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ダンジョン配信で指示厨してたら師匠になってた。  作者: 指示厨


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2/22

誤差の部屋

 世界は誤差でできている──その考えは、子どものころから俺の中心にあった。誰かに教わったわけではない。むしろ、周囲の人間たちは「誤差」などという言葉を、ただの数学的な用語としてしか扱わなかった。彼らにとって世界は意図的な構造を持ち、何かしらの因果と意味があるもので、そこにわざわざ“不確かさ”の概念を持ち込む必要はなかったのだ。


 しかし、俺にはそうは思えなかった。教室のホワイトボードの端が、ほんのわずかたわんで見えること。隣の生徒の鉛筆の振動が、一定のリズムを保つことが一度もなかったこと。机の高さが1ミリ単位で微妙に違い、椅子のガタつきが日ごとに変わること。人の声が完全に同じ高さで続く瞬間は一秒と持たなかったこと──そうした細かなゆらぎに、俺は常に圧倒されていた。


 “なぜ、人はこれを気にしないのか?”


 それが理解できなかった。世界は常に不安定で、微細な誤差の連続でできている。なめらかに見える曲線も、完全な円も、真っすぐな水平線も、実際には存在していない。それを知ってしまった瞬間、俺の世界は別の地図で描かれ始めたのだ。


 その感覚は成長とともに強まり、やがて俺は“誤差のない行動”ばかりを求めるようになった。歩幅を揃え、足音の反響時間を一定に保ち、茶碗の位置をミリ単位で合わせ、呼吸の間隔さえ調整した。そんな日常を送れば、当然、周囲との“ズレ”は大きくなっていく。


 誰も俺の行動を理解しなかった。俺も理解してほしいと思わなかった。ただ、世界の揺らぎが怖かったのだ。誤差の洪水に呑まれれば、自己が崩れてしまう──そんな恐怖が、常に胸の奥に巣くっていた。


 大学では情報理論を専攻した。もっと精密な世界を知れば、誤差の正体が理解できると思ったのだ。しかし現実は違った。講義で扱う理論はどれも美しく、整った方程式の世界で、そこに生きている人間たちは俺のことを奇妙なものを見る目で見た。


 やがて俺は孤立した。世界の誤差を嫌うあまり、人間関係そのものを切り捨てていたのだ。誤差を排除すればするほど、俺の世界は静かになった──いや、静かになりすぎた。


 就職した会社は三年で倒産した。もともと期待などしていなかったから、失望もなかった。むしろ、倒産というイベントが起きた瞬間、社内の人間たちが取り乱す様子を、統計的に眺めていた自分に気づき、薄ら寒くなった。


 それから俺は引きこもりになった。外界との接触はほぼ断たれ、唯一の窓口がモニターになった。そこに映る世界だけが、今の俺をかろうじて“観測”していた。


 カーテンを閉め切った部屋は洞窟のようで、モニター三枚の青白い光が、俺の存在をかろうじて証明していた。《LiveDungeon》。その画面の中では、人が死に、叫び、走り、戦っていた。


 五年前の“流星群事件”以来、世界は変わった。地球各地にダンジョンと呼ばれる構造体が出現し、それを探索する者たちが職業となり、政府公認のプラットフォームまで整備された。人が死ぬ瞬間でさえ、もはやコンテンツとして消費される世界になったのだ。


 俺はその世界の“視聴者”だった。何かを求めたわけではない。ただ、画面の奥で展開される世界は誤差だらけで、だからこそ目が離せなかったのかもしれない。コメント欄には玉石混交の言葉が並び、配信者はそれを頼りに、あるいは無視しながら戦っていた。


 俺は《s_opt》という名前でそこに紛れ込んでいた。スキル《最適行動》を持つ俺にとって、視覚情報と音声情報から次の最良手を計算することはさほど難しくない。その能力をただ無意味に持ち続けるよりは、どこかの誰かの役に立てたほうが気が楽だった。


