幸田露伴「風流仏」現代語勝手訳 21
下 恋恋恋、恋は金剛不壊なるが聖
嘘というものは誰がつき始めたのか。正直に話す者は馬鹿のように、真実を語る者は間抜けのように扱われる浅ましい世の中である。
『男女が、互いの気持ちは変わることはない、と一言交し合えば、それだけで一生変わることはないのに、小賢しくもそれを神仏に誓いを立てて証書に記し、これっぽっちの誠も伴わない筆先に、情も墨の色も薄く、言葉だけを飾って色めかす魂胆は、何と嘆かわしいことか、と昔の人は言ったが、それはまだ牛王宝印…厄除けの護符。裏面に誓約文を書いて誓約の相手に渡す…に血書きして、神に懸けて誓っているので、まだゆかしい所もある。
しかし、最近は熊野牛王を馬鹿にして罰を恐れず、金銀を命と大事にし、【一 金千両成。右、借用いたしましたこと相違ございません】と、本式の証文を作り、
【もしも、心変わりをした暁にはこの書面を証として、必ず取り立てられるものとします】と、汚い判子を押して約束を堅めると、ある書物にあるが、これも、烏賊の墨で文字を書き、亀の尿を印肉に仕掛けて、年月を経ると自然に消滅する巧みな手段が現れるようになってからは段々廃れて行った。そして、今ではもっと現実的な手段として、女は男の公債証書の名義を自分の名前にして取っておき、男は女の親を人質にして召し使うという。
亭主にするなら理学士、文学士が潰しが利く。女房を持つなら音楽士、画描き、産婆が三割得だと言うが、それならいっそのこと『美人局』、『げうち』、あるいは銭湯などの脱衣場で他人の衣服や金品を盗む『板の間稼ぎ』等の業が出来て、しかも英語、フランス語に長け、交際上手で、エンゲージ…婚約…にかこつけて、華族の若様からゴールドの指輪を一日に五つ六つくらい取れるほどの女が望まれる世の中である。珠運よ、汝よくよく用心して、人に欺かれぬようにしなければならぬぞ』と、師匠から人生訓を聞かされたのを、かつては『何の、そんな悪口を』と冷笑ったが、なるほど、自分は正直すぎて愚かだったのだ。
お辰を女菩薩と思ったのが第一の誤り。折疵を隠すために、刀には『樋』…刀の両側面に付けられた細長い溝…を彫るという手もあり、田原が持って来た手紙にも根性が腐って嘘さえ美しく、
「お懐かしさはしばしも忘れずにおります。何れ近いうちに、父様に申し上げて、朝夕、あなた様のお傍に居られるようにと、神かけをしております」など、我を嬉しがらせたことも憎いと、恨みの眼尻鋭く、柱に凭れては身体に力なく、下げた頭を少し上げながら睨めば、浮き世のいざこざなど知らぬ顔のお辰の彫像、ゆったりとしていて大空に月が澄んだように佇む気高さ。見とれていると、自分の胸に疑惑を抱いたことが恥ずかしく、ホッと息を吐いて、
「アア、間違っていた。これ程の麗しいお辰、どうしてさもしい心など持っていようか。かつて亀屋の奥座敷で一生の大事と自分もお辰も浮いた言葉もなく、互いに飾らず疑わず固めた約束。たとえ天を駆け巡る雷が今ここに落ちたとしても、二人の仲は引き裂かれはしないと契ったものを。よしんば子爵の威厳が強く、他に婿の候補者が決まったとしても、自分の命はお辰に預け、お辰の命はこの珠運がもらっているのだから、お辰はどの命、どの身体でもって侯爵に添うというのか。しかも、あの時、身体を投げかけて、艶やかな前髪を我が膝に押し付け、胸の鼓動も可愛らしく、泣き伏せながら、
「拙い私めを思い込まれて、それ程までに情厚いお言葉、幸せすぎて、有り難いとも嬉しいとも、この喜びを言い表す言葉が見つからない愚かなこの口が悔しゅうございます。
忘れもしません、何日ぞやの朝、何の見所もない櫛に数々の花を彫りつけてくださった時から、優しいお心をゆかしく思い始め、御小刀の跡も匂う梅、桜の花片一片も欠かさぬよう大事にして、昼に御恵みを頭に挿しかざせば、自分にとっては宝玉の冠、少しの立ち居振る舞いにも、落ちないように気をつけて、夜には針箱の底深くに蔵めて、枕元に置きながら、幾たびか又開けてみて、漸く眠るのでございます。
