初恋と、ファーストキス
「それで、陽菜さんはその後どうしたんですか?」
「夏休みの間お兄さんと一緒に過ごして、色々考えました。それで、新学期になった初日に勇気を出して例の一件についてクラスのみんなにきちんと理由を話した上で謝りました。
結局、私が手を出した子はそれでも分かってもらえなくて疎遠になっちゃいましたけど、クラスの中には私のことをわかってくれる子もいてくれて、それからは卒業まで楽しく過ごすことができました。
でも、それはたまたまうまくいっただけで、もしかしたら誰にもわかってもらえなかったもしれません」
「そうですよね……。陽菜さんはそうなることが怖くはなかったんですか?」
「怖くなかったといえば嘘になります。でも、お兄さんが言ってくれましたから。
『もし、誰からも分かってもらえなかったとしても俺は陽菜の味方だからな』って。
だから、怖くても勇気を出して私は話すことができたんです」
そう言って晃一へ視線を向ける陽菜であったが、ここまで話を聞いていた晃一は照れくさそうに陽菜から向けられる視線に気づかぬ振りをしてそっぽを向いていた。
「私がそうだったからってレナちゃんに私と同じようにしてくださいって言いたいんじゃありません。
でも、もし勇気を出して私と同じように行動するって思ったのなら……」
大きく息を吸い込み、かつて晃一から教えてもらったように満面の笑みを陽菜はレナへ向かって浮かべ、
「お兄さんが私にしてくれたように、私がレナちゃんの味方になります!
だって、私たちもう友達ですから!」
そう宣言するのであった。それを聞いたレナは泣き笑いした表情を浮かべ、「ありがとうございます、陽菜さん」と嬉しそうな声で返事をするのであった。
その後、陽菜の話を聞いて何か思うことがあったのかレナは自宅へと帰ることになった。もちろん、かつての陽菜と晃一のように〝また明日〟と約束を交わして。
残された晃一と陽菜はそもそもの目的であった小説を読み始め、夕暮れ時の時刻が訪れるまで穏やかに流れる時間を共に過ごした。
「さて、そろそろ帰るとするか。あんまり遅いと美咲さんや礼次郎さんが心配するだろうし」
借りようと思っていた小説の一冊を読み終えた晃一は、長時間同じ姿勢を続けたことで凝り固まった身体を伸ばしながら、そう陽菜に提案する。
「お兄さん、千沙都お姉ちゃんの名前が抜けていますよ」
「いいんだよ、あいつは。どうせ今頃テスト期間から開放された反動で部活を楽しんでるか家でゴロゴロしてるだけなんだから」
「前からちょっと思っていましたけれど、お兄さんって千沙都お姉ちゃんにだけは何だか遠慮がないですよね……」
「そうか? まあ、でもそうかもな。あいつに遠慮なんてしてるとこっちが馬鹿を見るからな。あいつに対しては遠慮しないくらいの態度がちょうどいいんだよ」
「……ふ~ん。そうですか~」
「なんだよ、何か言いたげだな?」
「別になんでもありませんよ~」
なにやら考える素振りを見せる陽菜の態度が気にかかった晃一であったが、そのことを尋ねても答えようとしない陽菜にそれ以上の追及をするのをやめた。
そのまま二人は共有スペースを出て、読み終えた本を返却棚に置くとまだ手をつけていない小説を貸し出し用の受付で手続きを済ませて借りて自宅に向かって帰ろうとした。
だが、入り口に向かって進もうとしたところで陽菜は晃一にある提案をした。
「お兄さん! お兄さん!」
「ん? どうした?」
「せっかく久しぶりにここに来たんです。どうせなら、あそこに寄ってから帰りませんか?」
そう言われて晃一は陽菜が先ほどレナに話しをしていた例の非常階段へ行きたがっているのだと気づく。
「いいけど、なんでまたわざわざ」
「いいから! 行きましょうよ~」
あの場所に行かないならまだ帰らないという姿勢を見せる陽菜にしょうがないなと苦笑しながら二人は非常階段に向かった。
久方ぶりに訪れた非常階段は相変わらず人気がなかった。
「ここでお兄さんと初めて会ったんですよね……」
シミジミと出会った時のことを思い返す陽菜に晃一は
「いや、その前に書籍コーナーでぶつかったのが最初だろ」
と回想に耽る陽菜に水を差す。そんな彼に陽菜は不機嫌な様子を見せ、
「もう! お兄さんは本当に女心の分からない人ですね!」
とプンプンと怒ってしまう。今日は一日陽菜に怒られてばかりだなと晃一は内心で溜息を吐いた。
「ねえ、お兄さん。初めて会った時は私たち見ず知らずの他人でしたけど、今はもう家族になったんですよね?」
「そうだな。あの時はまさかこんな風に陽菜と一緒に暮らすことになることになるなんて想像もしなかったよ」
「私もです。あの、ですね。私お兄さんが家族になるってわかってからずっと思ってたことがあるんです」
「なんだ、改まって」
「今までは他人だったのでお兄さんって呼んでましたけれど、今はもう家族になりましたよね?
