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パンハラと過去と邂逅

 交番を出ると、車移動だ。長田さんは「嫌なら歩いて行ける。それほど遠くはない、すぐそこだ」と行ってくれた。指さしたほうに白い建物が見える。乗り気ではなかったけれど、歩くのはもう、ね。おとなしく後部座席へ乗りこんだ。


 病院に到着して数分すると、事前に必要な説明をしてくれたらしかった。検査着に着替えて手袋も腕時計も外してコンビニ袋ごと預けて、いくつか検査を受けた。その間、ずっと清水さんがそばで付き添ってくれた。


「あの、清水さん。長田さんはどちらへ?」


「東京の警察と連絡を取ってくれているんだ。ほら、君、東京在住だろう?」


「事件だったんですか?」


「え?」


 公務員だから9時始業ってわけにはいかないだろうに。仮に、わたしの誘拐が警視庁でも誘拐事件として扱われていたらこれほど時間がかかるのか。情報共有とはいえ、発生日時、被害者の様子、犯人の追跡はどうなるか……それほど量が多いとは思えない。何を話し合っているのか。それとも、


「父と、連絡がつきませんか?」


 途端に、清水さんの頬がこわばった。どうやら、そうらしい。AとBは一切父に連絡していなかったということ? いや、父には連絡したはず。父が警察に連絡せず交渉役を務めたんだ。あの父にそんなことができるのかな。まあ、務めたのか。それはさておき、スマホがあれば父に電話したかった。聞くのは怖いけれど、確かめたいことはたくさんある。LINEなら文字で聞けるし。


 次の検査のため、看護師が呼びに来た。直後、廊下に足音が響く。長田さんが「清水」と呼びかける声を聞いた。父と連絡がついたという内容だった。電話なら話せるだろうとオサダさんが言う。


 正直、まだ心の準備ができていない。でも善意を断るにはどうしようか。寝るか。検査中だと迷惑になりかねないから、制服に着替えてから寝よう。清水さんが目を話した一瞬の隙をついて、点滴を受けながら寝たふりをした。途中、長田さんが戻ってきて清水さんと何か話し合っていた。内容までは聞き取れなかったが、声量や音程から察するに大人の話だ。


 点滴が完了したタイミングで目覚めたふりをした。実際、少しは寝落ちしてたかも。制服は洗ってくれたらしく、きれいになっていた。着替えのときに腕時計を確認すると――8時24分――だった。


 ほっつき歩いていると、医者と話している長田さんと清水さんを見つけた。


「軽い脱水症状だったみたいだ、ほかに異常はなかったらしい」長田さんが教えてくれた。


 わたし、確か龍宮城で10秒チャージふたつとココア280㎖飲んだよね? それでも脱水症状なのか? あまり釈然としなかったが、軽くお辞儀しておいた。


「お父さんとは連絡着いたから、署で落ち合うことになった。10時前には到着すると思うから、向こうで待とうな」


「はい、ありがとうございます」


 車で移動するときも後部座席で仮眠をとらせてもらった。警察署に到着すると4階の会議室に連れていかれた。休憩のおかげで、茶色いfoxで笑いださない程度に回復した。


 


 *******




 長田さんも清水さんも、どこかへいってしまい室内ではひとりだった。


 コンビニの袋から、まず匣をとりだした。500ページ前後の文庫本を横向きに3等分したくらいの大きさ。時間ではないだろうけれど、きっと大切なものが入っているだろう。

 続いて、3冊のノートを取りだした。龍宮城内で軽く目を通してすぐに、3つの車が関わる事故についてのスクラップと人間関係のメモが母の筆跡で残されているとわかった。藤うらら名義の6作品には、交通事故に関する事件は扱われていない。この事件を基にした原稿が存在するとしても、未発表だ。『青写真』の代わりに書こうとしていたのだろうか。ならばなぜ発表を断念したのだろうか。単純に、推理が組み立てられなかったから? それとも……納得できる理由を探していると……会議室の扉が開けられた。顔を見せたのは、清水さんだった。背で扉を押し開ける。

