第二十八話 十億円と、泥沼の逃避行
【佐藤 蓮の自室】
蓮はベッドの上で、震える手でスマホを見つめていた。 銀行口座の残高画面。そこには、これまでの人生で見たこともない数の「0」が並んでいる。
「……1、10、100、1000……一億、十億……」
ポチッ、と画面を閉じる。 「……バグだな。あのアナログな銀行のシステムが、ダマゾンの超高度な送金処理に追いつけなくて、表示がバグったんだ。俺の残高は本当は一万円くらいに違いない。そうに決まってる」
「現実逃避もそこまで行くと芸術ね」 ソファでポテトチップス(のり塩)を食べていたアキラが、冷ややかな視線を送る。 「あれは正真正銘、あんたが売った『ゴミ(神話級)』の対価よ。今さらビビってどうするの」
「うるさい! 十億なんて大金、俺みたいな善良なニートが持ってたら、明日には国家権力に消されるか、怪しい勧誘の電話で回線がパンクするんだよ!」
蓮は頭を抱えてのたうち回った。 「……ダメだ、考えたら負けだ。今は……今は目の前の敵を倒すことだけ考えよう。アキラ、地下八階の攻略に行くぞ!」
「はいはい。ストレス発散にダンジョン攻略なんて、あんたも立派な探索者ね」
【地下八階:忘却の腐敗沼】
クローゼットを抜けた先は、視界の悪い霧に包まれた広大な「沼地」だった。 一歩踏み出せば膝まで沈み、腐った卵のような異臭が鼻をつく。
「……げぇっ、最悪の環境。これ、ジャージが泥だらけになるじゃない」 アキラがスタッフ(モップ)を杖代わりに、嫌そうに地面を突く。
「こんな時のために、こいつを持ってきたんだ!」
蓮が背負っているのは、第十七話で魔改造した『サイクロン掃除機・ジェットパック仕様』。
「アキラ、ハッキングで『吸引』の概念をさらに拡張しろ。泥を吸い込むんじゃなくて、『地面との間の摩擦をゼロ』にするんだ!」
「了解。――スクリプト展開。ホバー・フィールド、出力最大!」
キィィィィィィィン!!
掃除機のノズルから高圧の魔力が地面へ向けて噴射される。蓮の体は泥に沈むことなく、水面から数センチ浮き上がった。 蓮はそのまま、アキラの手を引いて泥沼の上を滑るように進み始めた。
「これなら汚れないし、移動も速い! ――あ、あそこにモンスターがいるぞ!」
泥の中から飛び出してきたのは、全身がヘドロでできた巨漢、『マッド・ゴーレム』。 通常なら物理攻撃が効きにくい難敵だが、今の蓮は「現実逃避」で無敵状態(メンタル的に)だ。
「十億のことは忘れろ! 全部泥と一緒に吸い込んでやる!」
蓮が掃除機のノズルを逆手に持ち替え、ゴーレムに突きつける。 《モード変更:【超高圧洗浄】》
掃除機に溜まっていた「空気の圧縮エネルギー」が、一気に解放された。 ドゴォォォォン!! という衝撃波と共に、マッド・ゴーレムの巨体は一瞬で泥の霧へと分解され、周囲の沼ごと吹き飛んだ。
【攻略終了:本日の戦利品】
地下八階のボス(巨大なナメクジのような何か)を、掃除機の「布団叩きモード」で物理的に粉砕した二人は、ようやく部屋へと帰還した。
本日のドロップアイテムは、『常に乾燥し続ける不思議な足拭きマット』。
「お、これいいな。風呂上がりに最高だ」 蓮は満足げにマットを脱衣所に敷いた。地下八階を攻略した報酬が、ただの便利な日用品。これこそが蓮の求めていた「平穏」だった。
「……で。いつまで現実逃避するつもり?」 アキラが再びスマホを蓮に突きつける。 画面には、銀行からの新着通知。
『【重要】多額の入金が確認されました。お取引の目的について確認させていただきたく――』
「ギエェェェェ!! 銀行から電話が来たぁぁ!!」
「あーあ、ついに捕捉されたわね。……どうする? 私が銀行のサーバーをハックして、履歴を消してあげようか?」
「……いや、それをやったら本当の犯罪だろ……」
十億円を抱えた最強のニートは、世界一豪華な足拭きマットの上で、今夜も震えながら眠りにつくのだった。




