異世界と現世の壁はそんなに厚くないのかもしれない(上)
チャイムが鳴ったのでドアを開けると、大きなリュックを背負ったルミエリアさんが立っていた。
びっくりして思わず閉め、洗面所で顔を洗ってからもう1度開けると、やっぱりルミエリアさんが立っていた。白と紫を基調とした美しい神衣も、ラベンダー色の髪もいつもと同じ。ただ気のせいか、さっきより不服そうにぷくっと頬を膨らせている。
と、ルミエリアさんは、いきなり両手を胸元で握り締め、うるうると瞳を潤ませた。
『ああ、サヤさん……! またお会いできるなんて……こんなに嬉しいことはありません!』
どうやら彼女の中で、さっき俺がドアを閉めたことはなかったことにしてくれたらしい。心広い。
ともかく、部屋に上がってもらった。
『ルミエリアさん、お久しぶりです! お変わりないですね』
さっきはすみませんでした。風の巫女の服のままで廊下に立ってるから、幻覚かと思って……。
でもルミエリアさんもこっちの世界に来れたらしい。そういや観光客みたいなのも来てたもんな。まあまあ、名所案内とかしますから、何泊かしていってください。俺はリビングのソファーで寝ますんで。
ところが、リビングに入るなり、ルミエリアさんは笑顔で何やらおかしなことを言いだした。
『わたし、こちらの世界に住もうと思います』
『え?』
『わたし、こちらの世界に住もうと思うんです』
『いえ、聞こえなかったわけじゃないんです。この距離ですし。……え? 住む?』
一瞬「住む」という言葉が俺の知らない隠語か何かだと思ったりもしたのだが、そういえば、ルミエリアさんなんかデカいリュックみたいなの背負ってる。あれって生活用品一式ってこと?
『ルミエリアさん、ちょっとここで待ってもらっていいですか?』
『ええ。いくらでも待ちます』
彼女はにっこり笑って、ソファにちょこんと腰掛けた。背筋はピンと伸びて、膝の上に手を揃えて、まるで上品な来客のように。
俺は自室に戻り、急いでスマホを手に取った。
通話ボタンを押すと、プルルルルと呼び出し音が鳴り始める。
「お姉さん! ルミエリアさんってそっちで嫌なことでもあったんですか⁉」
「やあサヤちゃん。いきなりなんだい」
「家出してきてます。ルミエリアさんが」
「…………家出?」
一拍の沈黙の後、軽く吹き出すような音が聞こえた。……笑うなぁ!
いやごめんごめん、と全く誠意のない感じで謝った後、お姉さんは状況を教えてくれた。
「風の巫女なら、婚約者と結婚して一緒に暮らす、って言って神殿を出たよ。風の民も総出で見送ったらしい」
「……婚約者?」
「白き花嫁のところに行くんだって」
「それ私じゃないですか」
「だから来たんだろう? 何がおかしいのさ」
「一緒に暮らすって、ここ2LDKなんですけど」
「気にするところそこなんだ。……あ、そうそうちょうどよかった。それよりそっちにさ……」
その時『サヤさーーん』と、いつもより控えめな感じで居間から呼ぶ声がしたので、俺はそこでお姉さんとの電話を打ち切った。声の大きいルミエリアさんに全開で叫ばれたら、また俺が管理会社に怒られてしまう。
『はい、ルミエリアさん、なんですか?』
『そういえば、リリーさんはどちらに? わたし、言っておきたいことがあるんです』
『リリーさんは買い物に行ってます。もうすぐ帰ると思うんですが……言いたいこと?』
あれ? リリーさんとルミエリアさんって、仲悪いわけじゃないけどそこまで接点なかったような気も……。
『サヤさんの婚約者はわたしだって、ちゃんと言っておきたいんです』
『リリーさんはそれ言われてどう答えたらいいんですか』
眉を下げて困るリリーさんの姿が容易に想像できた。だって「あっはい知ってます」以上のリアクションが取れないじゃないか。
しかし、ルミエリアさん的にはそれはすごく重要なことらしかった。顔を真っ赤にし、バタバタと手を振り回しながら立ち上がる。
