裏囃子
これから書くことは、去年の夏に私が住んでいた古いアパートで実際に起きた出来事です。
当時、私は築数十年は経っていそうな、壁の薄いワンルームのアパートで一人暮らしをしていました。
家賃の安さだけが取り柄の、外を歩く人の足音すら筒抜けになるような、よくあるボロアパートです。
あれはお盆を少し過ぎた、風ひとつない寝苦しい熱帯夜のことでした。
古くて効きの悪いエアコンの低い稼働音だけが、狭い部屋に単調に響いていました。
深夜の三時頃だったと思います。
寝苦しさに身をよじってふと薄く目を開けたとき、網戸越しに外から妙な音が聞こえてくることに気がつきました。
――ピーヒャラ、ドンドン……。
遠くの方から聞こえる、祭囃子です。
最初は、どこかの酔っ払いがスマホで動画でも大音量で流しながら歩いているんだろうと思いました。
深夜の静まり返った住宅街ですから、ほんの微かな音でもよく響くんです。
「こんな夜中に非常識な……」と呆れながら再び目を閉じようとしたのですが、少しずつその音が近づいてくるにつれて、私はある嫌な記憶を思い出していました。
『夜中にお祭りの音が聞こえても、絶対に耳を澄ましちゃ駄目だよ。それ、踊り狂ってる音だから。同類だと思われたら、そのまま連れて行かれるよ』
昔、オカルト好きで霊感の強い友人が真顔で語っていた言葉です。
当時の私は「また適当なことを言って」と笑い飛ばしていましたが、今、薄暗い部屋の中で聞くその囃子の音は、ただの動画や酔っ払いの悪ふざけとは思えない『異質さ』を孕んでいました。
ピーヒャラ、という笛の音は、どこか人間の金切声に似ていた。
ドンドン、と響く太鼓も、祭りのものとは思えない。何か重たいものを、コンクリートに叩きつけているような音でした。
「……気のせい、気のせい。ただの酔っぱらいが騒いでるだけ」
私は自分に言い聞かせ、タオルケットを頭の先まですっぽりと被りました。目を固く閉じ、耳を塞ぐように寝返りを打ちます。
しかし、音は遠ざかるどころか、容赦なくこちらへ向かってきていました。
大通りから、私が住むアパートのある細い路地へ。
笛と太鼓の狂ったようなリズムに混じって、いくつもの足音が聞こえ始めました。
ザッ、ズリッ。ザッ、ズリッ……。
それは整然と歩く足音ではなく、足を引きずったり、不規則に飛び跳ねたりするような、異様な気配に満ちていました。
さらに、「あははは」「こっちだ、こっち」と、男とも女ともつかない、楽しげで底抜けに明るい声すら混じっています。
音の群れは、ついにアパートの敷地内に侵入してきました。
ジャリッ、ジャリッ。
窓のすぐ下の砂利を踏み荒らす音が響きます。
私は息を殺し、全身を硬直させました。
心臓が早鐘を打ち、全身からじわりと冷や汗が吹き出します。古いエアコンのモーター音よりもずっと大きく、私の心音が部屋に響いているのではないかと錯覚するほどでした。
(通り過ぎて!お願いだから、そのままどこかへ行って!)
そう強く念じた私の願いをへし折るように、最も聞きたくなかった音が、夜の静寂を引き裂きました。
――カンッ。……カンッ。
アパートの共有部分にある、錆びた鉄製の外階段。それを、いくつもの足が重々しく上り始めたのです。
カン、カン、カン、カン!
