えてクスクスと笑った。


「なんて、おメデタイ人なの」


 彼女は躊躇いもなく一歩出た。


「ここにあなたたちがいることは、ずっと前の私が知っていたし、この車の陰に隠れる事もとうに知っていたもの」


「一体、何のこと」


 茜は腹を抱えて、尚も爆笑している。


「本当に何も知らないのねぇ。まあ、いいよ、許してあげる。それよりも……」


 再び唇に指をあてた。


「誰かが追いかけているんじゃなくて、あなたが私たちから何故、逃げているのかな」


 楓は我に返ったように、これまでの記憶を辿る。


『いったい私は何から逃げているのか?』


「あなた、その男をどこまで信用出来るの。いえ、信用しているのかな。現にその男は自分が逃げるために、一人仲間を犠牲にしているよ」


 シバサキが声を荒げて叫んでいるが、楓はその方は向かない。


「考えてもみてよ。突然、何でもなかったあなたの目の前に現れて、追手が来るから逃げよう。て、普通信じる、そんなこと」


 楓は体が固まった。


「そう……、おかしい……」


「でしょ。本当は追手なんかいない。その男は、あなたを騙して誘拐し、犯罪に利用としている。なんてことの方が、理屈に合ってることない?」


「やめろ! 楓、そいつの罠だ!」


 シバサキの声に楓は身構え、奇異と疑惑の目を男に放った。


「バスのこと、私見ていたの。蜂騒ぎは大変だったみたい。担架に運ばれていった加害者の人、まだ意識が戻らないんだって」


 茜は真剣な眼差しで楓を凝視する。その女のひと言が、別の次元へ連行した。


「あなたが何をしたのか知らないけど、その人に関わりをしたとすれば、お互い不幸なことだわ」


「不幸……」


 これまで何一つ幸せを感じることはなかった。自分の持って生まれたこの忌まわしい能力に、一体何の得があったのだろう。あの教諭のように見たくもない人間の本性を感じ、自分に危険が迫ると逃げていた。逃げることしかなかった。常に何かに怯えていた。『臭い』を感じることに恐怖していた。自分の幸せは、一体何処にあるのか。生まれてきたことが、間違いではなかったのだろうか。普通に生きること。それが出来ない自分にとって、この人生には意味はあるのだろうか。


 眉間に皺を寄せた楓は唇を噛む。


 二年前、好意を持ってくれる男性に出逢った。後悔しているはずだった。


 成人して社会に入ると、逃げ出したい場でも否が応でも居続けなければいけない。様々な『臭気』に犯されていった。そのうち能力の精度が増すと扉に鍵を掛けるように、意識的に『臭気』を遮断する事を覚え始めた。しばし異様な能力を忘れることができていた頃だった。


 その男からは、何も『臭い』がなかった。それがかえって臆病になっていた自分に明るい光を射してくれたように感じたのだ。少しだけ気が緩みかけていた。


 だが、決して自分から近づこうとはしなかった。男のことを遠くから見ているだけで良かった。その淡い想いが募り、やがて自己の愛情が確信へと変わった時期、男から食事に誘われたのだ。これまでの不幸が全く間に消し飛んだ。

 飲めない酒もロにし、甘く囁かれて、身も心も酔っていた。『幸せ』と言う言葉に有頂天になってしまっていた。送られるタクシーの中で男の甘美な言葉で全ての警戒心が解け、自然と身を任せた時だった。もっと知りたいと言う切な心は、それまで外界の『臭気』を遮断していた能力の扉を少しだけ開けたのだ。男のロ唇が触れる刹那、危険信号が脳内を駆け巡った。


 本能が呼び覚まされる。


 男から強烈な淫猥の『臭気』を感じたのだ。


 その世界の中で陶酔しきっている彼の精神は荒ましく、喜んでいた。赤色の塗られた部屋に金色のベッド、白いシーツには粘性を帯びた赤い液体が滴り落ちていた。ベッドでは全裸のままナイフを胸に突き立てられて、淫らに喘ぐ自分がいた。絶頂を迎えるとともにナイフで傷つけられ、流血していた。そのまま幾度も混じり合っては血飛沫が、壁を更に赤くしていく。


