ひとつ屋根の下から始まる物語
『ちーちゃん。お熱は下がった?』
『おかーさん、熱いよ。苦しいよ……』
『困ったわね、こんな夜遅くだと夜間病院しか開いていないし、ちょうど熱冷ましのシートも切れちゃってる。
ごめんね、ちーちゃん。お母さんちょっと熱冷ましを買ってくるから、もう少しだけ我慢していてね』
『うん……わかった。いい子で待ってるからお母さん早く帰ってきてね』
『すぐ戻るからね。お母さんが帰ってきたら熱冷ましを貼って病院に行きましょ。
何かあったらお父さんか、お姉ちゃんを呼ぶのよ』
優しい声色と共に額にひんやりとした感触を僅かに残し、千沙都の母はその場を後にした。
――それは在りし日の記憶。
かつて幼い千沙都が熱を出し、熱冷ましを買いに出た母はすぐに戻ると言い残し家を後にした。
これは、千沙都の中に残る実の母親と言葉を交わした最後の記憶。
……
…
「ちーちゃん、大丈夫?」
まどろみの中、夢の中で呼びかけられたものと同じ呼び名を聞いた千沙都は沈んでいた意識が徐々に浮かび上がってくるのを感じた。
ゆっくりと閉じていた瞼を開くとベッドの脇に座り、心配そうに自分を見つめる姉、美咲の姿だった。
「みさき……ねえ?」
ゆっくりと上体を起こそうとするも体の節々が痛み、うまく体を動かせない。
「無理に起きなくてもいいよ。さっきちょっと額に触れたけれどかなり熱があるみたいだから。
一度体温計でしっかり熱を測ろうか」
そう言って美咲は手に持った体温計を千沙都の脇に挟ませる。
「たぶん原因は昨日の雨に濡れて帰ってきたことだと思うけど……。もう、だめよ傘を忘れたからって雨に濡れて帰ったりしたら。
私は昨日アルバイトだったけど、晃一君は家にいたんだから連絡して傘を持ってきてもらえばよかったんだから」
「ごめんなさい……」
「前までならともかく、今はもう晃一君に頼ることに抵抗ないでしょ?
亮子さんに対する態度はちーちゃんが一番思うことがあるのは私もわかってるから何も言わないけれど、困ったら頼っていいのよ。
晃一君だってきっとちーちゃんに頼ってもらったら喜ぶと思うし」
「うん……」
「それと亮子さんも、ちーちゃんのこととても心配してたよ。お仕事休もうとしていたけれど、それは私が止めておいたから。
今のちーちゃんだとまだ亮子さんの好意も素直に受け止められないだろうからって。
でもね、ちーちゃん。本当に亮子さんちーちゃんのこと心配していたから、熱が下がったらちゃんとお礼を言うのよ。
〝心配してくれて、ありがとう〟って。きっとちーちゃんと本当は仲良くしたいと思っているけれど、ちーちゃんが受け入れてくれるのをあの人はちゃんと待っててくれてるんだから」
「うん、わかってる……。ごめんね、おねえちゃん」
熱が出て気持ちが弱っているのか、美咲の言葉を素直に受け止めて昔のような呼び方で美咲に甘える千沙都。二人の話が終わったと同時にタイミングよくピピピっと体温計の測定終了音が鳴り、千沙都の脇に挟んだそれを美咲が取り出す。
「38.6度。ひとまず学校には私から連絡しておくね。今日はアルバイトもお休みしたから、学院が終わったらなるべく早く帰ってくるから。
ひーちゃんの方が早く学校が終わるけれど、あの子には風邪が移ったらいけないから部屋に入らないように言っておいたから。
一応枕元にスポーツドリンクとゼリーを置いてたから、食欲が出てきたら食べてね」
「ありがと」
「それじゃあ、お姉ちゃんそろそろ学院に行くから。もし熱が下がっても大人しく寝てるのよ」
「もう……わかってるってば」
心配性な姉に少しだけむくれた態度を見せる千沙都。そんな姿を見せるのも、彼女が姉である美咲に心を許しきり、心から甘えきっているからだろう。
