幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 3
「風流仏」は風流仏縁起を除き、
「発端 如是我聞」から、最終章の「団円 諸法実相」に至るまで、すべての副題は「法華経」の方便品にある言葉である由。
今回の「如是相」とは、新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集 P.167の脚注によれば、
『諸現象の形相。お辰の美しさをいう』とのこと。
なお、「第一義諦」とは、同書脚注では、
『仏語。真俗二諦のうち、真諦のこと。言語表現・言語習慣を意味する世俗諦に対し、言語によっては捉えられない絶対的真理、の意』とある。(P.167 )
第一 如是相 書けぬ所が美しさの第一義諦
名物に美味いものがあって、空腹に須原のとろろ汁が殊の外いけて、飯を何杯か滑り込ませた身体をこのまま寝かせるのは良くないとは思えたが、することもない。道中日記をつけ終わった後は、ただ何となくごろごろしながら煤けた行燈の横にあった落書きを読めば、『山梨県士族、山本勘助、大江山退治の際一泊』と、穂先も擦り切れたような筆の跡。さては、英雄殿もひとり旅の退屈に、ほとほとやりきれなくなって悪戯に書かれたものと思われた。可笑しいだけでなく、どこか哀れさも感じて、膝を崩しての炬燵に、最初から語り合える相宿の友もいない珠運、微かな温もりを持つ炬燵の埋火に脚を温めながら、独りぼんやりして、炬燵の上に顔を伏せてうつらうつらしている所へ、こちらを目指してくる足音。しとやかなのは先ほどの踵を響かせて歩く女中ではない。
「ご免なさいませ」と襖越しに聞こえる優しい声に胸がときめき、しかけた欠伸を半分噛むようにして、何とも知れない返辞をすれば、襖の唐紙をするすると引き開けて、丁寧にお辞儀をし、
「冬の日の木曽路はさぞかしお疲れでござりましょうが、ご覧くだされ、これはこの地が誇ります名物の花漬と申しますもの。今年の夏の暑さをも越し、今降る雪の真最中でも色も褪せず、梅、桃、桜のそれぞれが美しさを競いあっておりますお品。お気に召されれば、信濃の地へ向けて陰膳…道中の無事を願って留守宅で供える食膳…を供えながら、淋しい独り寝の夜をお過ごしの都のお方へのお土産に」と、心憎い愛嬌言葉。口上の綾とはいいながら、艶めかしく、売物に香を添えるような口振りには、利発さが窺える。世馴れたようにすらすらと言葉が出るが、決して、軽はずみに言うのでも無い。持って来た包みを静かに開いて、二箱、三箱差し出す手つきもしおらしい。花はそっちのけで、ボーッとなりながら覗き込むこちらの眼を避けるように背向ける顔は、折から隙間を漏れる風に燈火が揺らいで、はっきりとは見えないが、隠しようもないその美しさ。
「参った。こんな深い山の中に。この女は何者?」
つづく