『だって……! だって!! ずるいじゃないですか!!! リリーさんはずるい!!!!! わたしだってサヤさんと一緒に暮らしたかった!!!!!!』
『ルミエリアさん、声大きいです! もう少しボリューム下げて!』
ルミエリアさんの声は、室内に反響し、ぐわんぐわんと響き渡る。大げさでなく、カーテンが揺れた気がした。……やばい。俺の脳裏に、隣の山下さんの顔が思い出された。余ったカレーを分けてくれることもあるけど、基本的には礼儀に厳しく、怒ったらとても怖いのだ。このままでは、またリリーさんが廊下じゃなくてベランダから外出するようになってしまう。ここ5階なのに。
俺が懸命にルミエリアさんをなだめていた、その時だった。
玄関の鍵が静かに回る音がした。
「ただいま」
玄関に姿を見せたのは、淡い色合いのカーディガンを羽織ったリリーさんだった。
手にはスーパーのロゴが印刷された買い物袋を提げている。
スリッパに足を入れながら一歩、また一歩と進み――リビングへと視線を向ける。
ソファに腰かけているルミエリアさんの姿を目にした瞬間、リリーさんはぴたりと足を止めた。
その目が、一瞬だけ見開かれる。珍しい。やっぱりいきなり異世界の人がやってくるのはリリーさんにとっても非日常だったらしい。
『ルミエリアがいる』
『リリーさん! わたしが、サヤさんの、婚約者なんです!!!』
『ルミエリアさん! いきなりそんなこと言われてもリリーさん意味わかんないですから!』
『ルミエリアが婚約者なことは知ってる』
ほらやっぱり。こうなるって知ってた。
しかし、リリーさんはそのまま、そのままゆっくりとこちらへ歩いてきて――俺が座っている、リビングの一人掛けソファの脇に立った。
え、ここ座るの?
そう思う間もなく、リリーさんはごく当然のように、俺の隣に無理やり身を滑り込ませてきた。
細身の彼女だからこそギリギリ座れた、という感じだ。体が密着して、すぐ横に彼女の体温を感じる。
そして――。
すっと、俺の腕にリリーさんの手が絡んだ。迷いも照れもない。落ち着いた動作だった。
そして腕を組んだまま、彼女は俺の肩にもたれかかってくる。さらさらとした髪が俺の頬に触れた。服越しに伝わってくる、しっとりとした温もりが妙に生々しい。ふわりといい匂いがした。
『ルミエリアは婚約者だけど、同居人は、私』
『あの、リリーさん?』
『お風呂も毎日一緒に入っている。もちろんベッドも1つ。婚約者? 違う、貴方は負け犬』
『リリーさん!?』
思わず俺が振り返ると――リリーさんは突然、自分の頭にガシッ! とアイアンクローをかけた。
細い指が自分のこめかみをがっちり押さえ込むようにして、グッと力を込める。
そして次の瞬間。何か、半透明のもやのようなものが、ずるずると引きずり出されるように浮かび上がった。
その“何か”は、輪郭がぼやけてはいたが……見覚えのある顔をしていた。ショートカットの快活そうな金髪少女――フィール先輩。先輩は、宙をくるくると回りながら笑い転げている。
『アハハハハハハ! 見た? ルミエリアのあの顔!』
『なんでフィール先輩まで来てるんですか⁉』
『いや、あなたたちが元気にしてるかなって様子を見に来たの。で、普通に来たらつまんないかと思って。リリーに入ってみたってわけ』
『その遊び心の結果があのルミエリアさんですよ! もう!』
ソファの正面。
ルミエリアさんは、静かにその場で――座ったまま、完全に意識を手放していた。
目を見開いたまま、気絶している。
フィール先輩(inリリーさん)の無慈悲な煽りに、どうやら耐えきれなかったらしい。
多分伝わってしまっていると思うのですが、ただリリーさんとルミエリアさんの戦いが見たかったんです
(下)は、一週間は先かもしれません。番外編だからいいかなって……