だから……その、これからは……お兄ちゃんって呼んでもいいですか?」
恥ずかしそうに顔を両手で隠してお願いをする陽菜に晃一は苦笑しながら答える。
「なんだ、そんなことか。いいよ、陽菜の好きに呼んでくれて。それくらいのお願いを聞くのなんて容易いもんだ」
晃一の答えを聞いた陽菜は顔を隠していた両手を取り払い、満面の笑みを浮かべた。
「やった! お兄ちゃん……お兄ちゃん。えへへっ。
あっ! そうだ! それとあともう一つだけお願いがあるんですけれど……」
「いいぞ、こうなったらどんなお願いでも聞いてやる。何て言ったって俺は陽菜のお兄ちゃんだからな」
自分を頼りにしてくれる可愛い妹のお願いだ。聞いてやらねば男が廃るといった様子で胸を張りながら晃一は冗談めかしながら答える。
「ホントですか! そ、それじゃあ……お兄さん。ちょっとだけかがんでもらっていいですか?」
先ほどお兄ちゃん呼びをすると言ったばかりなのに、すぐにお兄さん呼びに戻ってしまっている陽菜を微笑ましく思いながら、彼女のお願いどおりに晃一はかがみこむ。
ちょうど陽菜の視線と晃一の視線が平行に交わるほどの高さになる。
「これでいいか? ところでこれに何の……」
意味があるんだ? と口にしようとしたところで晃一の頭は真っ白になった。
気がつけば陽菜の顔が晃一の目の前にあり、頬には陽菜の両手が添えられ彼女の掌から伝わる体温が伝わる。
だが、それよりも遥かに温かく瑞々しい晃一の唇から感じられた。
触れ合った唇と唇。その時間は僅かなものであったが、晃一にはこの一瞬がとてつもなく長い時間に感じられた。
晃一の頬に添えた両手を離し、彼から離れた陽菜は顔を真っ赤に染めて恥ずかしそうにしながらも、舌をちろりと口から出して悪戯が成功したような表情を浮かべていた。
「えへ、えへへっ。しちゃいました。
お兄さん、今の私のファーストキスですよ? 私、お兄さんから見たら子供かもしれないですけれど、これでも立派な女の子なんですから!
お家の中では私にとってお兄さんはお兄ちゃんですけれど、外に出たら私の大好きな初恋の人なんです」
「……え? えっと、あれ?」
未だに状況が掴めず混乱する晃一。そんな彼に陽菜はここぞとばかりに思いの丈をぶちまける。
「私、お兄さんに会った時に慰めてもらってからお兄さんに一目惚れしてるんですから!」
突然の陽菜の行動、そして告白に困惑する晃一。そんな彼に陽菜はその小さな身体からは想像もできないほどの勇気を振り絞って宣言する。
「美咲お姉ちゃんは分かりませんけど、千沙都お姉ちゃんは怪しいですから先手を打たせてもらいました。
私、誰にもお兄さんのこと渡すつもりありませんから! だからお兄さん……」
――覚悟してくださいね?
そう言い残して、陽菜はその場から去って一足先に自宅へと帰っていった。
状況を理解できないままその場に残された晃一は、まだ口元に残る陽菜と交わした口付けの残滓を確かめるように触りながら、頭を抱える。
「嘘だろ……。ファーストキスって。それは、俺もだって。
というか、一目惚れって……。これからどんな顔して陽菜に接したらいいんだよ……」
最後の最後で予想もしなかった爆弾を落とされた晃一はその場に座り込んだ。
突如降って湧いた晃一の目下の悩みはこの後家に帰り、再び顔を合わせることになる陽菜のことだった。
――夏が始まる。新しい関係を迎えて初めての夏。
そして、彼の周りで少しずつ動き始める過去と現在の恋模様。
その始まりを告げる夏が……この日、幕をあげた。