「それじゃあ、行ってくるね」
そう言ってその場を去る姉の姿がかつて同じように部屋を出て行った母の姿と一瞬重なる。
「あっ……」
だが、熱のためか去っていく姉を止めようとする言葉は口から出ることはなく、かすれた声だけが僅かに発せられただけで、そのまま美咲は千沙都の部屋を後にした。
一人部屋に取り残される千沙都。チク、タクと普段は意識しないと聞こえない置時計の秒針を刻む音が妙に耳に響き渡る。
高熱とかつての記憶が一人ぼっちになった千沙都の心細さを増大させる。胸を掻き毟りたくなるほどの寂しさが急激に込み上げ、目元に涙が溜まっていく。
ポロポロと目元から涙が零れ落ちる。これまで胸の内に抱え込んでいた不安が熱と共に表面化し、抑えていた感情の波が堰を切ったように溢れ出る。
「おかあさん……。さみしいよ、おかあさん……」
掛け布団を頭から被り、嗚咽を漏らしながら千沙都は泣き続けた。
そうして、大量の涙を流し続けて僅かに残っていた体力を使い果たした千沙都はいつの間にか眠りに落ちるのだった……。
……
…
鼻腔をくすぐるほのかな香りが眠りに落ちていた千沙都の意識を呼び覚ます。徐々に浮上する意識は眠りに落ちる前よりもずっとハッキリとしたものだったが、それでもまだ体の中に残る僅かな熱の余韻のためか、ぼんやりとした視界に映る人影につい、もういないはずの人の名を呼んでしまう。
「おかあ……さん?」
「……悪い、俺だ」
バツの悪そうな様子で頬を掻いている人物。今度こそ鮮明に映った視界にはベッドの横に置いた椅子に座る晃一の姿があった。
「あれ? どうして……」
「どうしてって……。そりゃ、お前が心配だったからな。
悪かったな、体調悪いのに一日独りにさせちまって。本当は学校休もうとも思ったんだけれど、美咲さんに止められてさ。
一応これでも授業終わってすぐに帰ってきたんだけど。遅かったか?」
「ううん。そういうことじゃなくて……」
優しい声色で話しかける晃一。千沙都が疑問に思っていたのは何故晃一がこの場にいるのかということもあったが、それ以上に気になったのは彼がベッドからはみ出た千沙都の手を握っているということだった。
千沙都が気にかけていることに気がついたのか、晃一は恥ずかしそうに頬を染めて視線を千沙都から逸らしながら理由を説明する。
「いや、これは、な? 家に帰ってきてすぐ今のお前でも食べられるようにお粥を作ったんだよ。それで、熱冷ましのシートももうダメになってたから新しいものに変えようとしたら無意識にお前が手をつかんでな……。
お前かなりうなされてたから、無理に解くのも心苦しくて……」
「そうだったんだ。その、ごめん」
「それはいいんだけど、もう離してもいいか?」
いつもの千沙都なら無意識の内に繋いだ晃一の手をすぐに離しただろう。だけど、眠りに落ちる前の心細さがまだ残る千沙都は甘えた様子で、晃一にお願いをする。
「まだ、ちょっとだけ繋いでちゃダメ?」
千沙都のそんなお願いに晃一は面食らい、僅かに逡巡する。だが、弱った千沙都の様子を見てあきらめたように溜息を吐き、
「わかったよ。だけど、ちょっとだけだぞ? これ結構恥ずかしいんだからな」
「うん……」
普段の元気な千沙都とは違い、素直で甘えた様子に戸惑いを隠せない晃一。見た目は怖いのになんだかんだ人に甘い晃一の返事を聞いた千沙都は心にポカポカと温かい感情が染み渡るのを感じた。
(ホント、こいつってば人のことばっかり考えて……。パッと見た外見はヤンキーの癖に、優しくて……甘くって)
初めは意地を張っていた自分の現状を変えないとと提案したテスト勉強。
