28話 宿賃は膝枕で ~騒がしくも平和な日常~ (1部完結)
応接間には、瑠奈と星宮、そして二人のメイドがいた。窓から差し込む午後の光が、磨かれた床に柔らかく伸びている。紅茶の香りが漂っているのに、誰も口をつけていないらしい。空気がどこか張りつめていた。
「おはよう。起きたの?」
俺に気づいた瑠奈が、はっと顔を上げた。
「迷惑かけたな、瑠奈さん」
「迷惑をかけたのはこっちでしょ」
瑠奈は悲しそうに眉を下げ、膝の上で指をぎゅっと握りしめた。
「純花は」
「えっと……」
口ごもる瑠奈を見て、そういう反応になるわな、と思う。
俺は今起きてここに来たばかりだ。せっかく助けたのに妹が目を覚まさないと知れば、俺も落ち込むかもしれない。そう気遣っているのだろう。だが、こういうことは後になるほど言い辛くなる。同じ屋根の下で暮らしている以上、どうせすぐにばれる。
「状況は知ってる。純花のところに連れていけ」
「わかったけど、もう少し年長者を敬った方がいいと思うな」
一応それなりの態度は取っているつもりだが、そんなくだらないことで問答するのも面倒だ。俺は瑠奈を無視して、出来るOL風の星宮に声をかけた。
「星宮、純花は部屋なんだな」
どうせ自室だろうと見当はついている。教えてくれなければ突入するだけだ。
「はぁ……部屋よ」
星宮はピンクの髪をかき上げ、ため息まじりに答えた。疲れの滲む目元に、この数日の心配が見て取れる。
俺は頷いて、廊下へ出た。まだ重さの残る身体を引きずるように、純花の部屋へ向かう。足を踏み出すたび、戦いの余韻が筋肉の奥でじんと疼いた。
部屋の前には、小柄な影が立ちはだかっていた。
「純花ちゃんに何の用があるのです。今はぐっすり眠っているのです。無断で乙女の部屋に……」
純花専属のメイド、リルだった。両手を広げ、小さな身体で精一杯に扉を守っている。その必死さは、正直なところ嫌いじゃない。
だが、今は付き合っている暇はない。
「邪魔だ!」
俺はリルを押しのけ、扉を開けて部屋に入った。
「あっ、ちょっと、待つのです!」
初めて入る純花の部屋は、きちんと整頓されていた。紫を基調にした壁紙とカーテン、窓辺に並ぶ小さな鉢植え、本棚には背表紙の揃った本。落ち着いた静けさの中に、ほのかに甘い香りが漂っている。
部屋の中央には、一人で寝るには大きすぎるクイーンサイズのベッドがあった。その真ん中で、純花は淡い藤色のネグリジェを着て、小さな寝息を立てている。袖口と裾にはささやかなレースがあしらわれ、枕元には読みかけの本が伏せてあった。やけに穏やかな顔で、すやすやと眠ってやがる。
振り返ると、扉の外にやじ馬が集まっていた。俺は扉をぶっきらぼうに閉め、力ある言葉を発する。
『魔錠の鍵』
魔力が指先から扉へと流れ込み、かちり、と見えない錠が下りる感触があった。これで、解錠の呪文を唱えない限り開かない。
『ティア』
『了解しました』
さっきまでバカみたいなやり取りをしていたくせに、やるべきことはきっちりやってくれる。そこは本当に助かる。
ティアに聞くと、血を吸う行為により、色欲が解放されるらしい。
小学三年から色欲が出るのは、早すぎるし大変だろう?
女は成長が早いから、もうこの年で一人でやるのか?
もう少しだけ子供の時間でもいいだろう。
子供の時間は思ったよりも短い。
それにしても俺は成長が止まるか遅くなるのに、お前は成熟するのかよ。
何の冗談だと言いたくもなってくる。
もう少しだけ、子供の時間を楽しみな。
俺は、もう一度力ある言葉を発した。
『忘却』
淡い光が純花の額に溶けていく。消すのは、俺の血を吸った記憶だ。
しばらく待ってみたが、まぶたは動かない。記憶を消せば目を覚ますかと思ったんだがな。仕方ない。
「純花、いつまで寝てるんだ。別にお前のせいでも何でもない。実際、遅かれ早かれあいつとは決着をつけなきゃならなかった。全部俺が決めたことだ。勝手にてめえが責任感じるんじゃねえよ」
語りかけても、返ってくるのは静かな寝息だけだ。面倒な女だ。
『綾様。こういう時に起こす方法を知っております』
『物知りだな。一応聞いてやるよ』
このやり取りの空気感は、絶対にろくなことを言わねえやつだ。
『眠れるお姫様は、王子様のキスで目を覚ますものです。古今東西の物語の定石ですよ』
『最近は強い女を出せってことで、その定石は過去の遺物になりつつあるぞ。女性を弱く見せるのは男女差別、だったか?』
バカなやり取りはやめて、もう少し語りかけてみるか。
それでもダメなら、ティアの力を借りて純花の精神に入り込むしかない。だが、あまりやりたくはない。古典的かもしれねえが、このやり方で行くしかないな。
「俺が寝てる間にショックで寝込むなんて、そっちの方がよっぽど迷惑だ。お前が起きなきゃ、寝心地のいい膝枕で寝られねえだろうが。悪いと思うなら、さっさと起きやがれ」
「ん~っ、膝枕が目的で起こされるのは、ちょっとひどいと思うんだけどな」
ベッドの上から、くぐもった声が聞こえた。
「俺より寝てたやつに言われたくねえよ!」