何のためとは私も知らず、特にその日、叔父の非道、あなた様に対する勿体ない口の利き方、これも私が原因となっているため、思わぬ不快なことをお耳に入れてしまうと、いちいち胸先に痛く、胸の差し込みを押さえながら、お顔を見詰めておりましたが、悠々たるご気性で、咎め立てもなさらないばかりか、何の苦もなくさらりと解決していただき、これら幾重ものご恩を担うことのも出来ない我が身、せめて肩を揉め、足を擦れとでもお使いいただけばまだしも、反対に口をお利きになってももの柔らかく、私が洗顔のための温湯を縁側に持って行って、歯を磨くために楊枝の房を少し毟って、塩と共に塗り盆に乗せて出すような僅かばかりのことさえも、
『我は早起きの癖があるので、汝までを早起きさせて、まだ寒い朝風に当てさせるのが可哀想で辛い』と、人を庇うお言葉。本当に人生五十年と申しますけれども、その年月をあなた様にお任せてして、何を惜しむことがございましょう。
真実をありったけ、智恵をありったけ尽くしてご恩に報おうとするに付け、慕わしさはひとしお増して、心というものが又一つ新しく添えられたように、今までは構いもしなかった形振りをいつの間にか繕う気になって、髪を結うにもどうすれば誉められるかと鏡に向かって小声で問い、ある晩の湯上がりなどは、恥ずかしながらソッと薄化粧して怖々座敷に出た所、少し微笑まれながらご覧になったお目許に、何かいつもとは違うお気持ちが含まれているように思われ、人知れずカッと上気したこともございました。
単に身だしなみだけではなく、恐れ多いことではございますが、胸の内にある『可愛がられてみたい』という願いを吉兵衛様が悟られてか、あなた様とのお話合い、結婚せよ、しないとのお争いをふと立ち聞きし、魂がゆらゆらとしてしまって、足も定まらず、そのままそこを逃げ出して、人のいない薪部屋に夢の中の出来事のような気持ちで入ると、同時に込み上げてくる涙。あなた様ほどの方の女房とは。
私の身のためを思われてなのでしょうが、あなた様に対する吉兵衛様の無礼すぎる言葉が恨めしい。女中となっても一生お傍にいられさえすれば望みは足るものを、余計なお世話というもの。
自分が言わせたように聞き取られて疎ましがられては取り返しがつかないことなるのではないか。そうなった時には、辰はどうなって、最後にはどういう風になってしまうのかと悲しんだのですが、珠運様も珠運様、余りにも素気ないお言葉。
子どもが捉まえた小雀を放してやったくらいにしか辰を思っておられないのではないかと泣きましたが、あなた様はそれから黙ったまま亀屋をお発ちなさいました。その時は、十日も刈り溜めた草を一日で焼いてしまったような心地がして、もう尼にでもなるより外ない身の行方を歎いたものでございます。
馬籠でご病気になられたと聞いた途端、エッと驚く傍ら、愚かな心は、看病をして差し上げられると、嬉しさが込み上げ、ご介抱申した甲斐があって、今日のお床上げ。目出度いのは目出度いけれど、又もやこのままお発ちになるのではと、先刻も台所で気落ちしていたところへ、吉兵衛様の奥様が、
『珠運様との縁を継ぎたければ、その人様の髪を一筋知られぬように抜いて、お前の髪と確り結び合わせ、<喼急如律令>と唱えて谷川に流し去るがいい』と、憎らしくもお年寄りの癖に、私をお嬲りになっていると知りながら、あなた様のお足を止めたさに、良いことを教えてもらったような気がして、馬鹿げた呪もやってみようかとも惑うくらい、小さい胸は苦しく、捨てられるのはこの身が不束なためか、この心が浅いためかと独り悔しく悩んでおりましたのに、有り難くも、
『たとえ天を駆け巡る雷が今落ちたとしても、二人の仲は引き裂かれはしない』と仰られました。