楽しげな囃子の音と共に、鉄の階段が悲鳴を上げるように軋みます。二階に住んでいた私の部屋は、階段を上ってすぐの場所にありました。
階段を上りきった足音が、薄い壁を隔てたすぐ外の共用廊下を、ザッ、ズリッ、と這うように進んできます。
そして。
そのおぞましい足音と、狂ったような祭囃子が。
私の部屋の玄関ドアの、ほんの数センチ向こう側で。
ピタリと、止まりました。
薄い鉄のドアを隔てたほんの数センチ先で、狂乱の気配が完全に沈黙しました。
先ほどまで耳をつんざくように鳴り響いていた笛の音も、腹の底を揺らす太鼓の音も、砂利を蹴り上げる足音も、嘘のように消え去りました。
残ったのは、私の部屋の古びたエアコンが発する「ブゥゥン」という低い稼働音だけ。
しかし、それは決して「去ってくれた」ことを意味する静寂ではありませんでした。
むしろ、音がないことのほうが何倍も恐ろしかった。
キーン、という耳鳴りだけが鼓膜の奥で鳴っています。耳の後ろで、自分の心臓の鼓動がドクン、ドクンと嫌なほど大きく反響していました。
じっとりと空気が重くなり、汗を吸ったタオルケットの繊維が、ねっとりと肌に貼りついて離れません。
ドアの向こう側に「一言も発さずに立ち尽くし、こちらの様子を窺っている」という異常な圧迫感が、じわじわと部屋の中に染み出してくるようでした。
ワンルームの悲しさで、私の寝ているベッドから玄関までは、たった数歩の距離しかありません。
タオルケットを頭まですっぽりと被り、私は胎児のように身体を丸めて震えていました。目を固く閉じ、両手で自分の口を塞ぎます。
呼吸の音すら聞かれたくなかった。心臓が、まるで先ほどの狂った太鼓のリズムを引き継いだかのように、肋骨を内側から激しく叩き続けています。
(帰って。お願い、どっか行って……!)
心の中で何度祈っても、ドアの向こうの気配は微動だにしません。
やがて、その異様な静寂を破るように、微かな音が聞こえ始めました。
――チリン。……シャリッ。
小さな鈴が鳴るような音。そして、乾いた布同士が擦れ合うような音です。
ドアのすぐ外で、誰かがゆっくりと身じろぎをしている。一人ではありません。複数の何かが、ぎゅうぎゅう詰めに身を寄せ合いながら、うごめいている気配が伝わってきます。
そして、ひそひそと、囁き合う声が聞こえました。
「……いるね」
「いるよ」
「起きてる?」
「起きてるねぇ」
男とも女とも、老人とも子供ともつかない、酷く平坦で粘り気のある声でした。
それが一つや二つではありませんでした。いくつもの声が重なり合い、ドアの隙間から這い入ってくるのです。
全身の毛穴という毛穴から冷や汗が吹き出しました。
見つかっている。私がこの薄っぺらいドアのすぐ内側で、息を殺して怯えていることを、連中は完全に把握している。
友人の言葉が、頭の中で何度も反芻しました。
『同類だと思われたら、そのまま連れて行かれるよ』
もし今、私が恐怖に耐えきれず悲鳴を上げてしまったら?
少しでも身じろぎして、ベッドのきしむ音を立ててしまったら?
それはきっと、連中にとって「お囃子に対する返事」になってしまう。
私は口を塞ぐ手にさらに力を込め、肺が破裂しそうになるほど息を止めました。
息を止めすぎて、頭がクラクラとし始めました。汗を吸ったタオルケットが肌にまとわりつき、真夏だというのに全身が氷のように冷え切っていました。
どれくらいの時間が経ったでしょうか。
永遠にも思える膠着状態の中、ふっと、外からの囁き声が途絶えました。
鈴の音も、布の擦れる音もしない。
気配が、潮が引くように薄れていく。
(……諦めた?)
限界まで止めていた息を、ほんの少しだけ吐き出そうとした、その瞬間――
――ガチャンッ!!
