激突、現実世界(下)
……来た。まあ、予想通り。……そう、舞台に上がるということは、こういうことだ。これまで戦ってこなかったけれど、俺の戦場は今、ここから。
「待ってたよ」
屋上の柵に手を掛けたままで俺が振り向くと、背後から近づいていた翔子さんは少し、驚いたような顔をした。
「私が来ると知ってたような顔ですねぇ」
「まあ、知らない仲じゃないしね。ところで、なんで俺に箱を渡したの?」
「ああ、あれは、予備ですよぅ」
……予備? そういや前もそんなこと言ってたような……。俺が眉をしかめると、翔子さんは楽しげに笑った。
「もし、2人の勇者が元の世界に帰ったことで、砂時計に加護が戻ってしまったら。今度は、2人じゃなく、大勢の勇者を召喚して、加護を散らす予定だったんです」
ということは、もしかして、由依も呼ばれる可能性があったということだ。俺は、そっとこぶしを握り締める。そんなことは、させない。
「ところで、なんでここに来るまでに魔法で片付けなかったの? 一発じゃん」
「こっちの世界で当たり前に魔法が使えるわけないでしょぉ?」
当たり前に使えてるんだが……。まあ、確かに威力っていうか、精度は落ちてる。異世界を10としたら、こっちでは3くらい。異世界では10センチ浮かべた俺も、こっちでは3センチ浮かべばいいところだろう。
翔子さんの武器はおそらく近接武器だ。遠距離だと今の影が薄い俺には狙いがつけにくいはず。……だといいな。希望的観測。ただ、声を掛けてきたということはそういうことだと思う。
余裕な表情の翔子さんは、ゆらりと懐から何かを取り出した……大ぶりのナイフだった。ギラギラと光っているのが、なんだかとても嫌な感じである。
「見えない利点を生かすならぁ、こんな所に逃げ込んじゃダメでしょ」
「話し合ったら、なんとかなると思って。翔子さん、なんとかならない?」
同時に、俺は能力を発動させ、3cmほど宙に浮かび上がる。おそらく、向こうからは全然わからなかったと思う。
「平和ボケしてますねぇ」
翔子さんは顔を歪ませ、俺に向かって、一歩を踏み出した。彼女の足が床に着く直前、俺は次の能力を発動させる。よし、今。……館のみんなが、教えてくれた。戦うときに、躊躇はするな。
「……っ⁉ 床が……⁉」
足を踏み出した翔子さんの片足が、そのままずぶりと深く、膝まで一気に沈み込む。踏んだはずの床が消えたことに彼女が気づいたときには、すでに遅かった。
「──っ⁉」
体勢を崩し、前のめりに倒れる翔子さん。咄嗟に腕を伸ばし、バランスを取ろうとするが、もう手遅れだ。足、膝、腰…… ずぶずぶと、全身が飲み込まれていく。俺が床に置いて、巨大化させた、影を薄くして見えなくしていた、大きな鏡に。確か、お姉さんが言ってたっけ。俺が普段出入りに使っていたあの鏡に入ると、普通は世界の狭間に落ちて、2度と帰ってこられないって。
翔子さんの指先が床を掴もうとする。けれど、そこにはもう何もない。
彼女の顔が、俺を見上げた。その瞳には、さっきまでの余裕はなく、ただただ恐怖が浮かんでいた。
「や……だ……」
小さな声が漏れた。
俺は、俺が落とした人が、二度と帰れない場所に落ちていくのを、じっと見つめた。
そして、ゆっくりと沈んで行った翔子さんは、完全に姿を消した。俺は、大きくしていた鏡を縮め、そっと屋上に着地する。硬い地面の感触が、懐かしかった。
そのとき、ちりちりと警鐘が聞こえ、俺は反射的に身を翻した。同時に、ぶしゅっ、と俺の肩から血飛沫が上がる。痛い、というよりも、熱い。躱せたのは奇跡に近い。おそらくサヤちゃんなら今ので首が飛んでいただろう。しかし……。
『おや、かわすんですね。前より素早くなってるじゃないですか』
不思議そうな顔で姿を現したのは、以前に俺を斬った、エルフの隊長だった。……新手か。俺はぎりっと歯噛みする。……ていうか異世界の住人がホイホイ現実世界に来てるっておかしいだろ……!
