第34話 咎の刃
黒炎に包まれた王都を、焦げた風が舐めていた。
浮上する巨大な魔導陣――その上、鋼の要塞がゆっくりと影を落とした。
王城上空。
そこにただ一人、黒焔剣を携えた男――ライル。
血盟の断罪者。
かつて王国に忠を誓い、今やその王国を焼き払う“反逆の剣”。
その瞳には覚悟だけが宿っていた。
迷いも、執着も、後悔も……とっくに黒炎に溶けたはずだった。
――そう、“覚悟”を決めたはずだった。
だが今、目の前に現れた影を見た瞬間、その心の奥底が微かに軋む。
鋼の翼を背に持つ巨影が、浮上要塞の甲板に降り立つ。
魔導装甲《鋼翼》が、雷のような音を立てて展開していた。
「……久しいな、ライル」
その声は低く、鉄の摩擦音のように重い。
王国第一将軍――エルン・グラード。
「かつての弟子が、ここまで堕ちたか」
空気がひび割れる。
その言葉は、ただの侮蔑でも叱責でもない。
痛みが滲んでいた。
ライルはゆっくりと口角を歪める。
「堕ちたのは、俺ではない。師よ。あなたが信じた“王”の方だ」
刹那、二人の間の空気が震えた。
黒炎が揺らぎ、装甲の雷光が応じるように脈打つ。
熱と冷気が入り混じり、空間そのものが歪む。
「……教えたはずだ。剣は守るために振るえと」
「ええ。だから俺は――守るために王を斬る」
風が止まった。
焦げた空気だけが、二人の間を燻らせる。
まるで、何年も凍っていた感情が、今ようやく溶け出したかのように。
――北部の廃村。
雪に沈む世界を、冷たい月が照らしていた。
少年ライルの体は凍えていた。
孤児というより「雪の中で偶然生き残った何か」だった。
その少年を拾ったのが、王国第一将軍エルン・グラード。
「名は?」
「……ライル」
声は小さく震え、雪に消えそうだった。
「剣を握ったことはあるか?」
「薪を……割るために、なら」
そのとき、エルンはわずかに笑った。
――その笑みを、ライルは今の今まで忘れられずにいる。
「いい目をしている。なら、その手で守れ。
自分を、そしていつか誰かを」
その言葉を受け取った少年の胸は、熱で満たされた。
雪よりも寒い世界で、ようやく灯った温もり。
その意味も重さも理解できなかったが、確かな救いだった。
それからの日々は、血と汗と教えに満ちていた。
ライルは剣を学び、戦術を学び、誇りを知った。
その隣には、いつもエルンがいた。
「剣は感情で振るうな。激情は判断を鈍らせる」
その度に、少年のライルはいつも反論した。
「でも、誰かを救いたいと思う気持ちも……間違いじゃないですよね?」
エルンは必ず一拍遅れて答える。
その間は、いま思えば――迷い、だったのだろう。
「間違いではない。ただ――それは、時に己を滅ぼす」
その微笑みは、どこか寂しかった。
あのときの沈黙が、今ようやく意味を持つ。
「……師匠。あなたは最初から、王国の全てを背負うつもりだったのか」
ライルは呟く。
黒炎の熱とともに、あの雪の夜の記憶が霧のように溶けていく。
「なぜ王に仕え続ける? 暴政を、目にしてもなお!」
ライルの叫びは怒りよりも悲しみに近かった。
かつて尊敬した男が、まだ“そこ”に立っているという絶望。
それを壊したいのに、壊したくない自分がいるという矛盾。
エルンは、一歩だけ前に出る。
鋼翼が稲妻を散らす。
「王に仕えるのは、務めだ。秩序を保つために、誰かが“悪”を背負わねばならん」
「それが誇りだと?」
「それが“責務”だ」
その声はあまりにも静かで――
だからこそ、絶望的なほどに強固だった。
ライルは静かに目を閉じ、黒炎を纏う。
「あなたが守っているのは王国じゃない。――“王国の幻影”だ」
エルンの装甲が音を立てて展開する。
背部の翼が稲妻を放ち、空が蒼白に染まった。
雷鳴が轟く。
その様子を、地上から血盟メンバーが見上げていた。
「……始まったのね」
セリアが呟き、手が震える。
「師弟の果てか。――だが、どちらが正しいかなど、誰にもわからん」
カラムが腕を組み、目を細める。
「それでも……見届けるしかないのよ」
ミレーヌが乾いた息を吐く。
それでも全員、視線を逸らせなかった。
「俺は断罪する。王国の腐敗も、あなたの“忠誠”も」
ライルが黒焔剣を構える。
刃の縁が低く唸り、黒炎が螺旋を描いて空へ昇る。
「守るために剣を振るう。それが将軍の務めだ」
エルンの声。
その重さには、かつての教えが宿っていた。
「お前の正義は、ただの自己満足だ」
「なら――満足するまで振るうまでですよ」
二人の剣先がわずかに触れた。
その瞬間、空が割れた。
黒炎と蒼雷が交錯し、空間が震える。
城の塔が一つ崩れ、地上の兵が跪くほどの圧力。
「お前は正しい。しかし、正しさでは王国は守れん」
「違う。あなたが守っているのは、“王国”じゃない。“自分の檻”だ」
エルンの眉がわずかに動いた。
そこに、かつての師弟の面影が揺れる。
雷光が、黒焔を照らした。
そして――互いの眼差しの中に、かつての「少年」と「師匠」が、ほんの一瞬だけ、重なった。
(――あの夜のことを、覚えているか)
吹雪の夜。
エルンは、少年の肩に外套をかけた。
「お前は生きろ。剣を学べ。だが――剣に飲まれるな」
その手の温もりを、ライルは今でも覚えていた。
だが今、その手は雷光を纏い、己を斬ろうとしている。
「……皮肉ですね。あなたの教えがあったから、俺はこの剣を握った」
「そして今、その剣であなたを斬る」
エルンは静かに頷く。
「ならば、弟子ではなく――戦士として来い」
雷鳴が二人の間を貫いた。
黒炎が返すように轟いた。
かつての“絆”は燃え尽き、そこに残ったのは“覚悟”のみ。
二人の間にあった線は、もはや引き返せない。
空が震える。
浮上要塞の魔導陣が、赤と青の閃光を交互に弾いた。
カラム:「始まった……本気だ」
ミレーヌ:「あの気配……どちらが倒れても、戦は終わるのね」
地上では、ルネが弓を構えながら目を細める。
「師弟って……哀しいね」
エリシアが祈るように両手を組んだ。
「ライル……どうか、あなたの正義を見失わないで」
上空。
ライルとエルンが、静かに構える。
風が止まり、時間さえ止まったようだった。
「エルン・グラード――この一閃で、師を超える!」
「来い、弟子よ。お前の“正義”が、どこまで届くか見せてみろ」
黒炎と蒼雷が、一線に交わった。
金属の悲鳴が空を裂く。
次の瞬間――
夜空が、閃光で焼き切られた。