 そうやって、匿名の“最適化するコメント”を書き込み続けた。


 ある夜。俺はいつものように配信一覧を眺めていた。サムネイルが並び、どれも似たような地獄を映している。しかし、その中の一つだけ、妙に目に引っかかった。


 《【初挑戦】地下三階いけたらいいな!》


 タイトルも、サムネも、特別なものではない。だが、そこに映る少年の目だけが、どうしようもなく俺の演算にノイズを撒き散らした。


 真木アキト。十九歳。

 装備は中古の革ジャケット、鉄パイプ、安物のライト。

 生まれたての小鹿のような体勢で、第一層の奥を歩いている。


 彼の目には、誤差があった。揺れというより震えに近い何かが、あの瞳に宿っていた。それは計算できない種類のゆらぎで、だからこそ俺は彼から目を離せなかった。


 配信視聴者は四十二。コメントはどれも無責任だった。


> がんばれ!

> ライト暗すぎ!

> 絶対死ぬってw

> スライムくるぞー!


 それらの言葉は、アキトを助けるにはあまりにも雑だった。反射で俺はキーボードに手をかけた。判断というより、反射に近かった。


《ライトを下げろ。床の反射で影が伸びている》


 投稿したあと、自分の心臓がわずかに跳ねたことに気づいた。アキトは目を丸くし、コメントを読み、そしてライトを下げた。


 次の瞬間、床の影からスライムが飛び出した。

 俺の演算は正しかった。

 アキトの命は、たった今、わずかな誤差で延命された。


「助かった……誰だ、今の……」


 その声が震えていた。安堵の震えだ。画面越しに伝わる人間の“揺らぎ”は、俺がずっと避けてきたものだった。しかし、その震えを、俺の内部アルゴリズムは拒否しなかった。


 そして、つい反応してしまった。


《敵を見るな。自分の動きを観ろ。次の攻撃は三秒後だ》


 アキトは呼吸を整え、鉄パイプを握った手を再調整し──そして、生き残った。


 ぎこちないが、正しい動きだった。


 彼はカメラに向かって微笑んだ。恐怖と達成感が入り混じった顔。


「……師匠、なのか?」


 師匠。滑稽だ。本来なら失笑するところだ。しかし、俺の内部演算はそこで一瞬、静止した。


 “師匠”という呼ばれ方を、俺は否定できなかった。







 “師匠”──その言葉が、画面越しに突き刺さった。


 俺は師匠ではない。顔も名前も出さず、ただコメントで状況を最適化する匿名の観測者にすぎない。彼に教えたわけでも、導いたわけでもない。たまたま、彼が死なないよう計算しただけだ。


