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「あぁもう!また漢字が分かんない!モモ!」
「えーとねぇ、それは『すいちょく』だね」
「数学の宿題なのに、漢字の読み方を調べてる時間の方が長いんだけど!」
「蘭丸くん、私も質問!ここの英文和約がわかんないんだけど。なんでいきなり『彼女』が出てくるの?」
「んーと、そのsheは前の文のタイタニック号のことだよ」
小学生から海外留学していた蘭丸は日常生活であまり用いない漢字の読み書きとなるとやはり少し覚束ないが、英語、独語、仏語、伊語とメジャーな欧州系の言語ならカタコトで意思疎通ぐらいはできるぐらいには身についていた。
「えーなんで!船は船だよ。itのはずじゃん、なんで女の子なの?」
「俺に聞かれても…。おっさん、知ってる?」
「んー、地球のことを『母なる大地』とかいうだろ?あれと同じノリだ。昔の船乗りは、船に母性みたいなものを見出していたんだろなぁ。その名残りだよ」
「えー、なにそれ!時代錯誤!菊ちゃん、昭和!」
「俺に言われても知らんがな。それにおれはぎりぎり平成生まれだ。っていうかお前たち、なんで俺の部屋で宿題してるんだよ。ファミレスでも行けばいいだろ」
「だって私も蘭丸くんもバイトしてないからお金ないもん。ここなら涼しいし、フリードリンクだし」
「人の冷蔵庫を漁ることをフリードリンクって言うんじゃないよ」
「うふふ、そう言いながらジュースとお菓子を補充しておいてくれる菊ちゃんは嫌いじゃないよ」
「おっさん、ツンデレってやつだな」
「ああもう、好きにしろ」
菊次郎は不貞腐れるようにソファに寝っ転がって本を読み始めた。この部屋で寝泊まりしている菊次郎は、この部屋を占拠されては他に行くところがない。お金を払って自分が喫茶店に逃げ込むのも馬鹿らしい。
ハイドリッヒの元に猿の手を戻してから4日が経過した。その間、特に何の変化もなく日数が過ぎていった。予想していたように、ハイドリッヒは蘭丸の中学から姿を消した。後任の教師もすんなり決まり、不自然なほど自然にハイドリッヒが存在していた痕跡が消えていった。
‘待ち’を基本方針としていた菊次郎達は特にやることもない。
桃と蘭丸もそれぞれの学校で、もうすぐ定期テストが近づいており、放課後になると菊次郎の部屋に来て、冷蔵庫を漁りながらテスト勉強をするようになっていた。
そして桃の同級生である飯田サオリが行方知れずになってから10日ほどが過ぎている。もう3人とも彼女の安否について、口に出さなくなっていた。
菊次郎だけでなく蘭丸も、桃が暴走してハイドリッヒを探して一人で京都中を駆け巡ろうとするんじゃないか危惧したが、意外にも菊次郎の部屋に来て大人しくテスト勉強をしている。少なくとも表面上は。
「ふーっ、いったん休憩、休憩。あ、そうだ、テスト以外に課題があるんだった。ねーねー、蘭丸くんは‘トロッコ問題’って知ってる?」
「トロッコって、あの線路を走る、なんちゃってて電車みたいなやつ?それ自体はわかるけど、その‘トロッコ問題’ってのは知らないよ」
「えっとねー、自分がトロッコの分岐レバーの前に立っていて、そこにトロッコが猛スピードで突っ込んでくるんだよ。さらにその先の線路の上に5人も人がいるんだけど、その5人を助けようとして分岐レバーを倒してトロッコの行き先を変えると、変更先の線路の上にも別の人が1人いてその人が犠牲になっちゃうんだよ。その状況であなたは分岐レバーを倒しますか?って問題」
「そんなの『トロッコ来るから逃げろー』って言えばいいだけじゃん。そもそもそんな危ないところにいる方が悪いよ」
「なんかねー、そういうのはしちゃいけないんだよ。レバーを倒す倒さない以外の選択をしちゃいけないって縛りで」
「えっ、何それ意味わかんない。自分は何も悪い事してないのに、5人見殺しにするか、自分で1人犠牲にするか選ばなくちゃいけないの?」
「そーそー。たち悪くない?イジワル問題だよね」
