第9章 灰と炎
少年はいつもの様に怒り狂う大人達の前に立たされていた。その小さな額からは酒瓶で殴られた傷から血が流れている。
それは通常以上に長い労働を強いられ、体力も疲弊し尽くした夕暮れ時の事だった。
少年はふらふらになりながら、いつもの拷問が終わるのを待っていた。
しかしこの時、目の前の男が投げつけてきたものが何かを悟り、少年は顔を青くした。
それは少年が大切に隠してあった木箱だった。その木箱を見た瞬間、少年の胸がまた、今度は張り裂けるかの様に傷んだ。
「家畜と同じ様な価値しかないお前が、神学校!?笑わせるな。」
「なぜ、それを…?」という少年の思いは声になる事は無く、続けてまたあの女の鞭が飛んできた。今回ばかりはいつも打たれるはずの背中では無く、その鞭が少年の頬を鋭く撃ち叩いた。
その痛みで視力と聴力を一瞬奪われた少年は、堪えきれず地面に倒れる。なぜ、どうしてあの木箱が見つかったのか。その答えは簡単だった。
「豚でも夢を見ることがあるんだね。」
あの黒髪の少年がそう吐き捨てると、金貨の入った包みをテーブルの上に置いた。金貨の触れる金属音が少年の遠くなった耳に少しだけ届いた。すると、その黒髪の少年は金貨を一枚取り出し、それを頭上に掲げてうっとりと金貨の光を眺めた。
「XX、XX、この豚が隠し持ってたこのお金。僕が見つけたんだから、僕が使ってもいいよね?」
彼はそう言って、目の前の男と女の袖に縋り始めた。
しかし、少年はまだ耳の痛みが残っているのか上手く周りの会話が聞こえていない。
「もちろんよ、これであなたを一流の学校に通わせてあげられるわ。あのサピエンティアに入るのだって夢じゃ無いわ!」
少年は悔しくて涙が出た。鞭の痛みから視界はまだぼやけ、血と涙の混じった顔は鞭に打たれた傷で腫れ上がっている。しかしついに声を絞り出す事ができた。
「か、返してください。それはXXさんからもらった、大切なお金です!」
すると男が未だ地面に倒れている少年の腕を思いっきり踏みつけた。鈍い音の後、少年は折れた腕の痛みに顔を歪ませ、悲鳴をあげた。だが、その痛みのおかげで今度は視界がハッキリしてきた。
「なんだその目は!?ここまで育ててもらった恩を忘れたか!」
そう言うと又しても男は少年を蹴り付けた。
ふと黒髪の少年を見ると、またいつもの様に嘲りの笑みを浮かべている。その手には金貨が握られ、まるでコイントスでもするかの様に片手で弄んでいた。
「お前達なんかが、使っていいお金じゃない!」
少年は火に油を注ぐかの様に彼らへ向けて叫んだ。
「バッカじゃ無いの?死んだXXの金じゃん。好きに使って何が悪いの?」
そう言い放った黒髪の少年の言葉を少年が受け入れるには少し時間がかかった。続けて男が吐き捨てる様に言う。
「相続人がいないXXの端金なんざ、誰がとっても罪にはならないさ。」
しかし少年にとって、もはや金貨のことはどうでもよかった。
「そ、そんな…死んだって?」
すると女が少しだけバツの悪そうに下を向いて呟いた。
「病死って事で終わった話よ。」
少年はまだ、この状況を受け入れる事ができなかった。唖然とした表情で彼らを見つめる。それを見た黒髪の少年が吹き出した。
「アッハ。まだわからないの?お前のことなんか最初からお見通しだったんだよっ。あのXXから金貨をもらって泣いて喜ぶお前を僕がこっそり見ていたのさ!」
「無理やりXXの金を奪って、後で問題になっても困るしな。」と男が続ける。
先ほどから、なぜかある部分が会話から抜け落ちている様に聞こえる。それは未だ完全には戻らない聴力のせいなのだろうか。
「まあ終わってみると簡単でしたね。私は毒入りのお菓子を作っただけですし。」と女が首を傾げながら呟いた。
「ハハハ!バッカじゃねー?僕が、『いつもX Xに勉強を教えてくれてありがとうございますっ!』って挨拶に行ったら。『どうもありがとう』って毒入りのお菓子受け取ってやがんの!知らない人からもらったものを食べちゃいけないって知らなかったのかなあ?」
そう言いながらあの黒髪の少年が、今度は少年の顔を覗き込んだ。すると、前よりもはっきりとその声を聞き取る事ができた。
「『あの子に、優しい”家族”がいて良かった。いつも汚れた格好をしてくるからとっても心配していたの。』とか言いながら泣いてやがんの!アッハハ。うっぜー。」
その時、少年はプツンと何かが頭の中で切れる音がした。
(か、家族…?)
