幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 4
「如是体」とは、「新日本古典文学大系 明治編 幸田露伴集」の脚注に拠れば、
「諸現象の本質。お辰の出生とその前後」とある。(P.168)
なお、「粋の羯羅藍と実の阿羅藍」という副題は、「日本近代文学大系6 幸田露伴集」(角川書店)、及び「風流仏」(東京堂)においては、「粋の父の子實の母の子」となっている。この言い方の方がまだ分かりやすいかも知れない。
第二 如是体
粋の羯羅藍と実の阿羅藍
見て面白い世の中には、聞くも悲しい身の上の人もいる。昔、この京にして、この妓ありと、評判は八坂の塔よりも高く、その名は音羽の滝よりとどろいていた室香という芸子がいた。しかし、平家物語のように、室香も『地主権現…清水寺の北隣にある鎮守社…の花の色 盛者必衰の理』を逃れることはできなかった。
梅岡何某と呼ばれる長州藩あたりを脱藩した勤皇派の浪人で、きりりとした男気のある人物と懇ろとなり、深い仲となってからは、他に男がいる女を贔屓にしようとする客は減って行き、芸者などと遊ぶ時の金、即ち玉代の目安となる線香…線香一本の燃える時間を単位とする…の煙も段々減ってきた。
エエ、どうせ我が身は朝顔と同じ短い命と、やけになってからは、当時、人から恐ろしがられている『新徴組』も何怖いこともなく、三筋の三味線は手にしても、心は一筋に君様大事と、時を憚り世を忍ぶその男を匿って半年余り、苦労の中にも助ける神が結んだ縁か、嬉しいことに情の胤を宿した。しかし、腹帯の儀式もめでたく済ませたのも束の間、世情不安となり、忽ち眉間に皺の浪を寄せるような、世間を騒がせる鳥羽伏見の戦争が勃発した。
その時の方様の憎いほどの気強さ、丈夫の志を遂げるのは今この時だとばかり、一群れの同志を率いて官軍に加わろうとされる。それを止めることはないけれど、生死を争う修羅の巷に踏み入って、雲の彼方の吾妻路から、空寒い奥州にまで、帰るとも言わずに旅立ってしまう別れに、これはお方様の出世の門出なのだと、自分の心を無理矢理納得させて、勇ましい言葉を口にするが、それは果たして室香の本当の気持ちなのか。狭い女の胸には余って、心配して過ごせば、眼は潤むが、涙は流せず、男の心意気を粋だとする室香故、迷い迷って、自分でもどう考えればいいのか、思いを決められず、うろうろするうちに日は経ち、いよいよその日がやってきた。
義経袴に石清水八幡宮のお守りを縫い込むと、『愚かなことをする』とちょっと微笑みながら叱られた昨日の声はまだ耳に残っているのに、今、今のお姿はもう一里も先にあるのか、エエ、せめては一日に行く路くらいは見通したいものを、見えぬこの眼が腹立たしいと、門に出て、背伸びしての、そんな繰り言も甲斐のないことではあるが、その気持ちも分かるというもの。
一月過ぎ、二月過ぎても、この恨めしい気持ちはずっと引き摺って、筑紫琴を習っている隣の妓が歌う唱歌とも自分を引き較べて、絶えることのない悲しさを感じていたのだったが、そんなところにも、『さあ、お隣の琴の音のようにコロリン、チャンと返済を済ましてもらいましょうぜ』と、無慈悲な借金取りめが朝に夕にやって来る。返す言葉も力無く、男松を離れた姫蔦は、こんなにも世の中の風に嬲られるものなのかと俯いて、横目で色んな書画を交ぜて張ってある袋棚の襖戸の広重の絵を見て、関東に向かっているであろう男を思いながら、口惜しさと同時にゆかしさも感じて、
「方様、早く帰って下され」と、独言が口から漏れれば、
「何? 早く帰って下され? 利息も払わずに帰れとはよくも言えたな」と吠え付かれる。
「ああ、大きな声を出して下さるな、あなたにも似合わぬ」と言いかけて、
お腹の中には大事な大事な、我が子であって我が子でない、顔を見ない先から愛しくて仕方がない方様の形見が。唐土には胎教ということさえあって、ないがしろにはできないと、ある夜の寝物語として聞いたのに、このありさま。口惜しくて口惜しくて、断腸の苦しみ。天女が命を亡くす前に表す五つの衰相のように、鼈甲の櫛や真珠の根掛もいつしか無くなって、髪飾りが美しかった頃の俤はなくなり、身だしなみを整えることにも懶くなって、光っていた色艶も悩みに曇り、好みの衣装の数々は借金取りに取られてしまい、今では着古しの普段着一枚。どうやって、以前のような姿に戻れようか。困った時に助け合うべき身内で、ただ一人いる弟は、いない方がましな博打好きの酒好き。落ちぶれても相談相手にもならず、頼みの綱と言えば親切な雇婆だけ。
こうやって味気なく暮らすうちに、十月は満ちて、産声美しく、玉のような女の子が生まれた。それが辰と名付けられたのがあの花漬売りだと、こう話すのは、昔、伊勢参宮の帰り道で粋なこととして、遊郭遊びを覚えたような宿屋の親爺。
これには珠運も血の通った人間、涙を掃ってその後を訊けば、主人、
「お待ち下され、調子に乗って話をしている内に、炉の火が淋しゅうなりました」と。
つづく




