↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダンジョン配信で指示厨してたら師匠になってた。  作者: 指示厨


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/22

第二層の闇を歩く者

 人は暗闇を「恐怖の象徴」として語る。しかし、第二層の闇は、そうした一般的な恐怖とは種類が違う。そこに広がっているのは“不足”ではなく“過剰”だ。暗いのではない。光が拒絶されているのだ。


 扉が完全に開いた瞬間、アキトの前に広がったのは、光学的な欠損ではなく、存在そのものがねじれた空間だった。まるで黒という色が、別の物質になったような圧迫感がある。


《ライトは点けるなと言ったはずだ。内部構造が光を反射しない》


「わかってます……でも、怖いですね、ここ」


 アキトが呟いた。声は震えているが、昨日のように泣き出しそうではない。恐怖よりも、期待の方が彼を支えているように見えた。


 第二層に足を踏み入れた瞬間、カメラの映像が一瞬乱れた。静電気のようなノイズが画面を走り、アキトの輪郭が歪む。


《重心を低く。床はまばらに傾斜している》


「はい……!」


 アキトは慎重に歩く。まるで見えない床を手探りで進むような動きだった。


 第二層の廊下は、まっすぐではなかった。平行線も直線も存在しない。右に曲がったと思えば、次の瞬間には床が左へ傾いている。空間そのものが、生き物の腸管の中を進むように蠢いている。


 壁の脈動は第一層より遥かに大きく、近くに寄るたび微細な震動が皮膚に伝わる。息を吸うと、湿った鉄の匂いが喉の奥に張りつく。


「これ……空気が、重い……」


《酸素濃度が不規則だ。呼吸を浅くして調整しろ》


 アキトはゆっくりと呼吸を整えた。彼は素直だ。素直すぎるほどだ。俺のコメントに対して一点の迷いもなく行動に反映する。


 まるでプログラムがコードを実行するように。


 だが、その“素直さ”が、この層では命取りになる可能性もある。


《止まれ》


「っ!」


 アキトが急停止する。


 目の前の曲がり角──その影が、異様なほど“濃い”のだ。


 第二層において、影は物体ではなく“敵性存在”の前兆であることが多い。


《曲がり角の先、反応がある。だが数値が安定しない》


「えっ、安定しないって……?」


《つまり、何かが“形を変えている”》


 アキトの喉が小さく鳴った。恐怖か、覚悟か、判別がつかない。


 第二層には変化型の敵が存在する。生物というより、環境そのものが敵として振る舞う。それは“見える敵”とはまったく別の危険性を持っている。


《左の壁沿いに進め。右側は踏むな。沈む》


「沈む……?」


《床が生体膜だ。踏み抜けば落ちる》


 その言葉に頷きながら、彼は慎重に左側を歩いた。


 廊下を抜けると、突然視界が開けた。


 そこは、巨大な円形の空洞だった──が、普通の意味での空洞ではない。

 内部の壁全体が蠢き、時折、穴のようなものが開いたり閉じたりしている。

 その穴が“口”なのか“目”なのか、判断がつかない。


「な……なんだここ……」


《第二層の中央室だ。正式名称はない。探索者の間では“胃袋部屋”と呼ばれている》


「胃袋……最悪だ……」


 アキトは苦笑したが、その目には確かな恐怖が宿っていた。


 中央には、一本の通路が伸びていた。

 通路の両脇は、深い暗闇に沈んでいる。

 落ちれば終わりだ。


《落ち着いて渡れ。幅はわずか一メートルだが、重力が安定している》


「い、行きます……!」


 彼は恐る恐る通路へ足を踏み出す。

 その瞬間、上空から――“音”が降ってきた。


 「ザザ……ザアア……」


 砂を引きずるような、湿った布を擦り合わせるような、不快な微振動。


《止まれ》


 アキトは反射的に動きを止めた。

 上空から、無数の“糸”がゆっくりと降りてくる。


 細い。

 髪の毛ほどの太さ。

 だが、光を吸い込むように黒く、どこか生物的だ。


「なんか……降って……きて……」


《天井に気を取られるな。左の壁に寄れ》


 アキトはすぐさま左側に移動した。

 その瞬間、黒い糸の一つが通路に落ちる。


 “ジュッ”