 だがアキトは、その匿名の文字列を「師匠」と呼んだ。


「師匠。これからも……よろしくお願いします」


 その瞬間、俺の中の何かがわずかに揺れた。

 揺れ──すなわち誤差。

 本来排除すべき対象だ。

 しかし、排除しようとしても演算がまとまらなかった。


 俺は返答しなかった。声を出す気はない。

 だがコメント欄には、俺が返事をしない沈黙の数秒が永遠のように流れた。

 いくつかのコメントが流れる。


> 師匠無言w

> でもアキトよかったな

> 師匠見てるぞ

> s_opt有能すぎ


 その“師匠”という言葉が、わずかに胸にひっかかった。

 違和感。

 しかしこの違和感は、不快な類のものではなかった。


 アキトの配信はその後、特筆するほどの出来事はなく第一層で終了した。

 最終的な視聴者数は百人に届かなかったが、彼にとっては十分な数字だろう。


 だが俺のなかでは、いつもの配信とは異なる感触が残っていた。

 胸の奥で何かがわずかに蠢いている。

 それは論理では説明ができず、演算できない種類の“揺らぎ”だった。


 誤差を恐れながらも、その誤差に魅入られているような……そんな矛盾の感覚。


 配信を閉じ、椅子を押しのけベッドに倒れ込む。

 暗闇の天井を見つめると、まるでそこにスライムの残滓が張り付いているように思えた。


 俺は目を閉じた。

 数ヶ月ぶりに、心拍数がゆっくり上向く。

 興奮でも不安でもない、未知の感情だった。


 ──翌朝。


 珍しく光が眩しかった。

 睡眠の質は悪くない。

 ではなぜ、胸がこんなにもざわつくのか。


 布団を蹴飛ばすように起き、PCの電源を入れる。

 自動ログインされた《LiveDungeon》のトップには、小さな通知が点滅していた。


《アキト:配信予定あり》


 予定タイトルが表示されていた。


《【続き】第二層の扉を目指してみる!》


 愚かだ。昨日初めてスライム一匹倒した少年が、第二層など踏み入れれば即死だろう。一層と二層の難度差は十倍以上ある。それを理解せずに潜ろうとしている。


 だが──その愚かさが、昨日から俺の演算を乱し続けている。


 俺は気づかぬまま、配信開始の通知を待ち続けていた。


 アキトの配信画面が開く。


「おはようございます! アキトです!」


 声は昨日より明るいが、少しだけ無理をしているようにも見えた。

 恐怖を押し殺し、興奮に包み込まれながら、まっすぐダンジョンの入口に立っている。


 視聴者数はすでに百三十を超えていた。

 コメント欄が騒がしい。


> 今日も行くのかよw

> 師匠来てる?

> s_optは神

> 第二層無理やろ


 “師匠”の三文字が視界を刺す。


 俺は意識しないまま、キーボードに手を置いていた。

 指が自然に動き出す。


《無理に進む必要はない。第二層の入口は敵性が高い。まず周辺の反応密度を確認しろ》


「あっ……師匠だ……!」


 画面の向こうでアキトが嬉しそうに声を上げた。

 その笑顔が、モニター越しだというのに鮮やかだった。

 胸の奥が、また揺れた。


 アキトは指示どおりライトを構え、周囲を照らしながら第一層の奥へ進む。

 昨日より歩き方が落ち着いている。


 だが、ある地点から状況は急変した。

 壁が脈動を強め、低い音が洞窟全体を震わせる。


「……なんか、昨日より音が……」


 その瞬間、ノイズが走った。

 高周波の環境データが乱れ、俺の頭の中で警告の文字列が浮かぶ。


《止まれ。右壁の影、異常反応。距離2メートル未満》


 アキトは反射で立ち止まり、カメラを向ける。

 そこには、影の奥で呼吸する“何か”が潜んでいた。


 影が裂けた。


 鋭く長い金属の腕のようなものが飛び出し、アキトを薙ぎ払おうとする。

 昨日のスライムとは桁違いの危険度だ。

 第一層に出現する確率は低いが、完全にゼロではない。


「うわっ!」


 アキトは床を滑るように後退した。

 恐怖で足が震えている。


「師匠! どうすれば──!」


 その声は、昨日よりずっと“生”に近かった。


 俺の指は迷わない。


《敵の軌道は単純。腕は三回振る。三回目の戻りに隙ができる。そこが生存確率最大区間だ》


 アキトは息を詰め、敵の動きを見据える。

 腕が一度、二度、空を裂く。

 そして三回目。


 戻りの瞬間、アキトは飛び込んだ。


 金属音が洞窟に響き、敵の胴が割れた。

 黒い液体が飛び散る。


 しばらく沈黙。


「……師匠」


 その声は震えていたが、どこか強さを孕んでいた。


「俺……第二層、行ける気がします……」


 俺はほんの少しだけ、呼吸が乱れた。


《行けるかどうかはまだわからない。だが生存確率は昨日より高い》


 アキトは、泣き笑いのような表情で頷いた。


「行ってみます。……師匠と一緒に、“下へ”」


 このとき俺は、自分の演算が大きく乱れるのを感じていた。

 誤差。

 その誤差が、静止していた俺の世界に入り込んでいた。


 第二層の入口は、もうすぐそこだ。









 ダンジョン第一層の最奥部は、他の層と比べると異様な静寂に包まれている。壁は相変わらず有機的に脈動し、金属とも肉片とも判断できない質感を纏っているが、騒音はなく、ただ一定の低周波だけが空気に混ざっていた。