そして時折感じることの出来た、あの胸の痛みはもう何処かへ消えてしまったことに気づいた。
すると黒髪の少年が少年の頭を踏みつけながら続けた。
「おいっ…あのXXに取り入ったことだけ…褒めて…だがな…と俺たちが”家族”だなんて……思うんじゃ…虫唾が…」
しかし彼の喚く声が、少年にはまた途切れ途切れにしか聞こえない。少年は小声で回復魔法を囁き、起き上がれるまで自分の身体を回復させると、素速く黒髪の少年の足を振り払った。その勢いで彼は地面に倒れ込む。
「痛っ、何すんだよ!あれっ、なんでお前傷が治ってるんだよ…」
そして少年は冷たい表情で先ず、女の両足へ向けて右手を翳し、攻撃魔法を唱え始めた。しかしその視線は黒髪の少年の方に向いている。
「もう黙れよ、お前。最後にしてやるから、ちゃんと見てるんだ。恐怖に慄いてから、無様に死ぬ方がお前にお似合いだろう。」
途端に鎌鼬のような突風が部屋中に吹き荒れ、発生した風の斬撃が女の両腿を横から引き裂いた。
女は声にならない悲鳴をあげ、突然に大量の血で染まった床を這いながら切り落とされた両足を抱きしめた。
「あ゛っ、が、あ゛あ゛。」
恐怖と激痛に顔を引きつらせた女が錯乱し、ジタバタと床を転げ回っている。
「そのまま死ね。でも、やっぱり最初はお前にしよう。」
すると少年は左手を男の顔面に翳し、小声で詠唱を始めた。男はあっという間の出来事に我を忘れていた様だが、気を取り戻すと少年に両手で襲い掛かった。しかしそれは少年が詠唱を終えるのと同時であった。
「もう、遅い。」
そう少年が言い放つと、男は足元から炎に包まれた。炎はゆっくりと頭上まで達し、その間、火に焼かれながら泣き叫ぶ男を少年は静かに見ていた。
しかし少年の目には炎は緋く映らなかった。ただただ灰色の世界が少年の前に広がっていた。
「ひ、ヒイ!」
黒髪の少年は恐怖の余り腰を抜かして起き上がれず、逃げようともしない。男の死骸から燃え立つ炎が飛び火し、そのまま家を焼き尽くされていくのを横目で眺めながら、少年は冷たい声で尋ねた。
「どうやって死にたい?」
そして彼らがいたはずの建物は瞬く間に炎に包まれ、ガラガラと音をたてて崩れていくのだった。
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「いいぞう、いいぞう。」
そう言ってアスタロットは妖艶に微笑む。もう一方の手を自分の口に挟みながらアキレスの頭を掴む手に更に力を入れた。
「放せ!このっ…」
アスタロットの手で覆われてはいるが、アキレスの顔から涙と涎、血が入り混じった液体が滴り落ち、アキレスの激しい歯軋りの音が響く。
「お前達と一緒にするな!あれは、僕じゃないっ!僕じゃないっ!」
アキレスが意味不明の言葉を叫ぶ。
それと同時に一筋の光の斬撃がアスタロットの腕を引き裂いた。そして呻き声と共に退くアスタロットの前にアキレスが地面に崩れ落ちた。
「そこまでだ。」
ガルガーノ聖堂の最下層、その大理石の空洞にエウロギウスが舞い戻った。