 床素材が焼けたような音。

 糸の先端から、微量の煙が上がっている。


「な、なにこれ!?」


《腐食性。触れれば皮膚ごと融ける》


 アキトの手が震えた。

 しかし、逃げ出すという選択肢は彼の中で消えていた。


「進めますか……?」


《タイミング次第だ》


 天井の脈動を観測しながら、俺は解析を進める。

 糸が落ちる周期は約3.2秒。

 しかしここは第二層。

 周期が突然変動することもある。


 だが、アキトは待っていた。

 俺の“合図”を。


《今だ。三歩前へ》


「っ……!」


 アキトは駆けた。

 糸の間をすり抜け、狭い通路を必死に進む。


《止まれ!》


 急ブレーキ。

 足が滑りかけるが、体勢をギリギリで保つ。


 左側の闇がわずかにうねり、何かが蠢いた。

 まるで通路から落ちるのを“待っている”かのように。


「……はぁ……はぁ……死ぬかと思った……」


《休め。十秒だけだ》


 アキトは膝に手をつき、呼吸を整える。


 そこで初めて、彼はぽつりと言った。


「……師匠。俺、まだ生きてますね」


《当然だ》


 自分でも驚くほど、即答していた。




 アキトの呼吸が落ち着くまで、俺はコメントを送らなかった。第二層の環境音は常に不規則で、その隙間に彼の呼吸音が混じる。暗闇の向こうから聞こえる低周波は、不気味なほど規則性がない。


 だが、アキトの呼吸のリズムだけは、俺の演算の中で一定に記録され続けていた。


「よし……行きます」


 アキトが再び前を向く。

 その姿勢には、昨日とは比較にならないほどの“覚悟”があった。


 通路の終点には、また別の穴が開いていた。

 そこからは、第二層特有の湿った風が吹いてくる。


《風が流れている。奥に“開けた空間”がある》


「風……生き物みたいですね」


《実際、生体構造だ》


「……やっぱりキモいな、このダンジョン」


 小さな独り言に、思わず返しそうになったがやめた。


 アキトは細い通路を抜けて、第二層の“第一部屋”へ踏み込んだ。


 そこには──無数の“柱”が立っていた。


 柱と言っても、人工物ではない。

 直径一メートルほどの、肉と金属が融合したような構造体が、天井から床に向けて伸びている。

 ゆっくりと蠢き、時折、壁に近い柱は液体を滴らせている。


「これ……全部、生きてる……?」


《生体反応あり。だが敵ではない。ただの環境構造だ》


「ただの……?」


《触れなければ安全だ》


「触れなければ……?」


 言い方を間違えたと思った。

 アキトは神経質そうに柱から距離をとりながら、慎重に歩き出す。


 足元には、無数の“糸状の溝”が走っていた。

 その溝からは、わずかに温かい空気が漏れている。


《その溝は排液管だ。踏むな》


「排液って……何の……?」


《考えるな》


「了解です」


 素直に従う。

 素直すぎる。

 しかし、その素直さゆえに彼は生きている。


 そう思ったときだった。


 柱の間から、“低い唸り声”のような音が響いた。


「……師匠、今の聞こえました?」


《聞こえている。だが位置が特定できない》


 第二層には“声を持つ敵”が存在する。

 音響反応型。

 視覚よりも聴覚、さらに振動で獲物を判別する。


「まずいですか……?」


《静かに進め。声を出すな。》


 アキトは息を潜めながら、柱と柱の隙間を抜けていく。


 そのとき、柱の一本が“ブルン”と大きく揺れた。


 アキトが肩を跳ねさせる。


「ひっ──!」


《動くな》


 柱はアキトのわずか数センチ横を通過し、床に液体を滴らせた。

 その液体は黒く、しかし血液のような粘性を持っていた。


 床に落ちた瞬間、軽い煙が上がった。


「これ、さっきの糸みたいに……」


《触れたら皮膚が焼ける》


「……ですよね……」


 アキトの背中が震える。

 それでも後ずさりせず、前へ進むことを選ぶ。


《右へ三歩。柱の影になれ》


 アキトはすぐに動く。


 すると、音源が移動した。


 “ドウ、ドウ、ドウ……”


