第三十七話 深夜の隠密行、枕元での聖戦
【佐藤家:深夜二時】
リビングの時計が静かに時を刻む。
母・華江の規則正しい寝息が聞こえる中、二つの影が音もなく布団から這い出した。
「(……ターゲット、レム睡眠に移行。今がチャンスね)」
三沢は暗視コンタクトレンズを起動し、懐から超極細のピンセットを取り出した。目的はただ一つ。蓮の枕元に落ちているであろう「毛髪」の採取だ。
政府の鑑定局に回せば、彼の魔力適性値から、あの「神話級」の戦いとの整合性が一発で証明できる。
一方、その三沢の背後で、凛もまた音もなく立ち上がっていた。
「(……師匠の寝息。あれこそが宇宙の真理。あのリズムを盗み、私の肺胞一つ一つに刻み込む……!)」
凛は「歩法」の極致を使い、床の軋みすら殺して蓮の部屋へと向かう。彼女にとって、蓮の寝息は至高の武術教本に他ならない。
【蓮の自室:地獄の攻防戦】
蓮はベッドの中で、脂汗を流しながら必死に「寝たふり」を続けていた。
「(アキラ……! 右から三沢さん、左から凛が来てる! 終わった、俺のプライバシーが物理的に終わる!)」
『落ち着きなさい、蓮。あんたが起きたら全て台無しよ。……「玄武」の局所音響ハックを開始するわ。あんたの寝息を「ただのニートのいびき」に変換して凛を幻滅させる。……三沢さんのピンセットには微弱な静電気を流して、毛根をガードするわよ』
アキラの頼もしい(?)援護が始まった。
三沢が蓮の頭頂部へ、慎重にピンセットを伸ばす。
その瞬間。
バチィィッ!!
「(なっ……!? この男、寝ている間も全身に「静電気の防壁」を張っているというの!?)」
三沢の指先に鋭い痺れが走る。彼女の目には、蓮が防衛本能だけで自動迎撃しているように見えていた。
その横で、凛が蓮の口元に耳を寄せ、心酔した表情で目を閉じる。
「(……おお、このリズム。不規則に見えて、その実は銀河の周期と同じ……! ――ん?)」
アキラのハックにより、蓮の口からは「……ぐごぉぉ……むにゃ、半額シール、貼れよ……」という、極めて世俗的な寝言が吐き出された。
「(……な、なんという高度な偽装! 俗世の言葉に、これほどの密度の闘気を込めるとは!)」
凛は感動のあまり、その場に跪きそうになった。
【鉢合わせ:暗闇のキャットファイト】
「……あなた。そこで何をしているの?」
三沢が、低い、氷のような声で囁いた。
「……それはこちらのセリフです、三沢さん。師匠の神聖な睡眠を、その不浄な器具で汚すつもりですか?」
凛が、闇の中で静かに構えを取る。
二人の間の空気が、バチバチと火花を散らす。
政府のエージェントと、若き天才格闘家。暗闇の中、蓮のベッドの上で、音なき死闘が幕を開けた。
三沢がピンセットを投げ捨て、柔術の構えで凛の腕を固めようとする。
凛はそれを紙一重でかわし、蓮の鼻先数センチを通り過ぎる鋭い手刀を放つ。
「(やめろ! 俺の顔の上でシャドーボクシングするな! 風圧で目が乾くだろ!!)」
蓮は心の中で絶叫した。
【結末:アキラの最終手段】
『……仕方ないわね。お母さんを呼ぶわよ』
アキラが「玄武」経由で、華江のスマホのアラームを爆音で鳴らした。
「……あらぁ、もう朝かしら?」
隣の部屋で華江が起き上がる気配がした。
「(……撤退よ!)」
「(……失礼いたします、師匠!)」
二人は脱兎のごとくリビングへ戻り、何食わぬ顔で自分の布団に潜り込んだ。
数分後、部屋に入ってきた華江が見たのは、大粒の汗をかいて「……十億円、あげちゃう……」と、うなされながら眠る蓮の姿だけだった。
「……蓮。やっぱり相当疲れてるのねぇ。そんなに大金、持てるわけないのに」
母の優しい言葉に、蓮は心の中で泣いた。
そして、三〇二号室へ帰っていく三沢の鞄の中に、アキラがこっそり「一ノ瀬凛の髪の毛」を十本ほど紛れ込ませたことを、まだ誰も知らない。
「(アキラ……それ、後で三沢さんが解析して、凛が「神話級の怪物」判定になったらどうするんだよ)」
『……いいじゃない。その方が、あんたへの注目が逸れるわよ』
佐藤家の長い夜は、新たな混沌の火種を抱えて明けていった。




