幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 8
下 思いやるより増長の愛
「裏地の付いたぶ厚い股引に脚を包む。頭巾を深々と被り、しかもその頭巾の下には帽子を被る。二重とんびの外套の釦を全部しっかり留めて、その上、頸筋と胴の周りに手拭いで動かないようきつく縛る。鹿の皮の袴に脚半はもちろん、足袋は二足履いて、しもやけ防止のために藁沓の爪先に唐辛子を三、四本入れる。毛皮の手甲をして、もしもの時のために足橇まで背中に担ぐ。しかし、これだけ充分用意してさえもこの大吹雪、凌ぐのは簡単なことではござりませぬ。空を吼え立てる風は烈しく、山山も鳴動して峰の雪や梢の雪、谷の雪が一斉に舞い立った時には一寸先も見え難く、瞬く間に路を埋め、鼻の孔まで粉雪が吹き込んでは、水に溺れるよりまだまだ苦しく、ましてやそんな準備も気構えもできていない都会育ちのお客さまなど、とてもとても。命が惜しければ、是非ともここでご逗留なされませ」と、純朴に話す宿屋の主人の口振りは慈しみにも近い親切。
なるほど、話を聞くだけでも恐ろしい。珠運は別段急ぐ旅でもなく、
「そういうことなら、今日のところはご厄介になりましょう」と、尻を炬燵に据え、退屈を輪にして吹く煙草の煙、ぼんやりとしてそこらを見回せば、ふと眼についた柘植の挿し櫛。
「さては、花漬売が気づかずに落としていった物か」と、手に取る途端、すぐにその人の姿ゆかしく、昨夕の亭主の物語が今更のように思い出されて、
「あの憎い叔父め、そんなことが許される世の中が恨めしい」と思わずにはいられなかった。それにつけても、何となくただただお辰が可愛く、
「俺が仏なら、七蔵を頓死させ、行方知らずになっていた親に巡り会わせて、宮内省からは貞順善行により、緑綬、紅綬、紫綬など、ありたけの褒賞を戴かせ、小説家にはそのあわれを面白く書かせ、美人画で有名な祐信や長春らを甦らせて、お辰の美しさを充分に写させ、そして日本一の大々金持ちの嫁にして、あの継ぎはぎの木綿着を美しい刺繍を施した綺麗な衣服に替え、油気が少なくなって乱れた髪には、極上々の正真正銘の伽羅、栴檀の油を付けさせ、握り飯ほどの珊瑚珠の付いた簪に鉄火箸ほどの黄金脚をすげて挿してやりたいと思うのだが、そんな神通力もない我が身には何ともしようがない。家財をすべて売り払って、懐にはまだ三百両余りあるが、これは自分が生きるためのもの。道中でも、片足がまだ何とか履ける草鞋は捨てないくらい倹約しているのに、絹絞りの半襟一つさえむやみに与えてやることも難しい。とは言いつつも、あまりの慕わしさ、ああ、忘れられないいじらしさ、こんな善女に何かよいきっかけとなるようなものをやることはできないものか……。そうだ、思いついた!」と、小さな行李を素早く解いて、小刀を取り出し、小さい砥石で切っ先を鋭く研ぎ上げ、やがて櫛の手に持つ肉厚の箇所に何やら一日がかりで彫りつけ、紙に包んでお辰が来たら、どんな顔をするかと待っていたのだが、恋の何たるかを知らぬ不粋な珠運、独り合点の思いは当てが外れて、その晩は吹雪が一向に止まず、女の足ではどうして歩いて来れようかという具合。そうなってくると、流れない所に水が溜まるように、逢えないとなると思いは積もって、いよいよ気持ちは切なく、
「自分は薄暗い部屋の中で、煤けてはいるけれど天井の下、赤くはなっていてもまだ破れはしていない畳の上に座っている。去年の春、屋根に積もった雪が溶け出したのか、怪しい汚染は、襖に描かれている滝の流れを乱して、同じ襖絵の李白像の頭に注いだようになっているけれど、建て付けがきちんとしているので、愚痴を言うほどに身震いするすきま風の寒さはなく、兎にも角にも安楽にしていることが出来るが、うら寂しく自分の運命の悲しさを知る不憫な少女の住む荒屋と言えば、天井もないに等しく、屋根裏は芝を焚く煙に塗られて怪しげに黒く光り、火口…火打ち石で発火させた火を移し取るもの。種火になるもの…のような煤は高山の樹に掛かった猿尾枷みたいに垂れさがり、その下にあのしなやかな黒髪を引詰めるように結って、腸が見えたような畳の上に、露が固まろうとするときの軟らかい璧のような身体を厭いもせず、なよやかに大人しく坐っているのだろうか。人情無しの七蔵め、大方小鼻を怒らせて、大胡座をかいて炉の側にいるのだろう。その憎らしげな顔が見えるようだ。藍格子の大きなどてらを着て、充分酒に暖まりながらも分をわきまえず、炉の隅に転がっている白鳥徳利の寝姿を忌々しそうに睨めたその眼をジロリと注ぎ、裁縫に忙しそうにしている手を止めさせて、無理な言い付け。いくら飲んでも飲み足りない酒飲みの言葉は、刺々しく針を突き刺すようで、胸を痛めてそれに答えるお辰は薄着の寒さに唇は震えるが、それにも容赦なく刺し込む風。邪見に吹く風をどうやって防げばいいというのか。壁土も崩れ落ち、中身の竹や板の骨まで露れた壁、吊しているだけの筵屏風。そんな甲斐のない筵と同じ甲斐のないこの世を生きるお辰の運は『貧』に七分方凍ってしまって、三分未満の命を生きるのみか」と、そんなことばかり考えている珠運には夢と現実とが分からなくなってくる。
「アア……」と、珠運が歎く時、雨戸に雪の音がさらさらと聞こえて、気がつくと、すでに火の消えてしまった炬燵に足先が冷たい。
つづく