 腕時計は――8時53分――別に隠さなくても良いのに3冊とも閉じてしまった。


「あの、父は」


 まだ1時間あるとわかっていた。それでも聞いてしまった。清水さんは両手に抱えた飲み物を机に並べながら自分の腕時計を確認しながら「まだ、もうちょいかかるかな。ごめんね」謝罪させてしまい、こちらこそすみません、の意をこめて軽く頭を下げた。


「コーヒー、ココア、リンゴジュース、水。そこの自販機で買ってきたんだけど、どれにする?」


「……どれでも大丈夫です」


「好きじゃなかった?」


「あ……いえ。あの、でしたら、刑事さんはコーヒー飲めますか?」


「え、ああ、うん。平気だけど」


「でしたら、ココアいただいても良いですか? ホットですよね?」


「うん、温かい。寒いなら暖房つけようか?」


「あ、いえ、そこまでではないです」


 ココアで暖をとった。正直、交番のときより寒くもないしのども乾いていない。たぶん、病院で脱水症状うんぬんといわれたから飲み物を買ってくれたのかな。ただ、4種類も買う必要あるか?


 清水さんはコーヒーを指先で手繰り寄せて少し離れた椅子に座った。「少し話を聞きたいんだけど、いいかな?」手帳を開きながら聞かれたので、問題ないと答えた。


「まずは、そうだな……君の名前は?」


「はぐまあるらです。はがきのは、クラブのく、濁点、マッチのま、朝日のあ、留守居のる、ラジオのら。この6文字です」


「丁寧にありがとう。そうだね、何があったのか知りたいんだ。どこからなら話せるかな?」


 清水さんは気遣う口調だ。4種類も飲み物を買ってくれたのも同様の感覚だろうか。

 幸い、時間もある程度は把握している。昨日の18時過ぎに図書館を出たところから覚えているかぎり話した。いくつか質疑応答を経て、刑事さんは手帳のメモを眺めつづける。しばらく彼を眺めていたが、目が合うのも気まずいから匣をいじくりまわしていた。そのうち側面に親指がフィットするくらいのへこみを見つけた指先に力をこめる。ボタンのようなものだとわかって、申の頭よりも多く連打した。


 1分間くらい押し続けたとき、匣は3回震えた。マナーモードにしたスマホが通知を受信したときのような感覚だった。違う、と言われたのだろうか。再び何度も押した。56回押した直後、57回目を押そうとしたとき、同じように震えた。56回のプッシュで正誤が判定されるらしい。

 単純な道具で必要な情報を伝える手段、短符、長符で文字を表すモールス信号が適任だろう。


 短符=・ 長符=―   ・×3=― 文字間隔=・ 単語間隔=・×7


 日本語の信号でも英語の信号でも同じことが言えるけど、56音ってどうなんだ? 英語はよく使う信号を短く設定しているから、スペルとモールスの長さが比例するとは限らない。日本語は、よくわからん。いずれにしろ、テキトーにやって当たるわけが無い。何か、指標となるような文字列が


「パンハラかぁ」


 不可避なのかな。ここまできたら。わかったよ、諦めますよ。ハラスメントに立ち向かってやろうじゃあないか。ふと清水さんと目が合った。パンハラに反応したのかな。知ってるのか、パングラム・ハラスメント。いまどきの刑事さんは違うね。……この人になら、手伝ってもらうのも……あ、違う。手伝ってもらうにしても、優先すべきは別にある。


「11年前って、何歳でしたか?」


「え? 11、何年だろう、2013年か、えっと……大学生だったかな」


「どれくらい覚えてますか? 例えば、何でしょう、スノーデン事件とかの年だと思うんですけど」


「絶妙な角度ついてくるね。オリンピック招致とか、同じ年かな。おもてなしとか倍返しとかも」


 なんとなく覚えているらしい彼に「でしたら、こちらは?」龍宮城で入手したノートを、それぞれ適当なページを開いて差し出した。


 1冊目は、2013年6月19日、山梨県で乗用車を運転していた碓氷泰之さんが衝突により死亡した事故に関する情報。 衝突の前に病死していたことが判明した事故。同年11月の、長野県で、暴走車が歩道橋に乗り上げて7人が亡くなる事故。