でも、毎日勉強を見てもらううちに、晃一と一緒に勉強することや夜の公園で勝負することがここ最近の千沙都の楽しみの一つになっていた。
気づかぬうちに縮んだ彼との距離に密かに喜びを感じ、一緒に過ごせる時間が少しずつ千沙都にとって大事なものになっていた。
だからだろうか。これまで彼に語ることのなかった母のことを熱で弱って素直になっている今だから語ろうと千沙都が思ったのは。
「あのね、晃一」
「ん? どうした、喉でも渇いたか? それともお粥食べるか?」
「聞いてほしいことがあるの……。私の、お母さんのこと」
「……おう」
真剣な様子で訴える千沙都にそれまでの照れた様子から真面目なものに表情を変える晃一。そんな彼の生真面目さが可笑しくて千沙都は内心でクスリと微笑んだ。
「私の実のお母さんね。今から7年前に亡くなったんだ」
「居間に置いてある写真の人だよな。綺麗な人だなとは思ってた」
「そうでしょ? 私たち家族の自慢のお母さんだったんだ。
料理上手で、優しくて、いつだって私たちの心配をしてくれた自慢のお母さん」
「どうして亡くなったのか聞いてもいいのか?」
「うん。今の晃一になら聞いてもらいたい。私もこんな機会じゃないと素直に話せないと思うし……。
お母さんね、私が今日みたいに熱を出した日に買い物に出かけた帰りに事故にあって死んじゃったんだ……」
「……」
「あの日はね、当時習っていたプールの練習で無理しすぎちゃって疲れから熱が出ちゃったの。
習い事終わって夜遅くに熱が出たこともあったし、家に熱冷ましの予備もなくってお母さんはお父さんと美咲姉に私の様子を見ているように頼んで買い物に出かけて、そのまま帰ってこなかった……」
初めはハッキリとした声で話をしていた千沙都だったが、徐々に当時の感情が沸きあがってきたのか、次第に言葉が途切れていく。
「すぐ戻るってね……言ってたんだ。でもね、お母さんはその日を最後に帰ることなかった。
私も、陽菜も、もちろん美咲姉もすごく悲しくって……涙が枯れるくらいにワンワン泣いて……。
葬儀の最中みっともないくらい泣く私たちをお父さんは涙を堪えて抱きしめ続けてくれたんだ……」
「そう、だったのか……」
「でもね、今になって思えば本当は一番お父さんが泣きたかったと思うんだ。
だって一番好きだった人が亡くなって悲しくないはずがないんだから……。お父さんは何も言わなかったけれど、私何度も夜中こっそりお父さんが普段は飲まないお酒を飲んでこっそり泣いてるとこ見たことあったの。
だからね、亮子さんと再婚したって聞いた時は本当はお父さんに〝おめでとう〟って言ってあげたかった」
いつの間にか眠る前と同じように瞳から流れ出る涙を隠そうともせず千沙都は語り続ける。
「――けど、言えなかった。
お父さんも陽菜も美咲姉も亮子さんや晃一と会ったあの日にすぐに受け入れようとしてるんだって感じたら、お母さんのことが忘れられたみたいで急に悲しくなったの。
あんなにみんなが大好きだったお母さんのことを忘れて新しい家族として過ごしていくって思ったら胸が痛くなって、切なくて。
わけわかんないくらい心の中がグチャグチャになって、祝福したい気持ちとこの現状を受け入れたくないって気持ちが喧嘩して、もうどうしようもなかった……」
止め処なく流れる涙をゴシゴシと袖で拭う千沙都。そんな彼女の姿を見た晃一は繋いだ手をギュッと力強く握り締めた。そして力を込めて繋いだ手とは反対の空いてる手を千沙都の頭に向かって伸ばし、優しく撫でる。
「馬鹿だな……。そんなに辛かったんならもっと俺にキツく当たってもよかったんだぞ」
「しようと思ったわよ……。でも、あんたが私の想像以上に優しくてできなかったのよ……」
