第1話:その門を叩く者は、尊厳を捨てよ
王都の華やかなメインストリートから数本裏に入った、湿り気を帯びた路地裏。そこには、およそ健全な肉体作りとは無縁に見える、黒ずんだ鉄の扉が鎮座していた。看板には、禍々しい筆致で『マゾヒスト・アイアン』と記されている。
新人騎士カイルは、震える手でその扉を見つめていた。騎士団に入隊して三ヶ月。名誉ある近衛騎士を目指して王都へ来たはずが、現実は厳しかった。最新鋭のフルプレート・アーマーはその輝きに反してあまりに重く、カイルの貧弱な体幹は行軍のたびに悲鳴を上げる。先輩たちからは「防具に着られている」「歩く鉄屑」と罵られ、昨晩ついに「次回の演習で遅れたら除隊だ」と引導を渡された。
「……ここ、しかないんだ。どんな意志薄弱な者でも、百パーセント肉体を改造できるっていう、地獄のジム……」
カイルが覚悟を決めて扉を押し開けると、冷たい空気と共に、銀髪を揺らす絶世の美女が立っていた。しかし、その瞳には客を歓迎する色など微塵もなく、ただ「生ゴミ」を仕分けるような無機質な光が宿っている。
「いらっしゃいませ。入会ですか? 尊厳と羞恥心は入り口のゴミ箱へ捨ててきてください。回収は不可能です」
受付嬢・ミラの挨拶は、カイルのわずかな希望を粉砕するのに十分な鋭さだった。
「あの、体験入会を……騎士団の演習に間に合わせたくて……」 「筋肉は裏切りませんが、あそこの講師は生物の倫理を裏切り続けています。覚悟はいいですか?」
ミラが指差した先。防音魔法が施されているはずの奥の部屋から、悍ましい重低音が響いてきた。
「はぁ……はぁ……! 重い……! もっと、もっと私を地面にめり込ませてくれ! この重力という名の支配……愛のムチが、私の脊髄を痺れさせるんだぁぁ!」
カイルが部屋へ足を踏み入れると、そこには地獄の光景が広がっていた。彫刻のような、あまりに完璧で猛々しい肉体を持つ男――ゼノスが、自ら首に太い鎖を巻き付け、その端を天井の滑車に通し、自分自身の脚力で首を絞め上げるという狂気的な「自主トレ」に励んでいたのである。
「ゼノス、客です。仕事をしなさい、この公然わいせつ物」
ミラの冷徹な声が響く。ゼノスは「ひぎぃっ! ミラさんの声……鼓膜を蹂躙するその冷たさ……最高のご褒美だ……!」と全身を激しく痙攣させながら鎖を放した。彼は涎を拭うこともせず、四つんばいのまま、カイルの足元まで高速で這い寄ってきた。
「君……いい、いいよ。その『自分をゴミを見るような目』! ゾクゾクするねぇ! 私の筋肉が、君の軽蔑でパンプアップしていくのがわかるよ!」
ゼノスは立ち上がると、カイルの華奢な肩を、血管の浮き出た強靭な指先でなぞった。
「悩みは……『鎧の重さに耐えられない』、だね? ふむ、ミラさんから聞いていた通りだ。君は重圧に負け、心まで折れかかっている。ならば……私がその『重圧』そのものになってあげよう」
ゼノスはカイルをトレーニング用のベンチに座らせると、あろうことかその膝の上に、自らの巨体を横たえた。
「さあ、カイル君。この私の、欲望と脂肪を削ぎ落とした純粋な『エゴの塊(100kg)』を、君の細い足で支え続けるんだ! もし膝が折れたら、私は君の耳元で一晩中、自作のポエムを囁き続けるからね!」 「なっ、そんなの……嫌だ!」 「嫌だろう? 私という存在が、生理的に、魂の根源から不快だろう? ならば力を込めろ! 私のようなクズを、その汚物のように蹴り飛ばすつもりで大腿四頭筋を収縮させるんだ!」
あまりの不潔感、そしてゼノスの顔が近付くたびに漂う「異常者の熱気」に、カイルの脳内では警報が鳴り響いた。
(この人に触れられたくない! この変態と同じ空気を吸いたくない! 屈辱だ、こんな男に膝枕をするなんて!)
激しい拒絶反応が、カイルの眠っていたアドレナリンを爆発させる。震えていた膝が、ゼノスの重みを強烈に押し返した。
「おおお! いいぞ! その収縮! まるで……『騎士』が来たのに、私の関節は不快感で『キシキシ』鳴っている……!」
「……今の親父ギャグ、マイナス40度ですね」
いつの間にか背後に立っていたミラが、凍てつく視線をゼノスに投げた。 「ジムが結露するので、その汗と一緒に蒸発して消えてください。あと、そのポーズ、害虫の末期症状にそっくりで素敵ですよ」
「あああああ! 毒だ! ミラさんの言葉が、私の不浄な血を浄化していくぅぅ!」
悶絶するゼノス。カイルはそのあまりに無様な姿を見て、ふと気づいた。
(……僕は、何を悩んでいたんだろう。鎧が重い? 先輩の言葉が辛い? でも、この男よりは……この『生物の失敗作』よりは、僕は遥かにマシだ。こんな人間にだけは、なりたくない!)
一時間の地獄のような「指導」が終わる頃、カイルの脚はかつてないほどの熱を帯び、パンパンに張っていた。しかし、不思議と心は晴れやかだった。
「お疲れ様でした」 ミラが、カイルに冷えたタオルを(投げつけるように)渡す。 「見ての通り、世界には『あそこまで終わっている男』がいます。貴方の悩みなんて、彼の性癖の深さに比べれば水たまりのようなものですよ」
カイルは深く頷き、力強い足取りでジムを後にした。もう、鎧の重さに負けることはないだろう。
「ミラさん……今の彼、最高に私を汚物を見るような目で見てくれましたね……」 「黙ってください。掃除用具を出す手間が省けなくて迷惑です。早く可燃ゴミの日になってくれませんか?」
ゼノスはその罵倒を「愛の賛歌」として受け取り、誰もいないジムで再び自らの首に鎖を巻き始めた。これが、王都の平和を(歪な形で)支えるジム「マゾヒスト・アイアン」の日常である。
次なる客は、美しい笑顔が作れず指名が取れないと嘆く「売れない嬢」。ゼノスの徹底した「クズっぷり」が、彼女の中に眠る「冷徹な女王」を呼び覚ますことになるのだが……それはまた、次のお話。
ゴールデンウイーク中 2話掲載します