静まり返った部屋に、鋭い金属音が響き渡りました。
玄関のドアに付いている、金属製の郵便受けのフタ。それが、外側から勢いよく押し開けられた音でした。
ビクゥッ、と全身が跳ね上がりました。
そして、ぽっかりと口を開けた郵便受けの隙間から、何かが覗いていました。
暗闇の中に、白いものがひとつだけ浮かんでいる。
目でした。
白目の部分が異様に広く、まばたきを一切しない、生気のない目。
その瞬間。
「あはははははははは!!」
郵便受けの小さな隙間から、外の音とは思えない爆音が部屋の中へ雪崩れ込んできました。
耳をつんざくような狂った笛の甲高い音と、腹の底をドロドロに掻き回すような太鼓の重低音、そして無数の歓喜の声。
それはもう、外から聞こえてくる環境音ではありませんでした。
狭いワンルームの空間そのものが、見えない何かによってギュウギュウに占拠されてしまったかのような、物理的な圧迫感を伴う爆音でした。
私はタオルケットの中で必死に耳を塞ぎましたが、音は頭蓋骨の内側で直接鳴り響いているかのように反響します。
狂乱のリズムに合わせて、部屋の空気がビリビリと震えていました。
『同類だと思われたら、連れて行かれる』
頭の中で警告が鳴り響きますが、パニックに陥った私の身体はガタガタと痙攣するように震え、もう自分の意思ではどうにもなりませんでした。
すると、ピタリと、お囃子の音が止まりました。
代わりに聞こえてきたのは、ガチャ、ガチャ、という硬質な音。
玄関のドアノブが、外側から乱暴に回される音です。
(鍵は閉まってる。チェーンもかけてる。入ってこられない、絶対に!)
私は心のなかで絶叫しました。
しかし、私のその細い希望は、すぐに絶望へと変わりました。
カチャリ。
玄関の鍵が、内側から回ったのです。
私は息を呑みました。
……おかしい。鍵は、確かに閉めたはずなのに。
その直後。
ギギギギギ……。
金属が軋む嫌な音を立てて、玄関ドアにかかった太いチェーンが、ゆっくりと“引き伸ばされて”いきました。
キィィィィ……。
重たい鉄のドアが、ゆっくりと開け放たれました。
外の生ぬるい風と一緒に、むせ返るような泥とカビの臭い、そして鉄錆のような血の臭いが部屋の中に流れ込んできました。
ペチャッ。
フローリングの床を、濡れた裸足が踏みしめる音がしました。
一つではありません。
ペチャッ、ズルリ。ペチャッ、ズルリ。
いくつもの何かが、真っ暗な玄関から、私のいるベッドへ向かって歩いてくる。
狭いワンルームの廊下を埋め尽くす、異様な密度の気配。
その足音が、私のベッドの真横で止まりました。
「返事は、しなかったねぇ」
すぐ耳元で、誰かが囁きました。
「でも、聞いてた」
「ずっと聞いてた」
一拍の沈黙。
「……だから、もういいよねぇ」
同時に、私が死に物狂いで握りしめていたタオルケットの端を、氷のように冷たくて、濡れた何本もの指が掴む感触がありました。
ジワジワと、強引にタオルケットが剥がされていきます。
私はもうダメだと思い、声にならない悲鳴を上げながら、力一杯目を閉じ、そして――意識を手放しました。
◆
次に目を覚ましたのは、窓の外から差し込む刺すような朝日と、けたたましく鳴く蝉の声のおかげでした。
私はベッドの上で、タオルケットにくるまったまま汗だくになっていました。
恐る恐る顔を出して部屋の中を見渡しましたが、そこには誰もいませんでした。
玄関のドアも、しっかりと閉まっています。
(……夢⋯、だったの?)
そう思って安堵の息を吐きかけた私の視線は、フローリングの床で凍りつきました。
玄関からベッドの脇まで。
黒く濁った泥のような足跡が、床一面に残っていたのです。
ひとつではない。いくつあるのか、数える気にもなれませんでした。
そして、玄関のドアの郵便受けのフタは、内側に向かってひしゃげたようにひどく変形し、半開きのまま固まっていました。
私はその日のうちに荷物をまとめ、実家へ逃げ帰りました。
その後、敷金は戻ってきませんでしたが、二度とあの部屋には近づいていません。
これが、私が体験したすべてです。
結局あれが何だったのかは今でもわかりません。




