海の思い出〜水音の向こう側
私がこれからお話しするのは、絶対に破ってはいけなかった「ある禁忌」に触れてしまった時の記録です。
もしあなたの身近に、理由も告げられないまま「そこだけには行くな」と固く禁じられている場所があるのだとしたら。決して近づかないことをお勧めします。
私の祖母は、十数年前に他界しました。
生前はとても穏やかで、声を荒らげることなど一度もない人でした。
しかし、そんな祖母が唯一、私にひどく厳しく言い含めていたことがありました。
「〇〇県にある『××海岸』にだけは、絶対に近づいてはいけないよ」
関東近郊にある、ごく普通の海水浴場です。
夏になれば家族連れで賑わうありふれた海で、私が「どうして?」と聞いても、祖母は決して理由を教えてくれませんでした。
ただ、普段の優しい顔からは想像もつかないほど冷たい目で、こう言いました。
「あそこはね、海じゃないんだ」
その言葉の意味を、私は長い間、考えたこともありませんでした。
すっかり社会人になり、日々の忙しさの中でその言い伝えも記憶の片隅に追いやられていた、お盆休みに入る数日前のことです。
職場の同僚たちと「週末、海でバーベキューをしよう」という話が持ち上がりました。幹事が指定した場所を聞いて、私は背筋が凍りました。
そこが、祖母が「絶対に行ってはいけない」と言っていた、あの××海岸だったからです。
私は慌てて断ろうとしました。
「え、なんで? 泳げないの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあいいじゃん。泳がなくても。もう予約してるんだから、今さら一人だけ抜けるのはなしな」
亡くなった祖母の、理由も分からない忠告を理由に、職場の誘いを断ることなどできませんでした。
(……まあ、海に入らなければ大丈夫でしょ)
私は心の中で、自分にそう言い訳をしました。
祖母は「海に入るな」と言ったわけではない。
「近づくな」と言っただけ。実際には何十年も海水浴場として営業しているし、海に入らず砂浜にいるだけなら、何が起きるというのか。
祖母に言われた「近づくな」という言葉を、私は勝手に「海に入らなければいい」というルールへと置き換えていたのです。
しかし、その日の夜。
私は、ひどくおぞましい夢を見ました。
薄暗い部屋の中で、私のベッドの足元に、亡くなったはずの祖母が立っているんです。
祖母は私をじっと見下ろしていました。両目を極限まで見開き、白眼にはびっしりと赤い血管が走っている。歯をギリギリと食いしばり、顔全体がどす黒い紫色に変色していました。
そして、何かを強く否定するように、必死に首を横に振っていたのです。
「ひっ……!」
悲鳴を上げて跳ね起きた時には、全身が嫌な汗でぐっしょりと濡れていました。
(おばあちゃんが、怒ってる……。あの海に行く約束をしたからだ)
私は、祖母が私に対して怒っているのだと思いました。
そんなこともあり朝になったら体調不良を理由にドタキャンしようと固く決意したはずでした。
しかし、同僚から「今家の前着いたよ!」とLINEが来た時、私の口からはキャンセルの言葉が出ませんでした。
行きたくないのに、なぜか断る理由が思い浮かばないのです。画面を見つめているうちに、いつの間にか「行く」と返信してしまっていました。
そのまま車に乗り込み、私たちは海へと向かいました。
道中は、気味が悪いほどスムーズでした。お盆前で本来なら行楽の車で渋滞しているはずなのに、私たちが乗った車線の前だけ、不思議なほど車がいなかったのです。
気づけば、予定より三十分も早く到着していました。
それは決して「運が良い」という感覚ではありませんでした。目的地へ向かっているというより、目的地のほうから私たちを引き寄せているような、ひどく不快な順調さでした。
天気は雲一つない快晴。
白昼の海辺は、カラフルなパラソルが立ち並び、子供たちのはしゃぐ声に満ちていました。
指定されたバーベキューエリアにはすでに多くのグループがいて、あちこちから炭火の煙と、肉の焼ける匂いが漂っています。
祖母が禁じた場所なのに。昨夜あんなに恐ろしい夢を見たのに。
この明るい陽射しと香ばしい匂いの前では、私の抱えていた恐怖が嘘のように消え去っていました。
「なーんだ。普通の海じゃん」
同僚たちは更衣室で水着に着替え、「肉が焼けるまで遊んでくる!」と波打ち際へ走っていきました。
私は「絶対に海には入らない」というルールを守るため、波打ち際から、少なくとも三十メートルは離れた乾いた砂浜に残り、火の番を引き受けました。
タープテントの下の日陰に入り、炭火の上で肉や野菜をひっくり返しながら、遠くで波に揉まれて遊ぶ同僚たちを眺めていました。
(やっぱり、海に入らなければ何も起きない)
そう安堵し、トングで肉を掴んだ、その時でした。
――ぽたっ。
私の腕の上に、冷たい水滴が落ちてきました。
「え?」
見上げても、頭上にはテントの布地があるだけです。空は快晴。周囲を歩いている濡れた客もいません。
結露した水でも落ちてきたのかと思い、腕の水滴を拭った指先が、ぬるりと滑りました。鼻の奥に、腐った魚の臭いがまとわりつきます。
嫌な予感がして顔を上げた瞬間。
すべてが、水の中から聞こえているようにくぐもっていました。
ジュージューと焼けていたはずの肉の音が消えます。数十メートル先で騒いでいる同僚たちの声、周囲の笑い声、海の家から流れる音楽。それらがすべて、ゴボゴボという水音の向こう側に隔てられてしまったのです。
その水の中に沈んだような空間の中で。
私のすぐ左耳の真横から、極めて生々しい音が聞こえ始めました。
――ヒューッ……。
――ゴボッ。
――ヒュ……ゴボッ……。
息を吸おうとしている。
そう思った直後、喉の奥で水が弾ける音がしました。
――ガハッ! ゴボボボッ……!