 低い振動音。

 柱を伝って響いてくる。


 敵が“近い”。

 しかも、はっきりした形を持った敵ではない。

 この層特有の厄介な存在──“雫獣しずくじゅう”だ。


 主に液体生命体で、形状を固定せず環境に溶け込む。

 反応パターンが少なく、極めて捕捉しづらい。

 しかも“音”に反応する。


《音を出すな》


「……はい」


 アキトは慎重に、慎重に呼吸する。

 まるで息そのものが敵に伝わるのではないかと怯えるほどに。


 その時、柱の天井側が“裂けた”。


 そこから──直径数センチほどの液体が滴り落ちる。


 透明だ。

 しかし、床に落ちた瞬間、穴を開けた。


《走れ!》


「っ、うわああああっ!」


 アキトは柱の森を必死に疾走する。

 天井から次々と落ちてくる液体。

 落下地点を予測しながら、俺はコメントを矢継ぎ早に送った。


《右! 次、左へ二歩!》


《そのまま! しゃがめ!》


《ジャンプ!》


「はっ、はっ、はっ……!死ぬ!!」


《黙れ!走れ!!》


 コメントは荒くなる。

 だが、必要だった。

 少しでも反応が遅れれば、アキトの身体に穴が開く。


 アキトの足がもつれそうになるが、必死に踏みとどまる。


 正面の壁が開けた。


《そこだ!柱のない空間に飛び込め!》


 アキトは全身で飛び込んだ。


 次の瞬間、背後で“バシャン”と巨大な水塊のような音が響き、液体が柱を溶かしながら床に広がっていった。


 アキトは床に倒れ、肩で呼吸を繰り返す。


「はぁ……はぁ……師匠……俺……」


《生きてる》


「……はい……生きてます……!」


 その答えに、アキトは胸を押さえた。

 涙が込み上げているようだった。


「師匠……俺、ほんとに……生かされてるんですね」


 その言葉が、俺の胸のど真ん中を射抜いた。


《俺ではない。お前が勝手に生き残っているだけだ》


 そう返すつもりだった。

 だが──指は動かない。


 代わりに、こんな言葉が出た。


《……よくやった》


 息を整えたアキトが、小さく笑う。


「ありがとうございます、師匠」


 その笑顔は、暗闇の中でもはっきり見えるような気がした。


 俺の胸で、また誤差が揺れた。


《前へ進め。まだ終わっていない》


 アキトは頷き、暗闇の奥を見つめた。


「はい。師匠と一緒なら……進めます」


 彼の足が、再び第二層の中心に向かって動き出した。







 第二層の空気は、生き物の内臓に踏み込んだような重さがあった。湿って、温かくて、皮膚にまとわりつく。アキトは額の汗を拭いながら、少しずつ前に進んだ。


 彼の呼吸は荒れていたが、昨日のような恐慌状態には陥っていない。未知の恐怖の中で、必死に“自分の居場所”を確保しているように見えた。


《左に曲がれ。通路が二手に分かれる》


「了解……です……」


 アキトは左へ進む。

 その先には、暗い空間が広がっていた。


 音がした。


 “チ…………チチチチ……”