アア、これを神様、どうかご覧いただきたい。辰めの一生はあなたと共に」と、熱い涙で我が衣物を透したのは、もしかして嘘だったのか。
新聞こそ当てにならないもの。それを信じて誠ある女房を疑うのは我ながら浅ましい、とは思うものの、全くいわれのないことを書くとも思えず、見れば業平侯爵とやら、位も貴く、姿麗しく、才能も大層優れた人物とのこと、
「エエ、妬ましい。自分には位もなく、姿も美しくもなく、才能もまたなければ、較べられては相手にならない。やはり子爵の言葉通り、思慮もまだ浅い生若い者の感情で、都会風の軽薄に流れて、変わったのに間違いはなかったのか」と、頻りに迷い沈んでいたが、思い余ってか、一声烈しく、
「今分かったぞ、移ろいやすい女心、俺から侯爵に乗り換えて、おのれ一人の栄華を誇りおって!」と叫ぶと、
「情けないことを仰います、この辰が……」という声が。
エッと驚いて振り仰向けば、ちょうどその時、日は傾きかかって、夕映えの空だけが外に明るく、家の中はしんと静かで、あるのは淋しげに立つ彫像一つばかり。
「何と忌々しい。一心乱れて、あれかこれかの二途に別れ、お辰の声が聞こえたか。吉兵衛の話していたことがひしひしと当たっているのが悔しい。妄想の影法師に馬鹿にされ、有りもしない声まで聞く愚かしさ、これ程までに我を迷わせるお辰め、お前自身も浮き世の潮に漂う浮き草のような定まらない女とは知らず、天上の菩薩と誤り、勿体ない後光まで付けたことが口惜しい。どこの業平なり癩病…ハンセン病…持ちなり、勝手に縁組みして勝手に楽しめ」
「あまりのお言葉、定まらないのはあなたのお心」
「おや? 不思議だぞ? 確かにその声は……。これもまだ醒めやらない煩悩が見せる夢か」と、眼を擦ってみれば、しょんぼりとした像が眼に入る。
耳を澄ませば、以前からそこにある樅の木の蔭の辺りに子どもが集まって、鞠をついているのか、風が運んでくる数え歌。
『一寸百突て渡いた、受取った受取った、一つでは乳首啣えて、二つでは乳首離いて、三つでは親の寝間を離れて、四つにはより糸より初め、五つでは糸をとりそめ、六つでころ機織そめて―』と、苦労を知らない、いい調子。
口々に歌う無邪気な長閑かさ。拍子を取りながら歌っているのを聞くと、人が作った歌なのに、声は風が響いたように美しい。鞠を受け取れば百まで突いて次に渡すのがきまりであるのと同じで、人間は『慾』を持って生まれついた以上、最後までその『慾』を突き続ける他はない。ただ時として、鞠を突き損ねることもあって、その時には恨みが生じるが、そんな時でも、罪とか報いとかも忘れ、恋や無常などとは無縁の世界で、楽しんでいる子どもたちが羨ましい。
「アア、無心こそ尊いもの。昔、自分は何も知らず、白糸のようにただ清廉一筋で生きてきたのに、儚くも、恋の喜びを知るようになって、その白糸が染まってからというもの、やがて辛苦によって糸は結ばれ、濡れて縺れてしまって、解けなくなった苧のようだ」と、物思いに耽っていると、どこからか、
「そんな恨みと疑いにまみれて色褪せた苧の色なんて嫌」と耳に聞こえて、思わず目を閉じれば、小憎らしくもお辰の面影がありありと浮かび、涙ぐんで言い訳をしたそうな様子。どこにも憎らしい所はない。
なるほど、
『定めがないのはあなたのお心、新聞一枚に固い約束を交わしたことを反故にしたとお怒りなされるか』と、愚痴を言われてみれば無理もないことだが、お辰が子爵の所へ行ってからは、手紙も田原が持って来た僅か一度だけ。
これまでにこちらから出した何通かの手紙は、初めは親子再会の祝いだったが、中頃には遺されてしまった恨みつらみの言葉や人には決して聞かせられないほど恥ずかしい文章まで書いてしまった。
筆をとればその人の耳元で話をするような気持ちになって、愚かにも知らず知らず、