純花はゆっくりと身体を起こすと、安心したように目を細め、そのまま俺にしがみついてきた。小さな肩が、かすかに震えている。
純花はベッドから起きだして俺に抱き付いてきた。
「当たってるぞ!」
この年代なのに出るところが出ているから本当に成熟しすぎだ。バカ。
「もぅ、そういうのはスルーするんだよ。言われたら恥ずかしくなるし」
「マセすぎだ。ガキに手を出すつもりは全くねえ」
「子供じゃないよ。少女だよ」
「同じことだ。十年早ええよ」
そう言いながら、俺は軽く純花の頭をなでてやった。
「捕まってごめんなさい。でも、呼べば来てくれるって信じてたよ」
「あぁ、トラブったら呼べって言ったしな」
「うん。来てくれて、ありがとう」
「宿賃だ。気にするな」
それにしても、宿賃が命だの成長だのとは、とんだぼったくり料金だ。まあ、世間に言えば「美少女の膝枕の代金なら安すぎる」と言われそうだがな。
「くすっ、ありがとう」
そう言って、純花は涙の残る目で笑い、俺の頬にちゅっと口づけて離れた。
「私の初めてだよ」
「ませるな。十年早ええよ」
頬へのキスなんて、数のうちにも入らんだろう。……入らんはずだ。
「同い年だよ。だから良いの」
「まったく。みんなが心配してるぞ」
俺は頭を掻きながら、わざと視線を窓の外へそらした。
「うん、本当にありがとう」
「何度も聞いた。早く行け。みんな心配してる」
純花は俺から離れてベッドを降り、扉へ向かった。取っ手に手をかけたが、がちゃりと音がするだけで、開かなかった。
「どうした、そんなところで立ち止まって」
「開かないんだけど」
すっかり忘れていた。邪魔だから魔錠をかけていたんだったな。
「悪い。今解く」
『解除』
扉の表面を走っていた魔力の気配が、すっと消える。
よく考えたら、魔錠の鍵ではなく、ただの閉門で十分だった。解呪の手間が増えただけだ。
「もう」
純花は笑いながら扉を開けた。廊下には、もうやじ馬の姿はない。全員リビングで待っているようだ。
「待て」
「どうしたの?」
「お前、そのまま行くのか?」
純花は、ネグリジェ姿のままだった。自分の格好に気づいたらしく、耳の先までみるみる赤くなる。
「ち、ちょっと着替えてくるね!」
慌てて部屋の奥へ戻る純花に背を向け、俺は先に廊下へ出た。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。これで一件落着か。
『綾様、これでもまだ、人間関係は不要だと?』
『利害の一致と幻想だな』
『ですが、あなたが思っていた通り、命を落とす可能性もあったのに、身を挺して助けたではありませんか』
『ここに泊まった料金だ。本当に命が代償とは、ぼったくりな宿だな』
『純花さんのことは?』
『膝枕の代金を払っただけだ。少女の膝枕は金じゃ買えないらしいからな』
『意地っ張りですね。そういうことにしておきますよ』
『誰かとくっつけようとしてるみたいだが、ほかを当たれ。俺じゃなくても、あいつらは十分いい女だ。売れ残る心配はないだろうよ』
『それこそ、ずいぶん先の話ですよ』
ティアとのやり取りを終えた頃、着替えを済ませた純花が部屋から出てきた。
「早く元気なところを見せてやれ」
苦情が来る前にそう言って、下へ行くよう促す。
純花は恨みがましく俺を見たが、みんなのことも気になるのだろう、そのまま階段を降りていった。
やがて、リビングの方から、祝福するような歓声がここまで聞こえてきた。やけに人数が多い。客が来ているらしい。
「あや~、早く下に降りてきなさいよ」
この声はシエラか。相変わらずうるさいやつだ。どうやら、純花の見舞いに来たらしい。
『嬉しそうですね』
『うるせえだけだ』
この家の住人でもないシエラに、なぜ降りて来いと言われなきゃならないんだ。そう思いつつ、女だらけの家だ、これくらい騒がしい方がいいのかもしれないとも思った。
面倒くさそうな顔を作ってリビングへ入ると、住人以外に、シエラ、沙樹、刹那が来ていた。
窓から差す光の中、テーブルには焼き菓子と湯気の立つ紅茶が並び、さっきまでの張りつめた空気が嘘のように、柔らかな笑い声が満ちている。
自分の席に着くと、純花が俺にお茶を淹れ、そのまま隣に自然に座った。それだけで、シエラに散々からかわれてしまった。
「あやったら、顔赤いわよ~?」
「赤くない」
瑠奈は口元を押さえて笑いをこらえ、星宮は呆れたように肩をすくめている。沙樹と寡黙な刹那まで、くすくすと笑っていた。
周囲の笑い声に耳を傾けながら、俺は湯気の立つ茶に口をつけた。
おやっさんの言う「人を害する剣ではなく、護る盾になれ」の意味は、まだ分からない。
それでも、目の前でこいつらが笑っている。それが答えの一つだというのなら、悪くない。
『綾様、顔が緩んでいますよ』
『……うるせえ』
誰にも見られないよう、茶で口元を隠す。
騒がしくも平和な日常。この日々が、いつまで続くのかは分からない。
それでも今は、こいつらとの出会いが無駄ではなかったと、そう思ってもいいのかもしれない。
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