『教皇様は、こちらの世界にも興味がおありのようですから。魔法がないんですよね? なら、きっと簡単に支配できるはずだと。今は少人数しか渡って来られませんが、いずれは大軍勢を送り込めるようになる見込みです』
副隊長は、俺を見て、憐れむような笑みを浮かべた。そして軽く肩をすくめる。
『……ああ、でも、あなたの切り札の召喚ならできませんよ。個人による世界を超えての召喚なんて、あり得ません。私がこちらに抜けてくるのに、面倒な儀式をどれだけ受けてきたと思ってるんですか』
『……ここまでですね。あなたの死体は、ちゃんと、元隊長のところに届けてあげますから』
その台詞には、どこか残念そうな響きが込められていた。たぶん、本当はリリーさんと戦って、勝って、俺を殺したかったのだろう。
……そこに、勝機がある。ただ……。それはきっと、踏み越えてはいけない、境界の先。超えるかどうかは、悩む。そんなことを言っている場合ではないのはそうなんだが……。
『そういえば、翔子さんが、予備だと言って箱を何人かに配っていたみたいですけど。あれって回収するんですか?』
『もちろん。勇者としての素質がある者でしょうから、いずれ殺して奪います』
『あ、わかりました。じゃあ俺、あなたを殺そうと思います』
* * * * * * * * * * * *
そう言って、こちらに歩き出した少年を、エルフの隊長は怪訝な目で見つめた。床に何か仕込んである可能性があるから、一足飛びに斬りにいくつもりだったが……ああまで言い切った彼の次の行動に、興味が沸いたのと。今すぐ斬られてもおかしくない状況で笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってくる様子に、少し困惑しただけだ。
いずれも、「少し」であり、生まれた隙は僅かだった。それが証拠に、近付く彼ができたのは、まっすぐ腕をこちらに差し出しただけ――。
* * * * * * * * * * * *
館の書斎に、静かにページをめくる音が響いていた。
館の主人である若い女性は、深い椅子に腰掛け、優雅に本を読んでいる。その指先は滑らかに文字を追い、時折、微かに口元を綻ばせていた。
──だが、その静寂を打ち破るように、バタバタッと足音が廊下を駆け抜けていった。
鎧の擦れる音、ぶつかり合う武器の音、慌ただしい兵たちの気配。彼らは、何かを探しているらしい。「いたか⁉」と息を荒げながら、必死に走り回っている。
書斎の入り口を通り過ぎる兵士たちは、誰一人として、女性に目を向けなかった。
まるで、そこにいることに気づいていないかのように。あるいは、気づいたとしても、目を合わせたくないかのように。
しかし、ふと女性は、静かにページをめくる手を止めた。
ぱたん、と本を閉じ、彼女はそのまま宙を見上げ、頬杖をついた。そして、薄く微笑みながら、目を細める。
「へえ……君はそう進化するんだ」
* * * * * * * * * * * *
世界を超えての召喚なんて、個人ではできない。それが世界の理だという。お姉さんは言っていた。世界を曲げて、自分に有利な法則を作り出すのが、お姉さんの力だって。なら、俺も、世界そのものを曲げてみせよう。
そんなに無茶なことは言っていない。だって、呼んだら来てくれると、そう言っていた。危なくなったらわかる、とも。あれは、俺とあの人の、お互いの存在を賭けた約束だったのだ。
心臓の鼓動が、ゆっくりと大きくなる。
それは恐怖なのか、それとも、覚悟なのか。
指先が微かに震えそうになるのを、強く押し殺す。
──大丈夫。俺には、まだやるべきことがある。
俺は静かに、腕を前に突き出した。指を軽く広げ、手のひらを下へ向ける。
一拍の静寂。
そして──
……ぽちゃん。
水滴が落ちたような、小さな音がした。少しして、また。
その瞬間、俺の手の下に黒い円が広がる。
まるで、床が消えたように。そこにあったはずの硬いコンクリートが、くり抜かれたように、黒い波紋へと変わる。
空気が沈む。静寂が深くなる。
そして、足元の闇が、わずかに揺れた。
ぱしゃん──。
微かに波打つ黒の水面から、白く長い指が伸びる。そして、ゆっくりと、縁を撫でるように、外の世界に、触れた。
俺のよく知る、料理上手で人見知りな人の、細い腕だった。
えー、廃デパートが半壊してます。
出てきたリリーさんとエルフの隊長が一太刀交えるたび、壁に大穴が開き、床が傾いてます。俺は屋上の物陰から見守ってるのだが、全然見えない。時折、雷が落ちたみたいな音が響くので「たぶん戦ってるんだろうなぁ」とは思うのだけど……。