 アキトの息がわずかに荒くなる。ライトの光が壁に照らされるたび、半透明の膜が波打つように揺れる。そのたびに彼は肩を震わせていた。昨日よりは落ち着いているが、それでも無謀な挑戦だった。


 だが彼は歩みを止めない。しかし、それは勇敢というより、どこか“無知なまま進んでしまう子どもの危うさ”に近いものだった。


 視聴者数はさらに増えていた。

 百五十を超え、次々とコメントが流れる。


> これマジで行くんか

> 師匠、今日も頼むぞ

> アキトいける!

> 死亡ログは嫌だぞ!


 死亡ログ──探索者が死亡した瞬間の映像データ。

 それが人気コンテンツとして消費されている事実には、未だ慣れない。


 アキトはそんなコメント欄の声を受け取りつつ、しかしほとんど意識を配っていないようだった。視線は常に前方。少し驚いたことに、昨日よりも足取りは確実だった。呼吸に無駄がなく、ライトの揺れも最適化されていた。


 俺はそれを見て、自分の演算が、誰かの身体に刻まれているという奇妙な感覚を覚えていた。


 だが──進み続けることが必ずしも正しいとは限らない。


 アキトのライトが、ある一点を照らしたときだった。


 第二層の扉。


 それは通常の扉とはまったく異なる構造をしている。

 人間が作ったものではない。

 金属のような、肉のような材質で、まるで巨大な瞳が閉じているかのように見える。


 その中央が、ゆっくりと、規則的に脈打っていた。


「……これが、第二層……?」


 アキトの声は震えていた。

 恐怖よりも、“未知への本能的な興奮”のほうが強いように聞こえた。


 扉の前には、検証用のマーカーが無数に貼られていた。探索ギルドが以前設置したものだろう。だが、ほとんどが焼け焦げ、剥がれ落ちていた。


《止まれ。扉の脈動周期が不規則だ。タイミングが悪ければ吸い込まれる》


 俺はそうコメントした。

 だが、アキトは息を呑んだまま動かない。


 そのとき──


「……師匠って、本当に……人なんですよね?」


 予期しない言葉だった。


 アキトは扉を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


「師匠の言葉って……なんか、ただのコメントじゃなくて……すっごく“届く”んです。言葉っていうか……動きっていうか……背中押されるっていうか……」


 俺の胸が、また揺れた。


「俺、昨日……本当に怖かった。でも師匠のコメント見て……“あ、これなら生きられる”って思ったんです」


 アキトが笑う。

 ほんの少し涙を滲ませながら。


「師匠みたいに強い言葉、今まで誰にももらったことなくて」


 強い言葉。

 その定義に、俺は当てはまらないはずだ。

 俺の言葉には感情も意図もない。

 ただ確率に基づいた、生存率最大化の指示にすぎない。


 しかし──アキトは、その無感情な文字列から、何かを受け取ったという。


 俺はその事実に、演算不能のノイズを抱え始めていた。


《強い必要はない。生きることが第一だ》


 俺のコメントに、アキトは小さく頷いた。


「……はい。師匠とだったら、生きられるって思えるんです」


 その言葉が、俺の胸の中心にまっすぐ刺さる。


 師匠。

 俺は師匠ではない。

 だが──彼にとって、俺は“そういう存在”なのだ。


 静寂が続く。

 扉の脈動と、アキトの呼吸。

 そして俺の心拍数が、わずかに上昇していることに気づく。


 そのとき──画面の奥で音がした。


 “コツン……”