「……碓氷菜月」


 清水さんも、同じ名前を見つけて言葉を失った。いや、何が言いたいのかつかめていないだけか。半年以内に、別の交通事故で、同じ名字の被害者がいると指摘されただけにも見えるだろうし。

 碓氷泰之さんの病死。碓氷菜月さんの事故死。


 母が何を思って同じノートにスクラップしたか、わからない。それでも、このふたつの事故が関連していると考えたのだろう、と予想はつく。 加えて、2冊目の途中からは、また別の交通事故についてまとめられていた。2014年2月27日。山梨県と長野県の県境で、夫妻の死亡と同乗していた12歳の長男が重傷を負った交通事故に関するスクラップだった。

 最後の、3冊目。龍宮城で検めたとき、このノートがパンハラ回避にはならないとすぐにわかったのは、最初に開いたページに――


 2013年6月19日  碓氷泰之ウスイヤスユキ (35)

 2013年11月8日  碓氷菜月ウスイナツキ  (33)

 2014年2月27日  香坂啓介コウサカケイスケ(33)

    香坂萌日コウサカモエカ (36)

   昊弥ヒロミくん   (12) →3monthes

               (妹セナちゃん 9)


 ――これが書かれていたから……香坂……この名字が視界に留まり、動けなくなった。


 2013年。わたしは当時5歳くらい。単純計算で、母はひとつの作品を2年から3年かけて執筆する。発生から間もない事案を扱った作品は他に無いけれど、この資料の内容は『青写真』より母らしさがある。取得できる情報量が違うだけで作風に伴う執筆方法は同じだろうし、書きやすかったのではないだろうか。何より風化していないほうが情報は豊富だから。加えて、10年前に12歳だったなら、今年は22歳前後。Aの特徴に符合すると納得できる。 また、最後の事故から8か月後には母が姿をくらませた。無関係とは思えない。


「これ、母の資料です。藤うららって、推理小説書く人で、よく実際の事件を題材にする人でした」


 神妙な顔つきで、ノートを確認していく清水さんに言ってみた。聞いてるかなんて知らん。

 ノートの角を長めながら考える。気になるのは3点。 碓氷泰之さんの死亡から香坂夫妻の交通事故死まで1年以内の出来事であること。ヒロミくんとセナちゃんを除いて、大人たちの年齢がみんな近いこと。ひとつ、ヒロミくんの妹のことは書かれているのに、弟のことは書かれてないこと。

 母はなぜこれらの資料を数冊にまとめていたのか不明だし、どのような作品を書こうとしていたか全容はわからない。けれど、父に確認したいことがまた増えた。もうそろそろ心構えを進めないと。腕時計は――9時13分――を指していた。


「ごめんね、あっちで電話してる。何かあったら声かけて」


 清水さんは部屋の隅で誰かに電話をかけた。すぐに相手と話し始める。内容を聞かないようにする代わりに、匣のパンハラの覚悟を決めた。メモ帳とペンを用意して……黒BLACK 茶BROWN 赤RED 青BLUE 紫VIOLET 灰GRAY 白WHITE……ここから抽出した32文字AABBBCDEEEEGHIIIKLLLNOORRRTTVWWYを列挙。 うん、相応の文章が作れるはず。母音が極端に少ないわけではなさそうだし、WHがあれば疑問詞も作りやすい。いけるいける。よし、いこう。


 メモ帳を見開き9ページを真っ黒に染め上げたころ、清水さんが電話を終えて戻って来た。ハラスメントの内容を説明すると「うわぁ」とだけ言われた。




 *******




 時間をかければかけるほど安定して8語くらいずつに分けられるようになったが、一向に文章が作れない。「俺の英語力はRECKで使い切ったよ」 身近な大人はスマホで検索したくせにそう宣う始末だ。自分で頑張るしかないと悟った。


