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俺のシャープペンシルが火を噴くぜ

 綾香は、今、まずい状況にあった。


 しんと静まり返った教室。黒板と教師に背中に集約される生徒たちの視線。


 今が好機。教師の視線、クラスメイトたちの視線が綾香に注がれていない、今こそ。


 綾香は右手に持ったシャープペンシルの先端を、目の前の席に座る一人の男子生徒の背へと近づけ、そして――


 ぷすりと突き刺した。


 ぴくりと、その男子生徒は僅かに肩を跳ねさせる。緩慢な動きで振り返り、僅かに不満さを滲ませた顔が露わになった。


「――ふふ」


 彼の顔を見て、綾香は笑みを抑えずにはいられなかった。どうしてこんなにも楽しいのだろう。綾香は己の行動の理由もよく分からないまま、そして、よく考えないまま、彼の視線に心が華やぐ。


 直後、綾香の額に優しい衝撃が加えられた。男子生徒の手刀打ちである。


「ん――へへ……」


 綾香は額を抑え、くすぐったそうにはにかむ。もはや抑える努力すらなかった。


「……何がそんなに楽しいんだか」


 呆れた風に呟いて、彼はそれっきり前を向いてしまう。そんな姿すら綾香には好ましく感じられて、もっと悪戯をしてみたくなる。


 そうして、今度はその露出した首筋へ。


 そんなやりとりが五度ほど続いたあたりで、授業終了のチャイムが鳴り響いた。


「二人ってほんと仲いいよね」


 教師が教室を後にした直後、綾香の隣席の男子生徒がそう声を掛けてきた。薄っすら色素の抜けた柔らかそうな黒髪に、中性的な顔立ち、優しげに微笑む彼の名前は、新美佐斗にいみさと


 昨日行われた席替えにて、綾香とはこうして隣り合わせとなり、二、三言葉を交わすようになったのだ。


「え、そ、そうかな?」


 綾香は前の席に座る男子生徒、一颯に向けて、ちらちらと視線を送る。当の一颯は、背を向けたまま文庫本を開いていた。たまらず、その脇腹を指先でつんつんとやって、振り向かせる。もううんざり、とでも言いたげな顔が綾香に向いた。


「うん。いいコンビっていうかカップルっていうか……。そういうの憧れるなぁ……」

「ええ? ふふ、そんな、私たち別に付き合ってないよ? ねぇ藤見君」

「あー、そうね……」

「む、ちゃんとこっち向いてよー」


 ゆっくりとそっぽを向き始めた一颯を、綾香はにやつく顔もそのままに、再び指で突っついた。


「う、うぜぇ……」

「う、うざっ⁉ うざい……うざい? 私」

「ああ」

「そっか……。うざい、うざい……」


 一颯の言葉がよほど堪えたらしく、綾香は俯いて萎んでいく。その口からは、ぼそぼそと呪詛のようにうざい、うざい、と延々零れていた。


「もう、藤見君? 恥ずかしいからって、そういうことあんまり言わない方がいいよ? 誤解されちゃったら困るでしょ?」

「誤解でも、勘違いでも、言い間違いでも何でもなく、ただの真実なんだけど」


 そう言って、一颯は綾香の様子に目を向ける。


 彼女が一颯に抱いているものが友情、それも、学校や職場が変わって離れ離れになった時に、自然と少しずつ疎遠になっていくような、さっぱりとした段階までで止まってくれるものなら、一颯は許容する。


 だけど、もしそうでないのなら。もし、これから育っていくようなことがあるのなら。


 今すぐにでもこの関係を終わらせなければならないと、一颯は理解していた。





 控えめなノックの音。ドアの前にいるのは、一人の老人だった。


「翔君、翔君。一度、部屋から出てきてはくれないかい?」


 ここは一颯も住んでいる学生寮三階の通路。辺りに人の気配はなく、それ以前に、学生寮という名の通り、通常ならみな学校で勉学に励んでいる時間帯である。


 そんな中、その老人、江藤宗次郎は、中にいるはずであろう一人の少年に向けて声を掛け続けていた。


「部屋から出て来てくれなくてもいい。せめてこの扉の前まで来て、この寂しい老いぼれの話し相手になってはくれないかい?」


 中からの反応はない。物音一つせず、本当に中に人がいるのかすら疑いたくなる。


 だが、寮の敷地外に出ていないことは受付で確認済み。他の部屋にいるのでなければ、まず間違いなくこの中にいるはずなのだ。


――どうしたもんかねぇ……。


 翔が停学処分を言い渡されてから、今日でもう三週間が経つ。宗次郎は毎日のようにこの部屋を訪ね、その度に、今のような無言の門前払いを食らっていた。


 残り一週間と少しで停学期間は終了する。そしてこのままいけば、水嶋翔という生徒の自主退学が決定する。


 これが、翔の両親と宗次郎が協議した結果の取り決め。翔の未来を守ろうとする宗次郎と、翔の現在を憂うことしかできない彼の両親の結論だった。


 そもそも、本来なら翔は刑事罰を受けて然るべき人物。それが、目撃者がいなかったことに加え、被害者二人の嘆願により、翔は停学処分だけで済んだのだ。


 いや、実際はもっと黒々としたものがあったのだが。


 それでも、たくさんの人間が翔の再起を願っている。それを、ふいにするわけにはいかない。


 勿論、翔の高校入学以前の状況については宗次郎も理解している。この状態が、翔にとっては二度目であることも。


 だからより慎重に。宗次郎は、この寮の管理人から借りた合鍵を使って扉を開け、中へと足を踏み入れていった。

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