私の耳から数センチしか離れていない場所で、見えない何かが激しく水を飲み込み、むせ返りながら溺れているのです。
全身の血が凍りつきました。
逃げ出そうと腰を浮かせた瞬間、自分の足元を見て絶望で息が止まりました。
波打ち際から三十メートルは離れた、乾ききっていたはずの砂浜。バーベキューコンロの下の砂の中から、黒い水がじわじわと染み出していたのです。
砂が水を吸っているのではない。砂の下に、海がある。
炭火は黒い水に浸かり、ジュッ……ボコッ……と気味の悪い音を立てて消えました。
私は、海に入っていない。
なのに、私の周囲だけが海の底に沈んだように浸水している。
その瞬間、昨夜見た祖母の顔が脳裏に蘇りました。
あの血走った目。あの紫色の顔。あの、何かを強く否定するように振られていた首。
あぁ、あれは。
おばあちゃんは、約束を破った私に対して怒っていたわけじゃない。
あれは、怒りに歪んだ顔じゃなかったんだ。
水の中で、息ができずに苦しんでいる人間の顔だった。
自分が死ぬときの顔を見せてまで、「そこへ行けば、お前もこうなる」と教えてくれていた。
……そうだったのだと、私は思いました。
祖母が言っていた「あそこは海じゃない」という言葉の意味を、私はようやく理解しました。
あの場所では、海と陸の境目など、最初から存在しなかったのかもしれません。海で死んだものも、砂浜にいるものも、すべて同じ「水の中のもの」として扱う。
私は、海に入らずにそこに立っていた。だからこそ、「まだ溺れていないもの」として、見つけられてしまったのかもしれません。
――ゴボッ……ガハッ……!
耳元の溺死音がさらに激しさを増し、その瞬間、両肩に重みが乗りました。
一つではありません。ずぶ濡れの腕がいくつも、私の首筋にねっとりと絡みついてきます。強烈な泥の臭いと、氷のような冷たさ。
その時、耳元で、粘り気のある声が聞こえました。
その声は、私を責めているのではありませんでした。
本当に、不思議なんですかそう感じたんです。
「なんで、あ⋯ただけ……?」
悲鳴を上げようと口を開いた瞬間、私の喉の奥から、海水と泥が混じったような生臭い黒い砂が、ドボッとせり上がってきました。口から大量の砂を吐き出しながら、私は崩れ落ち、意識を失いました。
◆
次に目を覚ましたのは、病院のベッドの上でした。
付き添ってくれていた同僚の話によると、私はコンロの横で、口から大量の砂を吐き出して倒れていたそうです。
「お前、海には一歩も入ってないよな?」
「……入ってない」
「だよな。俺たち、ずっと見てたから」
「じゃあ、なんで……」
「……いや、やっぱいい⋯」
同僚はそこで言葉を詰まらせました。
後から聞いた話なのですが、私の全身には海藻や真っ黒な砂がびっしりと付着していたそうです。
「暑い中で長時間過ごしたんですから、幻覚を見てもおかしくありません」
医者はそう言いましたが、私の口の中からは大量の砂が見つかり、不思議そうに首を傾げていました。ただ、肺にも胃にも、水も砂も一切入っていなかったそうです。
あの日、あの白昼の砂浜で、確かに私は『溺れて』いました。
あれから数年が経ちますが、私は今でも海には一切近づきません。
ただ、夏になると、ときどき夢を見ることがあります。暗い水の中で、誰かが私の肩に手を置いている夢です。
目が覚めると、いつも少しだけ肺が苦しいのです。
どうか皆さんも気をつけてください。
「海に入らなければ大丈夫」
私は、祖母の「近づくな」という言葉を、勝手にそう解釈しました。
でも、禁忌というものは、守る側が勝手に条件を決めていいものではないのかもしれません。