『独りでいることの恨みを数えるように鳴る夜更けの鐘は、まだ辛くはありませんが、朧気ながら夢で逢っているあなたとのうれしい恋の通い路を堰き止める朝を告げる鶏の声は、夢の名残を感じていたいのにと憎らしく思ったりしております』などと書いてもまだ足らず、追伸として、細々と書き足し、都会の好色漢の若者を何人も惑わされたご器量の美しさは、劫って心配の種子で、我もその浮いた男たちと同じように思っておられるのではないかと心配して、実に心細く残念な思いをしております。
アア年月が早く過ぎればいいのに。年月を経てあなたの顔形が変わってしまった時にこそ、決して浮ついていないこの恋が変わっていないことを示したいからと、無理なことを神様の前で歎きながら、お聞き届けくださいと願っているのです」と、愚痴の数々まで記して、丈夫そうな封筒を選び、封じ目も厳重にして、何度も確認し、切手も正しく張り、それで漸く投函したけれど、受け取ったの一言の返辞もよこさず、今日は、明日はと待てども郵便は来ない。そんな誠意のないやり方があっていいものか。
「それは全部、あなた様と違う婿を取らせようとする父上がされたこと」
「ムム、これは又しても妄想が自分を裏切って迷わせる憎い声か」と、頭を上げれば、風流仏の悟りすました顔。外では、
「清水の三本柳の一羽の雀が鷹に取られたチチャポン、チチャポン、一寸百ついて渡いた、渡いた」の声以外、他に音もない。
「いよいよ影法師の仕業ということになったか。エエ、腹立たしい。自分は最早、スッキリと思いを断ち切り、煩悩、愛執の一切を棄てなければ」と、心では決めながら、なお一分の未練が残って、可愛いければこそ睨み付けるお辰の彫像。
この時、雲は晴れ、日は没して東窓の部屋の中はやや暗く、すべての物は薄墨色になって、暮れ残ったお辰の白い肌は浮き出るように活き活きし、その姿は朧月夜に真の人を見るようで、呼べば答えもするような様子。
自分が作った物であるが、あくまでも溺れきった珠運、ゾッと身の毛が総立ち、呼吸をするのも忘れていたが、決然として思い返せば、凝らした瞳がキラリと動く機会に顔色が忽ちにして変わり、
「エイ、こやつの顔の美しさに迷ったりするものか。針ほどにも心惹かれる所があるなら、命さえ呉れてやる珠運だが、何の操もないお前に未練を残すものか。その生白けた素首、見るのも穢らわしいわ!」と、身動きも荒く後ろ向きになれば、
「アア……」と、泣き声がして
「それ程までに疑われ、疎まれたこの身は、もう生きる甲斐はありませぬ。いっそのこと、あなた様の手でこの惜しくもない命、捨てとうございます」と言うのは正しく木像である。
「何と、これは怪しい。さては一念の恋を凝らして作り出したお辰の像に、我が魂が入り込んだか。仮に我身の妄執が憑り移ったにせよ、今は恩愛を切って捨て、恋に迷っていない初めに立ち帰っている珠運だ。惑わせる妖怪め、さあさあ、仏師としての腕の冴えで、恋も未練も段々に切り捨ててやる」と、突っ立って、高く振り上げた右手の鉈は鉄をも砕く勢いであったが、気高く仁しく情溢れるばかりに湛える姿は、みずみずしく、柔らかそうな裸身は、斬れば熱い血が迸りそうで、どう邪見に無慈悲に刃を酷く当てられようか。
恨みも憎さも、気高く仁しい情の前では、火の上の氷となって溶けてしまい、思わず珠運は鉈を取り落とし、恋も叶わず、思いも断ち切ることの出来ない辛さに流石の男も男泣き。
一声呑んで、身をもがき、そのままどうと伏せた途端、ガタリと何かが倒れる音がして、天から出たか、地から湧いたか、玉のような腕が暖かく珠運の頸筋に絡まって、雲のように嫋やかな鬢の毛が匂やかに頬を撫でるのを、ハッと驚いて急しく見れば、昔の姿そのままの……。
「お辰か?!」と、珠運も抱きしめて、額に唇。彫像が動いたのやら、女が来たのやら。
問うのも愚か、語るも埒開かず。有と無が同時に現れる摩訶不思議。
つづく。
次回、最終です。