その後も、『レールに大きな石を置いて脱線させてしまえばいい』とか、『レールの上にいるのが、死にかけの老人5人と、赤ん坊1人だったらどうする』とか、論点が大いに発散しながらも盛り上がる桃と蘭丸。
その姿はまさに、出題者の思惑どおりにディスカッションを盛り上げる「良い生徒」である。
「お前らなぁ、やいのやいの騒がしくしやがって。その問題は俺が生まれる前からあるのに、答えなんか出ないんだよ」
「それがいいんじゃないの?答えの出ない問題をどう考えんのっていう」
「おーっ、蘭丸くん、なんか良いこと言った。そうだそうだ」
「思考力を鍛える教育的な意味はあるかもしれんぞ、けどな、これは明らかに…悪問だよ。
うん、そうだ。これは悪い問題だ。
良い回答がない問題ってのは、問題自体が良くないんだよ。
『日本の教育方法は遅れてるー』なんて言うつもりはないけどよ。まともに考える必要のない問題もあるってことは教えんとな」
怪しげな大人について行って、よく学校をサボりがちだった菊次郎にとって、教師というのは狭い世界しか知らないのに口うるさいだけの存在だった。だからこうしていい大人になった今でも、教師という存在をどこか毛嫌いしている節がある。
「じゃあこのトロッコ問題はどうすんの?」
「それはなー、どうせ出題者はこっちがあーでもないって悩んでる姿を見たいだけだろうからな。そのニヤついた顔面にパンチさ」
「はははっ、それいいね」
「…そうは言ったが本当に先生を殴ったりするなよ」
「確かにモモなら、勢いでやりかねないな」
「何よ、蘭丸くんまで。もうテスト勉強はヤメヤメ!菊ちゃん、今日は焼き肉に繰り出すよ」
「別に焼き肉でもいいけどよ。お前ら、こう何度も一緒に晩飯を食べてるけど、家で食べなくていいのか?」
「私んちは問題なーし。お母さん、海外出張中だし」
「なんでタピオカミルクティー屋で働いてるのに海外に行くんだよ」
「あれ?言ってなかったっけ?タピオカ屋は飽きちゃったから、とっくに辞めて、今はヨガのインストラクターをやってるんだよ。それで今はインドでプチ修行だって」
「インドは“プチ”って距離か?まったく、相変わらずの自由人だな…、仕事辞めたばっかの俺が言えたことじゃないけど」
「うちも母さんはこのところ夜勤だから。それに一人よりは食べる物の選択肢も増えるし」
「おいおい。桃のとこはともかく、後から親御さんが『息子が知らない大人とつるんでる』なんて心配しないだろうな」
「しかも『胡散臭い無職』とだもんね」
「…」
「大丈夫かな。俺が言うのも何だけど、母さん天然だし、あんまり気にしないよ」
「何というか今時のお母さんだなぁ。…あれ、少年のお母さんって年いくつ?」
「えーっと、確か33かな」
「と、年下かよ…まじかぁ」
「私も蘭丸君もお母さんが19歳の時に生まれてるね」
「はぁ、なんだか無性にタバコと酒が欲しくなってきた」
菊次郎が19歳の時分には、大学合格を目指す浪人生だった。中学の途中から怪しげな大人について回り、学校を留年ギリギリまでサボっていたツケを支払っていた。
夢中になって追いかけていたものが泡のように目の前から消え去り、残ったのは大学受験という現実。菊次郎の人生で最も惨めな時期。
それから10年以上経つが、その時期に関連したことを考えるだけで気が重くなる。
「ふふっ、菊ちゃんにしては珍しいね」
「まぁこんな蒸し暑くなってくると、タバコはともかく俺でもビールが飲みたくなるよ…って、こんな暑くなってきたってことはもうすぐ祇園祭りじゃねーか。ただでさえこの街は観光客ばっかでめんどくせーってのに」
「菊ちゃん、ちょいちょい地元感だすよね、高槻出身のくせに」
「高槻って、大阪じゃん」
「うるさいな、なんか人が京都コンプレックスを持ってるみたいな言い方しやがって。そもそも俺はお前らが生まれる前から京都に住んでるからな」
「いやー京都人を名乗るなら少なくとも3代前から京都に住んでもらわへんとなぁ。ウチや蘭丸はんみたいに」
「そうどす、そうどす」
「あほみたいな京都弁ごっこしてんるだったら、置いてくぞ」
「ごめん、ごめん、じゃあ焼肉にしゅっぱーつ!」