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プロローグ

 春の終わりを告げる風が、ヴァレブランの街路樹を揺らしていた。


 王都から遠く離れた田舎町。

 石畳の道には朝市の活気があふれ、どこからか焼きたてのパンの香りが漂ってくる。

 私は買い物籠を抱えながら、市場を歩いていた。


「おはようございます、マルセルさん」

「ああ、リリアちゃん。今日は卵かい?」

「はい」

「昨日採れたばかりのがあるぞ」

「ありがとうございます」


 卵を受け取り、お金を渡す。


 これで夕飯の材料はだいたい揃った。

 あとはお肉と野菜を少し。

 できれば予算内で。

 できればおまけ付きで。


「リリアお姉ちゃん!」


 元気な声に振り向く。

 近所の子供たちがこちらへ駆けてきていた。


「見て見て!」


 差し出されたのは木でできた剣だった。

 なかなか立派な出来である。


「わぁ、格好いいですね」

「大工のおじちゃんが作ってくれた!」

「強そうです」

「だろ!」


 胸を張る姿が微笑ましい。


「将来は騎士さんかな?」

「なる!」

「じゃあ練習頑張らないとですね」


 頭を撫でると、少年は満足そうに笑った。

 その様子を見ていた魚屋のおじさんが吹き出す。


「子爵令嬢が今日もガキ大将やってるな」

「失礼ですね」

「違うのか?」

「違います」


 即答した。

 周囲から笑い声が上がる。

 私もつられて笑ってしまう。

 こういう町なのだ。


 この町で私を「お嬢様」と呼ぶ人はほとんどいない。

 リリアちゃん。

 リリアーヌちゃん。

 モンテル家のお姉ちゃん。


 だいたいそんな扱いである。


 もっとも、私もその方が気楽だった。


 うちのモンテル家は子爵家だ。

 百年以上前には名門だったらしい。


 ――らしい。


 というのも、私も聞いただけだからだ。

 お祖父様の代で事業に失敗し、お父様の代で領地の収入も減った。

 今では街外れの古い屋敷と、売るに売れない爵位だけが残っている。


 そのおかげで私は小さい頃から家事全般を仕込まれて育った。

 洗濯もする。

 料理もする。

 弟妹の面倒も見る。

 市場で値段交渉もする。

 生活力なら、その辺の町娘さんにも負けない自信があった。


 貴族令嬢としてそれがどうなのかは分からないけれど。


「今日はお肉が安いですね」


 肉屋の前で立ち止まる。


「朝一番だからな」

「もう少しだけおまけしていただけたり……」

「また始まった」


 肉屋のおじさんが苦笑する。


「だめですか?」

「その顔は反則だろう」


 結局、おまけしてもらえた。


 ありがとうございます。

 今日も夕飯が少し豪華になる。


◇◇◇


「それにしても卒業しちゃったんだなぁ……」


 帰り道。

 空を見上げながら呟いた。


 王立聖エルミナ学院。


 王国中の貴族令嬢が集まる名門校だ。

 未来の公爵夫人候補や侯爵令嬢たちが集まり、毎日のように派閥争いや婚約騒動が繰り広げられていた。


 正直、怖かった。


 私はというと。

「すごいなぁ」

「怖いなぁ」

「みんな大変そうだなぁ」

 そんな感想を抱きながら遠くから見ていただけだった。


 公爵令嬢たちが王太子殿下を巡って火花を散らしている横で、私は図書室にいた。

 侯爵令嬢たちが恋敵を牽制している横で、私は木陰で昼寝をしていた。


 そもそも誰も私なんて気にしていない。

 社交界の空気。

 あるいは背景の木。

 それが学院での私だった。


 卒業式の日ですら、

『あら、モンテル家ってまだありましたの?』

 なんて言われたくらいである。

 ……少し傷ついた。

 本当に少しだけ。

 たぶん。


◇◇◇


「ただいま帰りました」


 玄関を開ける。


「リリア姉さま!」


 直後、小さな影が飛びついてきた。


「おっと」


 弟のルシアンを受け止める。

 続いて妹のクロエも駆けてきた。


「おかえりなさい!」

「ただいま」

「今日のおやつは?」

「まだ決めてません」

「えー!」

「その前に宿題です」


 二人は同時に顔をしかめた。


 分かりやすい。

 思わず笑ってしまう。


 隙間風の入る古い屋敷。

 決して裕福ではない暮らし。


 それでも私はこの家が好きだった。


 おっとりしたお母様がいて。

 お人好しのお父様がいて。

 元気な弟妹がいる。


 王都のどんな豪華な屋敷より、ずっと落ち着く。


◇◇◇


 夕食の時間。


 スープのいい香りが食堂に広がっていた。

 焼きたてのパン。

 温かな料理。


 ルシアンとクロエは相変わらず賑やかだ。


 いつも通りの食卓。


 ――のはずだった。


 ただ一人、お父様だけが妙に難しい顔をしている。


 何かあったのだろうか。


「お父様?」


 声を掛ける。

 お父様は咳払いを一つした。


「リリア」

「はい」


 なぜか少し緊張した声だった。


「お前に話がある」

「なんでしょう?」


 お父様とお母様が顔を見合わせる。


 なんだろう。

 家計がまずいのだろうか。

 屋根がまた壊れたのだろうか。

 まさか借金取りが来たとか。


 少し身構えた私に向かって、お父様は言った。


「お前に縁談が来た」


 かちゃん。


 手からスプーンが落ちた。


「……はい?」


 今、なんと?


「だから縁談だ」


 お父様は真面目な顔で繰り返した。


 私は数回まばたきをした。


 縁談。

 私に。

 縁談。

 意味は分かる。

 十八歳なのだから。


 友人の中には婚約者がいる子もいた。

 卒業と同時に嫁いだ令嬢だっている。

 だから言葉の意味は分かる。


 分かるのだけれど。


「……私にですか?」

「お前以外に誰がいる」


 お父様はそう言った。


 私はもう一度まばたきをした。


 そして、心の底から思った。


 ――何かの間違いではないでしょうか。 


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