ガキン! と鋭い音が響き、俺の顔の真横10cmくらいの場所に、銀色の棒みたいなものが、ガッ!と突き刺さった。エルフの隊長の持ってた剣が半分くらいになってるところを見ると、リリーさんがぶち折ったらしい。
『どうして⁉』
エルフの隊長が、悲壮な声で叫んだ。
『アンデッドを殺すための剣で! アンデッドを殺すための魔法で! ここまで強化しているのに、なんで、こんな……!』
『それが、原因』
屋上全体に、ざわざわと広がった影の後ろから、リリーさんが姿を現し、隊長に向けて袈裟懸けにナタを振り切った。その一撃は、確かに隊長をとらえ、がっくりと隊長が崩れ落ちる。
『私と戦う者は、みなアンデッド対策をしてくるから。私は、それに対する対策をすればいい。何もなしで戦ったら、わからなかった。今まで会った中で、あなたが一番強かったから』
その言葉を聞いて、血だまりの中に沈んだエルフの隊長は何かを言おうとして、結局、言葉にはならなかった。
リリーさんは、隊長を倒してすぐにいなくなってしまった。やっぱり世界を超えての召喚は無理があったらしい。あっちに行ったときに雪見だいふくを大量に献上したいところだが……。
そしてこの日、俺自身にも、大きな問題が1つ発生した。いやまあ、覚悟の上だったというならそうなんだけど……。できれば起こってほしくなかったというか……。
そして、12月1日の夕方。俺は、山の中腹の展望台で、沈みゆく夕陽を見ながら、赤く染まる街並みを見つめた。俺には、きっと世界は救えない。でも、それを導くことならできる。だって、俺は、通訳なんだから。
「サヤちゃん……! よかった……本当にいた……」
駆け寄ってくる友希さんに、精一杯頭を下げる。そして、今の状況を簡単に説明した。次第に緊張した表情を浮かべる友希さん。
「力になるよ。でも、できるかなぁ? わたし、今、ただの女子大生なんだけど」
「あちらの世界に戻れば、力は戻ると思います。ていうか、ここでも頑張ればできるんじゃ。だって私ができてますし」
それに、加護は砂時計に戻ってない、って話だったはずだ。すると、友希さんは、俺の頬にそっと手を当て、くすりと微笑んだ。
「こちらでは初めまして、だよね。サヤちゃん、見た目が変わるかもって言ってたけど……変わらず可愛いよ?」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
「ど、どしたの急に⁉」
突然奇声を上げて頭を抱え、座り込んだ俺の周囲を、おろおろしながら友紀さんがぐるぐると回った。
……そう。なんか、リリーさんを召喚して以降、現実でもサヤちゃんの姿になって、全然戻らない。いや言ってたよ確かに。力を使いすぎると戻れないよ、みたいな。でもさ、ギリギリで耐えたと思うんだ。だってそんなに、使って……ない、と思う……。
そして、やがて、あたりを夕闇が覆い始めた。点灯した街灯を見て、俺はそろそろ時間が来たことを理解する。
そういえば、中條さんは? まあ、友希さんは来てくれるんじゃないかと思ってたけど、中條さんは正直よく分からない。吾輩がなぜそんなことをせねばならぬのだ、と3行くらいの長文で言いそう。
「ああ、中條さんなら来るよ。きっと、ちょっと道に迷ってるだけ」
……そ、そうかなぁ。あんまり迷ってるイメージないけど……。
「それにしても、友希さんが来てくれて助かりました。誰も来ないことも想定してたので」
「ちょっと待って。その場合、どうしたの?」
「え? 私1人で行ってましたけど……」
「うわっ……それ本気で言ってるの……?」
なにその友希さんの声、初めて聞いた。……わたしの年収低すぎ……? みたいな声出さないで。
「ほう、友希もいるか。……そして、そちらがサヤ、と。どういうことだ? 姿が変わっておらんではないか」
背後からそんな声が聞こえて、俺たちは振り返る。そこには、中條さんの姿があった。おお、来てくれたか。ありがとうございます。そして、なぜか中條さんは大量の謎の紙袋をいくつも抱えていた。そのまま、ぐいっと押し付けられる。いい匂いがするので覗いてみると……大量の、パン。甘いのからおかずになりそうなもの、塊のままの食パンまである。紙袋を見た感じ、なんと10軒以上の店の種類を回ってくれたらしい。
「お前の好きな場所といえば、パン屋ではないか……」
……ひょっとして。こっちの世界で会って幻滅されたらどうしよう、って俺の心配は、ただの取り越し苦労だったのかも。中條さんの拗ねたような顔を見て、そう思った。
そして、3人で廃デパートの屋上に普通に不法侵入し、真夜中に現れた穴の中に、まず俺が飛び込んだ。
今度こそ、夢を終わらせに。世界を救いに……さあ、行こう。