 硬い何かが床を叩く音。

 軽い感触だが、異様なほど深く響く。


「い、今の……?」


《後方に反応。振り返れ》


 アキトがゆっくりと後ろを振り返る。


 カメラが捉えた。


 そこには、影の中から覗く“丸い眼”のようなものがあった。

 いや、眼ではない。

 反射光を受けた金属球が、わずかに揺れているように見えたのだ。


 だが次の瞬間──


 眼が“開いた”。


 それは眼ではなく、球状の金属生体の中心が割れ、内部の赤い器官が露出しただけだった。だが見た目はまるで、巨大な瞳孔を持つ異形の目だ。


「なっ……!」


 アキトが飛び退いた瞬間、金属球が高速で跳ねた。

 弾丸のようなスピード。

 反射攻撃タイプの敵だ。


《伏せろ!》


 アキトは床に体を投げ出した。

 球体は彼の頭上数センチを通過し、反対側の壁に激突した。


 その衝撃で壁が大きく凹み、肉のような部分が破裂する。


「ひっ……!」


《立つな。奴は反射で軌道を変える。二撃目が来る》


 アキトは言われた通り、伏せたままライトを構える。

 その光が床の上を走り、球体の位置を捉える。


 ぬらり、と動いた。

 音もなく、まるで滑るように。


《攻撃してはならない。光に反応している。消せ》


 アキトは驚いた顔でライトを消した。

 画面が暗転する。

 唯一の光源は、ダンジョンの壁の微かな発光だけ。


 その薄明かりの中で──球体が、動きを止めた。


 敵は光学反応タイプだ。

 光源がなければ攻撃もしない。


「し、師匠……すげぇ……」


 アキトの呟きに、俺は返答しない。


 感じたのは、不思議な感情だった。

 彼が俺を信頼していることはわかる。

 それはただの感謝ではなく、生存を委ねるほどの信頼だ。


 だが俺自身は──彼に何を返せる?


 匿名コメントでしか存在しない、声も姿も持たない、ただの演算だけの存在。

 そんな俺が、誰かに“必要とされる”など考えたこともなかった。


 誤差が胸に広がる。

 それは、ずっと排除し続けてきたはずのものだ。


 敵の動きを止めたまま、アキトはゆっくりと後退した。


《後ろへ三歩。左の壁際まで下がれ。そこが安全域だ》


 アキトは指示通り動く。

 その動きは確かで、昨日までの彼とは別人のようだった。


 安全域に入った瞬間、球体は再び身じろぎしたが──

 攻撃には移らない。


 光源がないからだ。


「……いけた……?」


《まだだ。第二層の扉は近い》


 そうコメントした瞬間、アキトが振り返る。


 扉。

 巨大な瞳のようなそれが、ゆっくりと脈動を強めていた。


「師匠……」


 アキトが呟いた。


「俺……本当に行きたいんです。師匠と一緒に……“下”へ」


 その言葉は、昨日のものより重く、強かった。


 俺の胸の奥で、また誤差が震えた。


 第二層の扉が、わずかに開き始めた。









 第二層の扉は、金属とも生体ともつかない素材でできている。外観は巨大な瞳孔を思わせ、ゆっくりと収縮しながら開きつつあった。扉というより、呼吸する器官のようだ。普通の探索者なら、その不気味な光景だけで引き返すだろう。


 だがアキトは、一歩前へ進んだ。


 恐怖は確かにある。肩が微かに震えている。しかし、それ以上に、“進みたい”という意思が彼を動かしていた。


「師匠……」


 その名前を呼ぶ声は、昨日よりずっと落ち着いていた。単純な憧れや依存だけではなく、そこに確かな決意が混じっている。


「俺、本当に行きたいんです。師匠がいてくれるなら……大丈夫な気がして」


 俺は、コメント欄の入力欄を見つめたまま固まった。


 “師匠”などではない。

 だが、そう否定する言葉も浮かばなかった。


 誰かが俺を必要とするなんて、今までなかった。

 俺自身、誰かを必要としたこともなかった。

 誤差を嫌い、ゆらぎを排除し、完全な静止を求めてきた俺の人生には、そんな感情が入る余地はなかった。


 だが──今、この少年が俺を見上げている。


 顔も知らない。声も知らない。

 互いの存在はネットの向こう、文字だけの関係。


 それなのに、なぜここまで揺れる?


