第1話 如月社長、怒ってる
「おえっ。」
買収案のバリュエーションの頁を講じていたとき、如月冬真は五度目にこの音を聞いた。整った眉がわずかに寄る。氷山みたいな顔は、それでも何の感情も出さない。
報告していた副社長が途中まで言って、語尾が空気に残る。収めるでもなく、続けるでもない。長机の両側には、如月グループで一番夜更かしに強い連中が座っている。いまは揃って、頭を下げている。
如月冬真はペンを置く。声は、大きくない。
「散会。」
言い終わるか終わらないか、執務室の人間が潮みたいに退く。椅子が床を擦り、ドアが開いて、また閉まる。
半分も経たないうちに、百階を超えるガラスの執務室に残るのは如月冬真と朝倉乃々の二人だけ。あとは、女の前に置かれた、二口しか減っていないミルクティー。
甘さが、まだ空気に浮いている。
朝倉乃々は背もたれにぐうたらと凭れ、両脚を軽く重ねている。シャンパンゴールドのシルクのスカートが、座っただけで細い皺を拾う。裾は膝ちょうど。脚を組み替えるたび、さらに少し上がって、白くて真っ直ぐな太ももが見える。
生まれつき、ひどく綺麗だ。眉目がきれい。ぐうたら凭れているだけで、手が届かないほど美しい。
だがいまは、ただ、むかつく。
タロイモのタピオカは、以前なら大好物だった。氷、甘さ、ストローを刺すと小さく鳴る、あれだ。今日は一口目からおかしい。甘さが喉を伝って、上へ返ってくる。
如月冬真が机を回って来る。顔色は水が滴りそうなほど暗い。歩幅だけは、いつもの場に出るときと同じく、優雅で高い。
女の前まで来ると、影が落ちる。彼女も、その一杯も、一緒に覆う。
「何か、汚いものでも食べたか。」
男は眉を軽く寄せ、声は相変わらず冷たい。
朝倉乃々が目を上げる。
この顔は、近づけばもっと綺麗で、もっと目に刺さる。眉目が深く、薄い唇が結ばれ、霜が降りそうなほど冷たい。
何度も見ている。十七のときも、講堂でも、この一年、車の中でも、鏡の中でも、彼が圧さってくるときも。今日になっても、まだ、息を呑む。
「おえっ。」
問いへの返事みたいに、体の不快がもう一度来る。今度は、音が少し大きい。
胃の裏返りを押さえてから、朝倉乃々は腹が立って、如月冬真の顔を真っ白に睨む。
「昨日、オタマジャクシお腹いっぱい。それで?」
如月冬真は一瞬、固まる。続いて、疑わしい赤みが、目に見える速さで白い耳の根元から広がる。
眼前の女を睨み、唇が動く。何か言いたそうで、この一句に噎せたみたいだ。
「乃々!」
やっと絞り出す。声が裏返るほど、上がっている。
「少しは、ちゃんとしろ。」
朝倉乃々は、その様を見て、気持ちがほんの少し良くなる。
「いいわよ。」
肩に垂れた長い髪を掻き、顎を軽く上げ、甘くて悪い笑い。
「中身は歪んでても、顔は整ってる。あんた、そういう女が一番好きでしょ。」
彼は、返さない。
だが喉仏が、はっきり一度、転がる。シャツの襟の奥に隠れた、短い動き。短いのに、隠しきれない。
それから自分のネクタイを解きに行く。骨の浮いた指が、寸分違わず結んだ結びを緩め、暗い色の絹を胸の前へ、だらしなく垂らす。暑いのか、彼女の一句に火傷したみたいに、息の場所を一つ、残したいだけだ。
朝倉乃々は彼を見て、ふと思う。胸が締まるほど綺麗なこの顔は、こういうとき、かえって摘まみがいがある。声を、もっと落とす。
「そういえば、まだ一声、足りないわ。——義姉さん、でしょ。」
この二字が刺さったのか、どうか。
如月冬真の喉仏が、もう一回、転がる。今度は、よりはっきりしている。俯いて彼女を見る。呼吸が明らかに重い。熱い息が、一回ずつ、顔に当たる。
会議室の空調は十分に効いている。だから、その熱が余計にはっきりする。
指は、緩めたネクタイの上で止まっている。節が力んで、少し白い。視線だけが、抑えきれず下へ滑る——シルクに貼りついた胸元から、白い脚へ。
朝倉乃々は、逃げない。
その息を肌に受けて、心のむかつきが少し退く。それから惑わされたみたいに、手を伸ばし、スーツのズボン越しに、引き締まって反った尻を摘まむ。掌の下の筋が、一瞬で硬くなる。
ゆっくり、さらに下へ。脚の付け根へ滑らせ、もう少し内側へ入れると、もう硬くなったところに当たる。布が熱く、突き上げられている。
如月冬真の下顎の線が、きつく張る。
息を呑んで喉に押し込み、数秒、理智と欲が殴り合う。それから力を抜くみたいに、手を伸ばしてベルトを外す。金属の留めが弾ける音は、がら空きの会議室で、軽いのに、よく通る。
ベルトを引き抜くとき、手は安定していない。朝倉乃々は見る。耳の根元が首まで赤い。下顎を死ぬほど噛んで、怒っているみたいで、耐えているみたいだ。
次の一秒、彼は苛立って手を伸ばし、彼女の下の会議用の椅子の背を、いちばん下まで押し込む。背が最低まで落ちるとき、とても小さな音がする。普段の体面も、一緒に押し潰したみたいだ。
シャンパンゴールドの裾が脚の付け根まで集まり、シルクは冷たい。肌の上に皺になって、すぐに彼の手の熱で温まる。
「朝倉乃々、これはお前が望んだことだ。」
口調は、ひどく険しい。




