第9章:汚職より不潔、あるいは反対派リーダーの甘い罠
王都の行政を司る区役所の奥底から這い出してきたような、一人の男が「マゾヒスト・アイアン」の門を叩いた。 ミラが、ゼノスが「ミラさんの溜息を音階にして作曲した楽譜」を無慈悲にシュレッダーにかけていると、高級なローブを冷や汗で濡らした男が、すがるような目でカウンターに寄りかかった。
現れたのは、この地区を治める街長・バルドス。彼は今、支持率の急落と、街頭演説のたびに浴びせられる市民からの罵声に、夜も眠れないほどの恐怖を感じていた。
「……助けてくれ。もう、外に出るのが怖いんだ。市民の怒りの声が、私の耳を、心を、絶え間なく切り刻んでいくんだよ……!」
「いらっしゃいませ。入会ですか? その腐りきった保身欲と、税金で膨らんだ腹部を入り口のゴミ集積場へ捨ててきてください。あそこの変態を支持する者は、この世に細胞一つも存在しませんから」 ミラの、権力に対しても一切の忖度がない氷の挨拶が突き刺さる。
バルドスは震えながら訴えた。 「……罵倒されるのが、あんなに恐ろしいものだとは思わなかった。私はただ、街を良くしようと思っていただけなのに。反対派のリーダーに睨まれるたびに、心臓が止まりそうになるんだ」
「罵倒されるのが恐怖、ですか。贅沢な悩みですね」 ミラは事務的に、トレーニングルームの中央に設置された、なぜか演説台のように加工された「加圧トレーニングマシン」を指し示した。 「あちらに、罵倒を吸って筋肉を肥大させる、この世で最も救いようのない『反対派』がいます。彼を、あなたの政治生命を終わらせる死神だと思って対峙してごらんなさい。市民の怒りなんて、彼の異常性に比べれば、ただの心地よいそよ風に聞こえるようになりますよ」
バルドスが震える足取りで演説台に立つと、その目の前に、異様な姿の男が立ちはだかった。
「あぁ……! 権力! 支配! 社会の頂点に立つ者からの、この見下されるような圧力! 私の筋肉が、格差という名の不条理で歓喜の痙攣を起こしているぞぉぉ!」
ゼノスは、上半身裸で全身に「反対」と書かれた赤いテープを巻き付け、手には「ゼノス反対!」「街長は私を踏みつけろ!」という、意味不明なプラカードを大量に抱えていた。その顔は、バルドスに対する「純粋な敵意」……ではなく、彼に罵倒されることを待ち望む、狂気的な熱を帯びている。
「街長……! お待ちしておりました! 私は今日から、あなたの政治活動を徹底的に妨害し、24時間体制であなたの人間性を否定し続ける『究極のアンチ』になります! さあ、私を黙らせるために、ありったけの怒声を浴びせてください!」
「なっ……。いや、私は平和的に解決したいんだ……」
「平和!? 政治家にそんなものは必要ありません! 私は今から、あなたの過去の些細な失敗を100倍に膨らませて、この世で最も卑猥な替え歌にして王都中に触れ回ります! 止めてください! 私を公権力でねじ伏せ、その汚物を見るような目で『黙れ、社会のダニが!』と罵り、私を絶頂させてくれぇぇ!」
ゼノスは演説台に這い上がると、バルドスの足元で「街長専用の踏み台」になりきり、狂ったように腰を振り始めた。
「さあ! 政策を語れ! 私はその一言一言に、最高に的外れで不快な親父ギャグを被せ続けます! 『街長』が、『重畳』な結果に、『丁重』にお断りぃぃ! どうですか、この政治生命を根底から腐らせる寒さ!」
「……今の、マイナス110度ですね」 ミラが背後から、バルドスの耳元に極寒の溜息を吹きかける。 「街長さん。このゴミを黙らせる方法はただ一つ。あなたの胸の内にある、自分勝手なアンチへの怒りをすべて言葉に変えて、奴の自尊心ごと粉砕することだけですよ。それができないなら、次の選挙を待たずに、あなたの地位はこの変態に飲み込まれるでしょう」
「……っ! この……この、厚顔無恥な変態野郎ぉぉ!」 バルドスの心の中で、恐怖が「激しい怒り」へと塗り替えられた。 ゼノスの理不尽な妨害、耳を汚すギャグ、そして物理的な不潔さ。それらがバルドスの臆病な心を焼き尽くし、一人の「戦う政治家」としての本能を呼び覚ました。
バルドスは演説台を強く叩くと、ゼノスの顔を指差し、全力で吠えた。 「黙れ、この不浄な塊が! お前のような、理屈も倫理もない奴隷に、私の街を、私の誇りを汚させてたまるか! お前が何を言おうと、私は私の正義を貫く! 嫌ならこの国から出ていけ、この変態生物!」
「ひぎゃあああ! 素晴らしい! その独裁的な一喝! 私が……私が『国から出ていけ』と言われた! 最高の国家規模の拒絶だぁぁ!」
演説台の下で悶絶するゼノスを見下ろしながら、バルドスは自分の中に漲る、かつてないほどの自信を感じた。 不思議なことに、あれほど怖かった「反対派の声」が、今はもう怖くない。これほどまでに意味不明で、不快で、そして救いようのない「アンチ(ゼノス)」を相手にした後では、市民の批判など、ただの熱心なアドバイスにしか聞こえなくなったからだ。
一時間後、バルドスは汗を拭いながら、しかし王者のような堂々とした歩みでトレーニングルームを出てきた。
「お疲れ様でした、独裁者予備軍さん」 ミラが、バルドスに(指先でつまむように)入会特典の冷えた高級栄養ドリンク(に見えるただの苦い汁)を渡す。 「あんなゴミを罵倒し続けた経験があれば、どんな激しい議会もただの遊び場に見えるでしょう。その調子で、街の掃除を(変態の排除も含めて)頑張ってください」
「……ありがとう。私、ようやく分かったよ。政治家とは、万人に好かれる者ではなく、誰に何を言われても揺るがない『厚かましさ』を持つ者なのだと。あの変態に比べれば、私の厚かましさなど、まだまだ甘いな」
バルドスは力強い足取りで、夕暮れの王都へと帰っていった。翌日の演説で、彼が反対派の罵声を見事なまでの「冷徹な無視」で一蹴し、逆に支持率を爆上げさせたのは言うまでもない。
「ミラさん……街長さんのあの、私を『国外追放』しようとした冷酷な意志……。私の魂に、パスポートのない孤独な旅路を刻んでくれました……」 「そうですか。そのままあなたが世界の境界線を超えて消滅し、二度とこの宇宙の地図に記されないことを切に願っています。空気が澱むので、そこから動かないでください」
「あぁぁ、宇宙規模の除名! ミラさんによる完全なデリート!」
ゼノスが再び喜びのあまりのたうち回る中、路地裏に新たな迷い子が。それは、最高の味を作っても王が満足しないと嘆く「宮廷料理人」。ゼノスの「究極の粗食」指導が、彼の味覚を最悪な形で再定義することになるのだが……それはまた、次のお話。