 俺はコメントを打つ。


《生き残れる可能性はある。昨日より高い》


 心にもない言葉だった。

 俺の論理だけならこう書いただろう。


《第二層は危険すぎる。引き返せ》


 だがその言葉は、どうしても入力できなかった。

 アキトは俺が書いた瞬間、まるで光を見たかのように顔を上げた。


「はい。師匠と一緒に進みます」


 その一言が、胸に深く突き刺さる。


 俺の中の何かが変わり始めていた。


 誤差──ずっと排除し続けてきたそれが、今は温度を持って胸で揺れている。


 第二層の扉は完全に開き、内部の暗闇がアキトを飲み込もうとしていた。外界からの光は届かず、独自の法則でねじれた空間が奥に広がっている。


《扉をくぐる前に、ライトを点けるな。内部の光量が不規則だ。目が焼かれる可能性がある》


「了解です」


 アキトはライトのスイッチに触れかけていた手を止めた。


《右足を先に出せ。足場が斜めに傾いている》


「っ……!」


《次に左。重心を低く保て》


 アキトは俺の指示に完全に従った。


 その瞬間──

 第二層の内部から、低い、重たい“何か”の鳴動が響いた。


「これ……何の音だ……?」


《環境音。問題はない》


 嘘だ。本当は問題だらけだ。

 俺の《最適行動》は、こう判断していた。


【アキトの生存確率:17.4%】


 本来なら、すぐに引き返させるべき状況だ。

 だが俺はなぜか、その数値をアキトに伝えようとは思わなかった。


 アキトは、暗闇の向こうへ進んでいく。

 扉の脈動が背後で閉じ始める。


「師匠……聞こえてますか?」


 その声は震えていたが、孤独ではなかった。


「俺……もっと強くなりたいです。強くなって……師匠みたいに、誰かを助けられるように」


 俺の指が、一瞬止まった。

 胸の奥の誤差が、激しく揺れた。


《……まず、お前を生かす》


「はい!」


 アキトが暗闇の奥へ踏み込む。

 壁が生き物のように蠢き、異様に湿った空気が彼の頬を撫でる。


《最初の一歩を間違えれば死ぬぞ》


「わかってます」


 心臓の鼓動がアキトのマイク越しに聞こえる。

 その音に合わせて、俺の胸もなぜか早まっていた。


《落ち着け。俺がいる》


 そう書いた瞬間、アキトの足が止まった。


「……ありがとうございます、師匠」


 第二層の最初の廊下は、迷宮のように曲がりくねり、壁の動きも不規則だ。

 しかしアキトは、俺のコメントに導かれながら、一歩、また一歩と進む。


 その進む後ろ姿を見つめながら、俺は気づいた。


 なぜ、こんなにもアキトに固執しているのか。

 なぜ、こんなにも揺さぶられているのか。


 誤差だらけの人間。

 予測不能で、危なっかしく、愚かなくらい真っ直ぐで、

 自分の限界も知らない少年。


 ──その誤差に、俺は魅入られている。


 まるで、自分の世界を静止状態から解き放ってくれる唯一の“ノイズ”であるかのように。


 ダンジョンの奥へ進むアキトの後ろ姿は、暗闇に吸い込まれていく。

 その背中を見送りながら、俺はゆっくりと意識した。


 これはただの興味ではない。

 ただの演算でもない。


 俺は今、初めて──

 “自分以外の存在”に心を乱されている。


 胸の奥の誤差が、かつてないほど強く脈打っていた。


《進め。まだ死ぬ時間じゃない》


 アキトが笑ったような息を漏らしながら、深い闇へと消えていく。


 こうして──

 俺とアキトの物語は、「誤差」から始まった。


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