 ちょうど残りの5文字を並べると、BITOWが残る。 清水さんが飲み干したコーヒーも、微糖。

 なんとなく眺めていると、ノートを覗きこまれた。

「疲れてる? 疲れてるよね?」「いえ、疲れてないです。大丈夫です」「お父さん到着したらちゃんと起こすから」の問答になり、まだ眠りたくないと固辞していたら


「いや、大丈夫なら、ほら、ここ。TO取ろうか。ほら、こっち、NICEとくっつけたらNOTICEにもなるよ。気づいて?」


「B、I、W……」


 清水さんのおかげでわかった。なんでBITOWが気になったのか。


「スマホ、調べてもらえますか。空港、BWIって」


 アルファベットはよく略称に用いられる。都市名や施設名、公機関名にも。空港名も同様に、スリーレターが与えられる。BIWはオーストラリアのどこか。BWIはアメリカの


「ボルティモア空港だってさ。知ってるの?」


「いえ。えっと、エドガー・アラン・ポーが小説家として活動していた地です」


「エドガワランポ?」


「〝父〟のほうです、〝父〟」


「え? 江戸川乱歩が? 君、江戸川乱歩の娘?」


「……わたしが乱歩の娘だったら、清水さんや長田さんよりもずっと年上ですよ。確かに乱歩は日本の推理小説隆興の祖ですけどね」


 だめだ、この刑事さん疲れすぎてる。パングラムづくりにつき合わせたわたしに責任あるよね、ごめんなさい。腕時計は9時47分を指していた。


「世界初の推理小説とされるモグルガイ、違います、『モルグ街の殺人』を書いた〝推理小説の父〟って言われているんですよ、エドガー・アラン・ポー。そういう意味で言いました」


「あー……ごめん、頭使ってなかった」


「いえ。推理小説、よく読むので。たまたま知ってただけです」


 AとBが、父が捜しても見つからないわけだ。確信はないけれど、可能性として海外に逃げられたら警察ですら見つけるのが難しい。母の居場所はわからないままでも、見つからない理由は考えればわかりそうな気がする。


「じゃあ、その英語の文章、ボルティモアと関係してるってこと?」


「いえ、してないと思います」


 ここまでやって文章作れないなら、どこかで誤ったのか。英語は名詞と動詞があれば文章成立する。作れなかっただけで、誰かには何か作れるのかもしれない。だったら、どうするか。


「ブルートフォースですね」


 要するに、頑張るってことですよ。

 清水さんはものわかりが良い。首をかしげて1分も経たないうちに、何をしようとしているのか理解してくださった。引かれているのは分かる。わたしだってやりたくてやってるんじゃあないんだ。わからないから仕方なくこうしているだけなんだ。お分かりいただきたい。頭抱えないでください。


「何か手掛かりは? やみくもにやったって、もっと疲れるだけだよ」


「疲れていませんって」


「わかったから。箱、何か書いてないの? 反射のせいで黒いと文字が見えにくかったりするよ」


 いまさら見つかるわけ……ナマエハ?……清水さんは得意げに「ほら」と言う。何も言い返せなかった。名前? 羽熊有流羅ですけど、何か? 日本語のモールスなら56音だよ。やったね。


 符号を打つと――――――――――空耳? 思わず清水さんを見上げる。


「もしかして、今、老化を指摘されてる?」宙を見つめて苦笑する。


「すみません」あ。この場合は謝ったら認めるのと同義だ、ごめんなさい。「あの、でも、何も起こりませんね。この匣、開くと思ったんですけど」


「容器はなくて装置なのかもね」


 じゃあ、この信号の受信先はどこだろう。何のために……考えるのは今はやめておこう。疲れた脳には無理。ただ、中に入ってるものを確認する必要がないなら――擦れる金属音――扉が開けられる音。 息が止まって、肩が跳ねた。清水さんが素早く立ち上がり、背に庇ってくれた。会議室の扉は、わたしのすぐ背後にある。ゆっくり振り向いた。 扉を開けたのは長田さんだった。「ノックしてください」清水さんの注意に対して軽く謝ろうとした長田さんを押しのけるように姿を表したのは


「パパ」


「あるら……!」


 思わず立ち上がる。直後、ずっと座ってたからか疲れていたからか、膝が勝手に折れた。その拍子にバランスを崩す。が、抱きしめられた。視界の端では、長田刑事が清水さんの襟首を掴んで引っ張っていった。「再会の邪魔するな」理不尽な理由だとは思ったけれど、その気づかいは有り難かった。

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