 人の心の隙間や陰りに狂気の沙汰があることなど、分りきったことだった。しかしその時は堪えられず、吐き気がした。見てはいけなかった、愛情を持った人間の本性。そして逆に裏切られた気もしたのは、自己の甘さだったろう。


 そんな身勝手な解釈に嫌気がして、男の前から姿を消した。一緒に歩むことなど出来なかった。去らなければならなかったのだ。


「自分の居場所さえ、失った」


 友達とか仲間とか、恋人とか、愛とかそんなものは虚構だけで、実際はもっと危険なものなのだ。持ちたくもない能力に苛まれる自分の存在意義は、一体何処にあるのか。


 楓は苦悶の表情で顔を下に向けたまま、動くことが出来なかった。涙が零れ落ちる。


「しっかりしろ!」


 シバサキは叫んだ。


「あら、強い人かと思ってたんだけど涙なんか浮かべるなんて。相当悩んでいたんだね」


 腰に手を当てたまま、茜は更に不敵な笑顔を作る。 


「じゃあ、もっといいこと教えてあげる。あの蜂男が持っていたビニール袋ね」


 青い瞳を輝かせた女は唇に手をあてた。その指の隙間から、口元が吊り上がる。


「あの中、入ってたんだ、……頭」


 楓は顔を上げると、茜と目が合った。


「そう。笑っちゃうの。大事にしてたみたい、ずっと押入の奥で、それ」


 楓の体が震える。


「あの蜂男はね、望遠鏡で覗き見していた高校生に恋をしてしまったみたいなの。妄想の中で、彼女を恋人にしていたみたいね」


「妄想……」


 楓はあの男の精神にアクセスした時の光景を思い出した。グランドに立っていた女性。あれが、その高校生。そしてマンションのベランダに、置かれていた望遠鏡。彼の精神は本当に、現実と妄想との区別がつかなくなったのか。


「近い内に、取り調べや男の部屋が捜査されて、頭以外の胴体も見つかるわ」


「……」


「だから、人助けしたんだよ。彼女の両親も娘の居場所がわかって、きっと安心するよ」


 立ち竦む楓は、魂が抜けたように生気がなかった。


 シバサキが言っていた『破壊兵器』。それが自分が背負うべき能力なのか。


「あなたのしたことが役に立ったのよ。いつもやっている、覗き見が」


 茜は悪気の無い、乾燥した声で笑う。楓は起立したまま無言で握った拳を震えさせている。唇を噛み締める強ばりが更に引き締まった。


「楓さん」


 鋭く睨む茜の青い瞳の光彩が大きく開く。


「今まで、何人殺したの」


 その言葉はまるで見えない刃のように鋭く、楓の心臓を抉るように身体を裂いていった。



「蜂男よりも『本当の悪魔』は、あなたかもしれないわね」



 睨んだままの女は、精神的ダメージを与えるに充分な切り札を言い放つ。


「人の心に勝手に入り込んで、気に入らないと荒らしていく。そんな能力は私は要らない。その人たちはあなたには敵でも、彼らにはあなたは敵じゃない。それも彼らがまだあなたに直接的な危害を加えるにすら、及んで無いのにね」


 瞳を大きく見開いた楓は、茜の思惑通り言葉に耐えられず身震いして卒倒した。




「いい加減にしろ!」


 シバサキの方を茜はようやく振りかえる。


「よく見たらこの人、イケメンじゃない。この人の心も覗いたの?」


 女は大笑いした。


「あいつの言うことなんて聞くな。おまえを動揺させるのが目的だ」


「否定はしないわ。でも本当の事じゃない。それともあなたは覗かれてもいいわけ。まあ、もう見られてるかも知れないけど。実際不審がられてるし」


 首を何度も振る楓をシバサキは確認するも、二人の間に確実に不信感が深まる。


「とにかくこの場にいて誰を信じるかは、楓さん、あなたが決めることよ」


 目の前の二人とも能力者だ。そしてどちらとも『嗅ぐ能力』を知っている。どっちに従っても、これまでと変わらない怯えた日々が続くだけだ。

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