「そっか」
「そんなだったから私、亮子さんにもあんたにも素直に接することができなくて、でも仲良くするためのキッカケが欲しくて……勉強の件を持ちかけたの。気づいてた?」
「まあ、なんとなくは……な」
「やっぱり? だから本当は部活の件はおまけ。
あんたに勉強見てもらって、成績上げて赤点一つも取らなかったら私ね、亮子さんにちょっとずつでも素直になろうって決めてたの。
あ~あ、言っちゃった。本当はね、この話成績がちゃんと出て結果が伴ってたら話そうと思ってたんだから……。どうしてくれるのよ?」
「それなら、なおさら早く風邪を治して明後日の試験頑張るしかないな」
「もう……。こっちは病人なんだからもうちょっと優しくしてくれてもいいじゃない」
「充分に優しくしてるつもりだぞ?」
「嘘ばっかり」
「ホントだっての。じゃなきゃこうして恥ずかしいの我慢してお前の手を繋ぎ続けたりしないって」
「それもそっか。……ねえ、晃一?」
「どうした?」
「晃一はさ、私のこと家族だって思ってくれてる?」
恥ずかしさや不安を感じさせる声音。顔の半分を掛け布団で隠しながらそう問いかける千沙都に苦笑しながら晃一は答える。
「馬鹿。今更そんなこと聞くなよ。
お前はもう、俺にとって大事な家族の一人だよ」
「そっか……。えへへ……。ありがと、晃一」
布団で隠していた口元を再び見せた千沙都は満面の笑みを浮かべていた。
「ほら、まだ体調戻ってないんだから。そろそろ大人しくするか、持ってきたお粥食べるかしろって」
「それじゃ、お粥食べようかな? せっかく晃一が作って持ってきてくれたんだし。
せっかくだし、食べさせてよ」
「お前なぁ……。はあ、今日だけだからな?」
「うん、わかってる。はい、あーん」
「ちくしょう、覚えておけよ……」
これまで心に溜め込んでいたものを全て吐き出した千沙都はすっかり甘えた態度を晃一に見せる。そうして、二人の仲はこの日今まで以上に深まりを見せたのだった。
翌日、千沙都の熱は下がった。しかし、せっかく治った風邪がぶり返すといけないとの理由からもう一日休みを取って次の日の期末試験を万全の様子で迎えたのだった。
そして、それから十日後……。
「晃一、晃一! 見なさいよ、この試験結果!」
期末試験の結果が返却されたその日、一足先に自宅へと戻っていた晃一の元へ喜びを全身で表した千沙都が戻ってきた。
「どうだった? ……って、その態度を見れば聞くまでもないか」
千沙都から手渡された成績表はこれまでよりも遥かにいい点数が記載されており、成績もグンと伸びてもう少しで二桁まで届きそうなものだった。
「よかったな、いい結果が出て」
「うん! ようやく私の真の実力が発揮されたってことね!」
調子に乗りまくる千沙都に苦笑しながら彼女の頭にチョップをする晃一。
「ば~か、調子に乗るな。そんな様子だと次は俺が勉強見なくてもこの成績維持できるってことだな。
それじゃあ、頑張れよ~」
「……え? 嘘、嘘! ちょっとした冗談よ! ごめんってば!
神様、仏様、晃一様! これからも私の勉強をよろしくお願いいたします」
「ったく、最初からそう言えっての。でも、ホントよく頑張ったな」
「ありがと。あ、あと……」
それまでの元気はどこへやら、急に恥ずかしそうにモジモジと体を揺する千沙都。少しの間を置いて千沙都は意を決した様子で晃一にこう告げた。
「これからもよろしく! 晃一!」
その表情はどこまでも透き通る青空のように晴れ晴れとしたものだった。
ひとつ屋根の下、始まった新しい家族生活。本当の意味で彼らが歩みを告げるその第一歩が、この日始まりを告げた。