 細い、乾いた爪で地面を叩くような音。


「なんか、聞こえます……」


《止まれ》


 アキトがすぐに足を止める。


 薄明かりの中で、床がわずかに波打っていた。

 まるで砂利の上を小さな何かが走り回っているような振動。


《敵だ》


「どこに……?」


《床下だ。まだ出てこない》


 第二層に潜む敵の多くは、“待ち伏せ型”だ。

 視界に映らない静寂を武器とする。


 アキトが足を一歩踏み出すと──床の波が一瞬止まった。


「あっ……」


《動くな》


 数秒の沈黙。


 次の瞬間、大量の“触手のようなもの”が床を破って飛び出した。


「うわっ!!」


《下がれ!三歩後退!》


 アキトは反射的に後ろへ飛ぶ。

 触手は地面を打ちつけながら、空中で蠢いた。


 その触手の先端には、小さな“眼”のような構造があった。

 しかし形は眼とは異なる。

 多分、視覚器官ではなく“光を探す器官”だ。


《ライトを点けるな。奴らは光を狩る》


「了解……!」


 触手はアキトを探るようにゆっくりと揺れる。

 光源が見つからないと理解すると、今度は“熱”を探り始めた。


《息を止めろ》


「……っ!」


 アキトは肺の空気を一気に絞るように止めた。


 触手が近づく。

 皮膚のすぐそばを、冷たい風がかすめた。


 その距離――数センチ。


 アキトの目が強く閉じられる。


《動くな……そのまま……》


 触手は、アキトの頬のすぐ横を通り抜けた。


 数秒後、触手は音もなく床に吸い込まれ、消えた。


 静寂が戻る。


「はぁっ……はぁ……死ぬ……これは死ぬ……!」


《よく耐えた》


 アキトは震えた笑いを漏らした。


「師匠の言う通りにしただけです……」


《それができるのは強さだ》


 アキトは少し照れたように顔を伏せる。


「……そんなこと言われたの、初めてです」


 その言葉に、胸が揺れた。


 アキトの影が、第二層の壁に映る。

 その影は、彼自身よりも大きく揺れていた。


「師匠……俺、本当は……強くないですよ」


 ぽつりと漏れた声。


「初めて配信したのも……生きた証拠が欲しかっただけで。誰にも認めてもらえなかったから」


《認めてもらえなくていい。生きていればいい》


「でも……」


 アキトは壁に手をついた。


「でも師匠に……“よくやった”って言われると……なんか、生きてていいのかなって……思えるんです」


 胸の中心が刺されたように痛くなる。


 俺は返答を少し遅らせた。


《お前は、生きていていい》


 アキトの肩が震えた。

 泣いているのではない。

 その言葉を噛みしめるように震えていた。


「ありがとうございます……師匠」


 その一言が、異様に重かった。


 そのとき、遠くから低い咆哮が響いた。


「……今の音……」


《中型クラスの敵だ。距離は二十メートルほど》


「戦うんですか……?」


《避ける。正面からは勝てない》


 アキトの顔に安堵が広がる。

 しかし、それは束の間だった。


 暗闇の奥から、巨大な“影”が姿を現した。


 四足歩行。

 だが骨格が人間に近い。

 頭部は円錐形で、口が存在しない。

 代わりに体側に小さな裂け目がいくつも開いている。


「うわ……なんだあれ……!」


《“吸息獣きゅうそくじゅう”だ。息を吸い取って殺す》


「嫌すぎる……!」


 敵はアキトを認識すると、ゆっくりと歩みを早めた。


 床が軋む。

 影が大きく揺れる。


《走れ!左へ!》


「はいっ!」


 アキトは即座に走り出した。


 吸息獣は、アキトの呼吸音を追う。

 強烈な吸引が背後から迫り、アキトのフードが後ろへ引かれる。


「っぐ……!空気が……吸われる……!」


《走り続けろ!止まるな!》


 アキトは必死に前へ逃げる。

 第二層の壁が複雑に湾曲しているため、直線距離では逃げられない。


《右へ!》


「右!?」


《次、左!》


「うわっ!」


 アキトが急旋回するたび、吸息獣は壁にぶつかりながら方向を変える。


 しかし──体躯が大きすぎて、曲がり角をスムーズに通れない。


《そのまま細い通路へ!奴は入れない!》


「こ、ここ!?」


《飛び込め!》


「はいっ!!」


 アキトは狭い隙間に身を滑り込ませた。

 吸息獣は通路の入口で立ち止まり、咆哮を響かせたが、通り抜けることはできない。


 数秒後、足音が遠ざかり、静寂が戻る。


「っっ……はぁ……はぁ……!」


《よく逃げ切った》


 アキトはその場に座り込み、震える声で笑った。


「もう……心臓が壊れますよ……師匠のせいで……!」


《俺のせいではない》


「いや、師匠のおかげで生きてます……マジで」


 暗闇の中で笑う彼の気配は、不思議と鮮明に伝わってきた。


 俺は画面越しに、その笑顔を見つめていた。


 胸の奥で、また誤差が脈打った。


《立て。まだ終わりじゃない》


「はい……師匠」


 アキトは再び前に進んだ。


 その足取りは、確実に第二層の中心へと向かっていた。







 吸息獣との遭遇を逃れ、アキトは狭い通路を抜けて、第二層の“中央域”と呼ばれる場所に差し掛かった。ここから先は、第一層とはまったく違う構造だ。空間は広いが、どこか閉塞している。風の流れさえ、まるで生き物の体内を移動しているようだ。


