番外編 2番目の愛
7月。夏の暑さを感じるある日の昼時である。
キエザ大学の食堂で、レナートはひとり食事を取っていた。
「レナート」
澄んだ声にレナートは振り返った。誰よりも愛しい女性の姿が目に入り、相好を崩す。フェデリカはこのまま研究室に行くのか、手には買ったと思しきサンドイッチを持っていた。
「あぁ、フェデリカ。今日も可愛いな。愛している」
フェデリカはレナートからの告白を気にも留めず、紙を一枚寄越した。何も書かれていない、真っ白な紙だ。しかしレナートは紙よりもフェデリカの指先の方が気になった。昨日まではなかった切り傷が見えたためだ。
「指を怪我しているようだが、大丈夫か?」
「少し切っただけ」
フェデリカはそれ以上は言わず踵を返す。レナートは手に残された紙を見下ろし、ふむ、と考え込む。意味もなく白紙を渡すとは思えないので、何かしらの暗号だろうか。急いで定食を食べ、食堂を後にした。
太陽光にあててみるが、紙に凹凸はなく、2枚重ねられているという様子もない。とすれば、炙るか水に浸すかの二択か。手始めに自室の蝋燭で炙ってみるが反応はない。外の庭園を流れる川に浸すと、文字が浮き出てきた。
118-2-25,26、51-30-2,3、89-15-14-17、31-14-8,9、289-1-7,8、45-20-19-22、325-8-10-12、29-15-4,5、67-26-3-5、156-32-6-7、13-2-29,30。
本の頁と行、文字数を示したものであろうか。しかしどの本か記されていない。眉を寄せたところで、数日前に勧められた物理学書を思い出した。レナートは図書館に移動した。
「16 angelo da sinistra,le tredici」
左から16番目の天使、13時。
天使と言えば、聖堂に向かう途中にある、大学内で最も長く美しい回廊の壁画のことであろう。13時まであまり時間がない。レナートは走って回廊に向かった。
「1,2,3,4 ...これか」
16番目の天使は人の頭上を飛ぶ小さな天使だった。その体には、ぼんやりとした光が当たっている。時間と太陽の角度から光が当たるはずがないのに、と怪訝に思って光の出所を探すと、聖堂の鐘撞き場に眩い光を放つ鏡が見えた。
次はあそこか。
楽しくなり、レナートは逸る気持ちを押さえて聖堂に向かった。
常駐する司祭に事情を話して鐘撞き場に入れてもらう。含み笑いをしていたのは、フェデリカを先に通していたからか。
鐘の下に小さな箱が置いてあった。開けようとするが、何か仕掛けがあるのか開けられない。箱を矯めつ眇めつ眺めると、底面にreと書いてあった。
初めに思い浮かんだのはre、続いてreである。しかしそれだけでは意味が通らない。世俗を隔絶したこの地には、王の肖像画など飾られていない。
考え込み、不意に思い浮かんだのは竪琴を奏でるフェデリカの姿であった。もしかすると、音階のことであろうか。わざわざ聖堂に来させた理由も説明がつく。レナートは箱を持ったまま聖堂に戻り、司祭に鐘に明確な音階があるのか問うた。しかし司祭は、微妙な揺らぎがあるので確かな音階は不明だという。そこでレナートは聖堂に設置されているオルガンの使用許可を得て、蓋を開く。オルガンはパイプの種類で音色が異なり、ストップを引くことでパイプの有効範囲が決まる。ストップを出したり引っ込めたりしながら、手鍵盤と足鍵盤のreを片っ端から弾いていく。足鍵盤の最後の高音のreを踏んだところで箱が開いた。レナートはストップを戻すことも忘れて、譜面台に置いていた箱を手に取った。
箱の中には小さなカードとハンカチが入っていた。カードには誕生日おめでとう、と記されている。
「あぁ......そうか、今日だったか」
今日はレナートの本来の誕生日だった。別人の戸籍を用意した時、別の誕生日を設定したので、祝われることはもうないと思っていた。
回りくどいやり方だが、同時に手間がかかることもよく分かる。フェデリカがわざわざこんなことをしてくれたと思うと嬉しさが込み上げてきて、レナートの口角が上がった。喜びのままハンカチを手に取って、レナートは硬直する。
それは何の変哲もない白いハンカチだった。隅には青い糸でRと刺繍されている。所々歪んだそれは、職人の手によるものではなく、素人のものであることを示していた。レナートの脳裏に、先程見たばかりのフェデリカの指先の傷が通り過ぎていく。
レナートはたっぷり数秒その文字を見つめ、勢いよく立ち上がった。オルガンの蓋を閉めることもせず、聖堂から駆け出す。司祭が何か言っていた気がするが、耳に届かなかった。
レナートは大学中を走り回った。物理学研究室、図書館、中庭、フェデリカがいそうなところ見て回り、知り合いにフェデリカを見ていないかと尋ねて回った。
「あ、ラフォレーゼさんだ!」
ラヴィニアとカルミネに遭遇した時には、もう16時近かった。2時間ほど走り回っている計算になる。広大な敷地が、こういう時ばかりは疎ましい。
「プロヴェンツァーレ、ラ・ヴァッレ。フェデリカがどこにいるか知らないか」
「分からない」「知ってるよー!」
「どこだ!?」
ラヴィニアはきゅっと目を細めた。
「あのねあのねラフォレーゼさん」
「なんだ」
「今日ね、ディー、あたしが起きたときまで刺繍してたよ」
「......そうだろうな」
知っている。フェデリカは不器用だ。楽器は得意だが、料理や刺繍は苦手。おかげで結婚中も、一度ももらえなかった。
好意の証だと言われている、手ずからの刺繍が入った贈り物を。
「ディー、温室にいるよ」
「ありがとう」
走り去るレナートの背に向けて、ラヴィニアは呟いた。
「ディーを不幸にしたら許さないって言おうと思ったけど......全然心配ないよね」
「当たり前だろう。己のすべてを捨ててまで、アンヌンツィアータを求めた御仁だ」
カルミネは肩を竦める。
「私から言わせれば、アンヌンツィアータはとうの昔に陥落していたと思うぞ。認めなかっただけでな」
***
「――フェデリカ!」
温室の奥に小さなテーブルと椅子が用意されている。テーブルの上にはティーセットが置いてあり、フェデリカは椅子に座って紅茶を啜っていた。座って、と言われて向かいの椅子に腰かける。
「......贈り物を受け取った。ありがとう」
「それはよかった」
「そういう意味で受け取って構わないか?」
紫の瞳が彷徨い、少しの間を置いてレナートの瞳と出会う。言いにくそうに唇をもごもごさせるのを、レナートは黙って眺めていた。
「遺憾だけど——物理の次に好きよ、レナート」
「物理の次は余計だ」
笑いながらレナートは立ち上がる。むっとしたように唇を引き結ぶフェデリカを抱き上げた。
「ちょっと、下ろしなさい!」
「俺ともう一度結婚してくれ、フェデリカ」
「......法に反する結婚の次は、貴賤結婚というわけね」
「嫌か?」
「馬鹿を言わないで」
フェデリカはとてもとても嫌そうに言った。
「私に愛を教えたのはあなたよ。責任は取ってちょうだい」
レナートは笑ってフェデリカの唇を奪った。




