黒い騎士
全身に走る鋭い痛みに、構っていられない。森の中を、私は疾駆していた。
逃げなきゃ、逃げなきゃ。逃げなきゃ。とにかくどれだけ走り続けただろうか。永劫にも思えるほどの追いかけっこだった。
この濃霧の中を見通すように奴は追い掛けてくる。最早、恐ろしくて振り向く事さえ恐ろしくて叶わなかった。
幾ら走ってもそいつは振り切れない。どうしても止まってくれない。泣いても喚いてもきっと許してくれない。
もう、私に残された手段はこれしか無い。此処で、奴を仕留めるしかないのだ。
血に塗れた手の中に在るナイフを強く握り締め、立ち止まり、振り返り、迫るそいつに切っ先を向ける。
立ち止まった奴は、同じように手に握った長剣をこちらへと突きつけて、帽子の鍔を人差し指で押し上げて見据えていた。
薄ら笑いを浮かべた奴は、黒い軍装に身を包み、帽子には髑髏の徽章、左腕の腕章にはハーケンクロイツが悪魔の笑いの様に刻まれていた。
「やっと立ち止まってくれた、ジャック・ザ・リッパー。」
その笑みに向かって、私はナイフを叩き込まんと腐葉土を蹴った。自分でも驚くような力と共に、身体が前に引っ張られる。
然し奴は振り下ろしたナイフを長剣で受け止めて、私の身体へと軍靴を叩き込んだ。人間ならば、その腕がへし折れても可笑しくないのに。
気持ち悪い、痛い、倒れたい。逃げ出したいけれど、そんな表情を少しでも出せば、この黒い騎士は、私の首を掻っ切ってしまうだろうから。
私は少しだって引かずに、返す手で、奴へとナイフを振るった。
「っとと、危なっ……。」
奴がよろめいて、少しだけ後方に身体を揺らした。即座に私はナイフの切っ先を奴へと向けて、その顔へと突き刺してやらんと手を伸ばした。
奴は其処から動かなかった。鮮血が奴の顔に飛び散った。勝利を確信した。だが其処から、私の身体はどうしても動かなかった。
違う。奴は長剣を握る腕を前に突き出して、私はそれを喉元に叩き込まれて、串刺しにされて、血は奴では無くて私の物だった。
何度ナイフを試みようと、それは思考だけの空振りで。何度も何度も切り裂こうとしても、奴の薄ら笑いは止まらない。
「わ、らし、か、うば、ぜん、ぶ。」
どうしても諦めきれずに、私は奴に向かってそう吐こうとしたけれど、ちゃんとした言葉にはなってくれなかった。
けれども奴は理解したのか、私の喉元から長剣を引き抜いて、薄ら笑いを崩さずに返答を寄越した。
「そうだ、奪うよ。だって戦争なんだから。」
そう言って、長剣を振るうと、私の首が切り離された。宙を浮いて、ごろん、ごろんと転がった。
淀んでいく景色の中。ありったけの怨念を黒い騎士にぶつけてやる為に、睨み付けたけれど。意にも介さずに奴は、踵を返して。私は悔しいと囁く事も出来ず、闇の中へと落ちていく。
戦時中のイギリス・ロンドンにて、独りの少女が行方不明となる事件が起きた。
それは歴史の闇の中へと消えていき、誰の記憶の片隅にも、残る事は無かった。
「怪我は無いかい?御嬢さん。」
「……はい。」
その一方で、独りの東洋人の少女の人生が、差し出された手によって救われた。
エッリ・ハーパライネン中尉、アーネンエルベ実行部隊「スピアー」としての、初の回収任務での出来事であった。