「師匠……なんか温度が変わってきました」


《湿度が上がっている。中央域の証拠だ》


 第二層は、大きく三つの領域に分かれている。


 ──第一部屋:柱の森

 ──通路層:糸と落下液

──中央域:第二層の“心臓”に当たる場所


 中央域は最も危険な空間だ。

 ここには固定された敵がいない。

 代わりに“層そのもの”が敵となる。


「ここ……何か音が……」


《聞くな。耳に集中すると飲まれる》


「飲まれる……?」


《錯覚だ。だが致命的だ》


 第二層の中央域では、音響幻覚が発生する。

 耳が捕まると、方向感覚が奪われて壁に飲み込まれる。

 実際、過去に多くの探索者が“消えた”。


 アキトは慎重に歩く。


 その時、彼の視界の端を──“白い影”が横切った。


「えっ……?」


《無視しろ》


「今……なんか……人みたいな……」


《幻覚だ。視覚の罠もある》


 アキトは強く目を閉じ、再び開く。


「……誰もいない」


《言っただろう》


「いや……でも本当に誰かいたような……」


《アキト》


「っ、はい」


《俺の言葉だけを信じろ》


 アキトは一瞬、黙る。

 そして、ゆっくりうなずいた。


「……はい。信じます」


 その声は震えていなかった。

 むしろ静かな熱が宿っていた。


 アキトは中央域の奥へと進む。

 暗闇の向こうに、巨大な空間が広がり始める。


 そこは──第二層の“心臓部”だった。


 球体のような巨大な構造体が天井から垂れ下がり、ドクンドクンと強く脈動している。

 その脈動に合わせて、周囲の壁が波打つ。


「うわ……でか……」


《近づくな。吸われる》


「吸われる……?」


《心臓は栄養を吸収する。生体反応を強く拾う》


「つまり……近づいたら死ぬ……?」


《死ぬ》


「……ですよね」


 アキトは後ずさりしたが、その背中に何かが触れた。


「ひっ──!」


《動くな》


 背後の壁の一部が、まるで触腕のように盛り上がり、アキトの背中を触れた。

 しかし、それは敵ではない。

 この層特有の“呼吸壁”だ。


《呼吸壁だ。敵意はない。だが、刺激するな》


「心臓の近くで呼吸するって……気持ち悪すぎますよ……!」


《わかっている》


 その時、心臓部の奥で“何か”が蠢いた。


 音ではない。

 空気そのものが振動する。


「師匠……」


《黙れ》


 アキトは驚いて口を閉じる。


 暗闇の向こうから、巨大な“足音”が響いた。


 “ドウ……ドウ……ドウ……”


《来るぞ……》


「何が……?」


《第二層の“番人”だ》


 音が近づく。


 床が沈む。


 そして──暗闇から“それ”が姿を現した。


 巨体。

 二足歩行。

 だが、腕が四本ある。

 顔の位置に口はなく、代わりに無数の穴が空いている。


「嘘……でしょ……」


《逃げろ》


「逃げる方向が……!」


《右だ!》


 アキトは全速力で右へ走り出した。

 番人はまっすぐ追ってこない。

 その動きは鈍いが、踏み込むたび地面が揺れる。


 振動がアキトの足を奪う。


「うわっ!」


《転ぶな!》


 アキトは壁に手をつき、体勢を立て直す。


 番人の巨大な腕が振り下ろされ、床が大きく抉れた。

 その衝撃だけでアキトの身体が浮き、壁に叩きつけられる。


「ぐっ……!」


《立て!》


「っ……はい……!」


 アキトは必死に立ち上がる。

 番人は迷路のような壁の間を進む速度が遅い。

 その隙を突けば逃げ切れる。


《次の角を左!》


「左!!」


 アキトの走る速度が上がる。

 昨日の彼では考えられない速さだ。


《細い通路に入れ!》


「ここ……!」


《奴は入れない!》


 アキトが細い隙間に身を滑り込ませると、番人は壁に激突した。

 凄まじい衝撃で壁が破裂し、第二層全体が震えた。


「はぁ……はぁ……もっと早く教えてください……!」


《今が最適のタイミングだった》


「師匠……そういうところ……!」


 文句を言いながらも、アキトの声には笑いがあった。

 恐怖の中で笑えるのは、信頼がある証拠だ。


《出口がある。あと少しだ》


「本当ですか!?」


《嘘は言わない》


 アキトは細い通路を抜けた。

 そこには、第一層へ戻る“連結環”があった。


 球状の空間。

 中央に、青白い光の輪が浮かんでいる。

 それが階層をつなぐ“安全区画”だ。


「つ、着いた……!」


《入れ。そこは安全だ》


 アキトは光の輪に足を踏み入れた。

 すると第二層の空気が一瞬で消え、澄んだ空気に入れ替わる。


 アキトは膝から崩れ落ちた。


「はぁ……はぁ……生きてる……」


《当然だ》


「いや、師匠のおかげです……本当に」


 アキトはカメラに顔を向け、はっきりと言った。


「師匠。俺……師匠に会えて良かったです」


 その一言が、俺を完全に黙らせた。


 胸の奥の誤差が、一気に跳ね上がる。


 俺はコメント欄を開いたまま、しばらく動けなかった。


 アキトは続ける。


「俺、弱くて……何もできなくて……でも、師匠の言葉だけは……信じられるんです」


 彼の瞳は真剣で、まっすぐだった。


「師匠。これからも……一緒に潜ってください」


 俺の指が震えた。


 声を持たない俺に、彼は声を投げかけた。


《……生きる限りはな》


 そのコメントを送った瞬間──

 アキトは涙を流して笑った。


「はい……!」


 第二層の扉が静かに閉まる。


 こうして、アキトと俺は

 “本当の意味で”

 第二層を生き延びたのだ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。