初夏の悪夢
例の会話以来陽菜の胸に宿った疑念は本人も気づかぬほど僅かに、しかし着実に自覚を持たないままその存在を拡張していた。
あれ以来定期的に行われるようになった家族に対する不平不満の報告会。
話の流れはまず雑談から。そして、雑談から自然に繋がる流れで家族に対する愚痴の言い合いが始まる。
この日も授業の合間の休み時間にそんな光景が繰り広げられていた。
「それで、私のところはお兄ちゃんが~」
「私はお姉ちゃんが……」
「うちは妹がさ~」
まるで生産性のない己の鬱憤を晴らすためだけの、会話の数々。それを聞いた陽菜は表情にこそ出していないものの、さすがの彼女でもうんざりとした気持ちでいっぱいだった。
(なんでみんな家族に対して平気でそんな悪口が次々と出てくるんでしょう。
いい加減に聞いていて嫌になります)
陽菜とて家族に対して全く負の感情が湧かないわけではない。彼女だって愚痴を呟きたくなるような出来事があったりする。
それは一昨日食後のデザートにと彼女が大切に取っていたプリンを勝手に食べてしまった千沙都であったり、彼女が貯めたお小遣いで買った少女漫画を彼女より先に読んでしまった千沙都だったり、見たい番組があるのに譲るのを嫌がって、素直にリモコンを譲ってくれない千沙都のことだったり。
……主に千沙都に対して思うことであった。
もっとも、文句を言いたくなる相手である千沙都はそうした行動を取った後すぐに、陽菜が彼女の行動を美咲に報告しその度に笑顔を浮かべながらお説教を始める美咲の前で度々反省させられているため、愚痴にするまでもない出来事として彼女の中で消化されていた。
だからこそ本当に些細な出来事でしかない周りの友達たちの家族に対する不満の言い合いは陽菜にしてみればそこまで言われるほどのことをしたのか? と聞いていて疑問を感じてしまうものであり、それを当たり前の出来事だと受け入れている周囲と自分の価値観のギャップに悩みを抱き始めているのであった。
「ねえ、陽菜ちゃんはどう思う?」
「そうだよ、陽菜ちゃんだってたまにはお姉ちゃんとかお父さんのことウザイと思わない?」
「陽菜ちゃん」
「陽菜ちゃん」
「陽菜ちゃん」
『そう思うよね?』
悪気はない。彼女たちはその場の空気に流されているだけ。
協調性は大事だと小学校に進学してから教師たちから今まで幾度となく聞かされてきた。集団の輪を乱すものは淘汰される。それが仮にどれだけの力を持ったものでも。
それは自然界でも通じる掟であり、人という種族ではあれば子供でも分かる当たり前の摂理。
陽菜の胸にズキズキとした痛みが走る。いい加減にして欲しいという気持ちと苛々とした感情が沸きあがる。
協調性? 同調? そんなものは知ったことではない。思ってもいないことを口にして、自分の家族を悪く言いたいとは陽菜はどうしても思うことができなかった。
だからこの時も陽菜は笑顔を取り繕い返事をした。
「う~ん、私は特にそうは思わないですね」
苛立つ感情を必死に抑え、どうにか言葉を振り絞る。この場さえ乗り切れば、荒波をうつ感情も時間とともに穏やかになる。家に帰れば優しい家族が待っている。
そう思ったからこそ、陽菜は周りの意見に流されずに自分の気持ちを口にすることができた。
だが、陽菜を取り巻いている少女たちは求めていた回答を得られなかったことに思うことがあったのか、陽菜の答えを聞いた一瞬、冷めた視線を彼女に向けた。
「ふ~ん、そっかぁ」
少女の一人がどこか納得したように呟く。
「前から思ってたけど、陽菜ちゃんって私たちとちょっと考えが違うよね」
少女の一人は残念そうな様子を見せる。
「でも、それってさ……」
少女の一人が発した言葉を途中で止め、
「陽菜ちゃんの家はお母さんがいないから言えるのかもね~」
心の奥底に陽菜が仕舞いこんだ禁忌の扉に無粋に手をかけた。
――何を?
「そうそう! やっぱりこういうのって実際にいないと気持ちがわからないもんね~」
――言ってるんだろう?
「わかる、わかる。そう考えるとやっぱり陽菜ちゃんの家って羨ましい。
口うるさい人がいないって思うだけで私楽しく過ごせるよ」
そこまでが陽菜が聞き流せた限界だった。気づけば頭の中は真っ白になり、その後自分が何をしたのか記憶がまるでなかった。
思い出せるのは教師に羽交い絞めにされて止められながら、必死に叫び散らす己と信じられないと言った表情で陽菜を見つめる少女たちの姿だった。
教室は荒れ、教師たちはまさか陽菜がそのように暴れるとは心底思ってもいなかったため、事情を聞くため少女たちと陽菜を別々の空き教室へと移動させて話を聞くことにした。
だが、事情説明を求める教師たちに対し陽菜が口を開くことはなかった。言っても理解をしてもらえることだと陽菜が教師たちを信じ切れなかったからだ。
口を閉ざし俯く陽菜に、教師はいつまでもこのままの状態を続けさせるのも不味いと思ったのだろう。
形だけでも仲直りをさせ、問題の根本的解決を後回しにするという判断を下した。
結局、その後陽菜は少女たちと形式上の和解を交わさせられた。だが、彼女たちと陽菜の間に生まれた関係性の亀裂はもはや復元不可能なものであった。
出来事を遠目に眺めていたクラスメイトたちからは突然陽菜が一方的に少女たちへ暴力を振るったようにしか見えなかったため、その一件によって陽菜に対するクラスメイトの視線は理解しがたい存在を見るものへと変貌した。
クラスの中心人物ではあっても、君臨者ではなかった陽菜はこうして集団の輪から弾き出された。
あと一ヶ月もすれば夏休み。今年も楽しい夏が訪れたらいいと感じていた陽菜にとって、初夏を迎えたこの日の出来事は最悪の夏の幕開けとなったのだった……。




