最終話 愛は契約範囲外
お姉様へ
お元気ですか? こちらは特に変わりありません。新王陛下は少し暴走気味ですけれど、ブルーノが頑張って押さえています。そう、早いもので私とブルーノが結婚して4年になるんですよ! クレトは歩き始めてから目を離せなくて——夫と息子の惚気が二枚に亘るため中略——って、本題に入りますね。先日、女の子が生まれました。エヴァンジェリーナと名付けました。ブルーノに似てとっても可愛いんです。ミドルネームなのですが、お姉様のお名前を頂いてもいいですか? お姉様のように賢い女の子になってほしいので!
体調にはお気をつけて。お返事お待ちしています!
ジュリアマリアより
妹からの手紙に目を通し、フェデリカは小さく笑った。公爵夫人として随分頑張っているらしく、社交界にも慣れてきたようだが、惚気の多さはいつになっても変わらない。
好きにしてちょうだい、と返信を認めたところで、扉の外から声がした。
「ディー! 開けてー!」
「はいはい」
いつも通り、本を山のように抱えたラヴィニアが雪崩れ込んできた。成人を迎えたというのに、ラヴィニアの幼さは変わらない。これが研究者というものかもしれない。
「助かったぁ! ありがとう、ディー!」
「いつまで経っても変わらないわね......私がいないとき、どうしていたの?」
「部屋に入れなかった!」
「とんでもない阿呆ね」
「ディーまでヴァッレと同じこと言うー!」
阿保じゃないのに、と唇を尖らせるラヴィニアを見て、フェデリカは笑った。
婚姻を無効にして2年。
フェデリカは学士として愛しいキエザに戻ってきていた。
***
フェデリカが図書館で資料を探していると、背後から声を掛けられた。
「ここにいたのか、アンヌンツィアータ。光の分散の計算式について修正を加えておいたぞ」
ほれ、と資料を差し出して来るのはカルミネである。海の王国に留学したり論文を書いたりと、最近数学者として名前が挙げられ始めている。
「ありがとう、ラ・ヴァッレ」
「そういえば、聞いたか。エスピノサ殿が今度王都に来るとか」
「ええ。ぺネロぺも来るそうよ。会いに行こうと思ってる」
ぺネロぺは婚約して1年が経った頃、海の王国に嫁いだ。夫であるベルトランとは仲良くやっているらしい。嫁に行って初めての手紙はあなた、ベルトランさまの妹なんですってね。つまりあたくしが義姉ということじゃないの。であったのには驚かされたが。
大学生活はあるひとつを除いて満ち足りているから、少し休んでもいいかという気持ちになっている。海を隔てた国に嫁いだペネロペとは、滅多に会える機会もない。
「私もいい加減王都に戻ってこいと急かされているんだよな......結婚しろと父上が煩くて」
「では結婚の手伝いとして、ラヴィニアの休日でも教えてあげましょうか」
「なっ、いいい要らんわそんな情報!」
フェデリカはくすくすと笑った。驚くべきことに、カルミネはラヴィニアに恋をしたらしかった。ラヴィニアはてんで気づいていないし、その気もなさそうだけれど。以来、フェデリカは事あるごとにカルミネをからかって楽しんでいる。
「人の恋路は面白いわね」
「その台詞、そっくりそのままお前に返すぞ」
フェデリカは思いっきり顔を顰めた。
「やめてちょうだい。あなたたちの初々しい恋と同じ単語で括られるなんてまっぴらごめんよ」
「まあ確かに、あれは恋というよりは執着だな。ご愁傷様」
「哀れむなら助けてちょうだい」
「いや無理だろう。どうやって止めろと言うんだ。わざわざ死んだふりまでしてお前を追いかけてきた奇人を」
「違うわあれは物理学を学ぶためにキエザに来たただの商人よ」
「どこからどう見ても陛下むぐ」
フェデリカは手でカルミネの口を塞いだ。睨みつけると、カルミネの顔が青ざめていく。
「それ以上言ったら、ラヴィニアにこの口縫い合わせてもらうわよ」
「――やぁ。何をしているの?」
「ひっ」
穏やかな声に、フェデリカの背筋が凍った。
「いえあのこれはですねそう私の口元に虫がついていたということでアンヌンツィアータが取ってくれただけでありつまり」
「へえ、そうなんだ。それじゃあもう用はないよね?」
「はい失礼します」
「ちょっ、ラ・ヴァッレ!」
カルミネの姿がどんどん小さくなっていく。逃げたな! とフェデリカは心の中で悪態をついた。
「――フェデリカ」
「アンヌンツィアータと呼んでちょうだい、ラフォレーゼ」
「つれないことを言うな」
レナート・ラフォレーゼ。
彼こそが、フェデリカの大学生活を乱す唯一である。
半年前、大学に入学した見目麗しい男。貴族出身階級が驚いたのは、その顔である。
どう見ても死んだはずの国王だった。
第32代国王レナート・オスカル・ディ・ラヴィトラーノが死去したのは1年前のことである。毒による暗殺であったが、今も犯人は分かっていない。
フェデリカはその報を聞いた時、少しだけ泣いた。
だというのに、半年後、物理学の研究室を叩いた男は、かつて夫だった男と同じ顔、声でフェデリカに言い寄ってきたのである。まだ1年目なので神学、法学を学んでいるが、事あるごとにフェデリカの傍に出現しては口説いて去って行く。国王との酷似と合わせて大学の変人たちも驚いたが、小癪なことに多額の寄付金を納めているため、何も言われなくなった。
「離れなさい」
「断る」
本棚とレナートに挟まれ、フェデリカは逃げ場がない。
「近い」
「近づいているからな」
「邪魔」
「そうか」
レナートは楽しそうだが、フェデリカは全く楽しくない。
「退いて」
「今後レナートと呼ぶと約束してくれたら退く」
「退いてレナート」
「一度だけか?」
「黙ってレナート」
レナートは嬉しそうな笑みを浮かべてフェデリカを解放した。フェデリカは恨みがましい瞳でレナートを見上げる。
「どうして諦めてくれないの」
「好きなものを探せといったのは君だ」
「私は人だけど」
「好きな人、だな。愛している、フェデリカ」
フェデリカは顔を背けた。想いを告げてから、レナートは所かまわず愛の言葉を囁くようになった。最初は聞き流していたそれらはあまりにも日常になっていた。婚姻を無効にして暫くは、愛の言葉がないことに戸惑ったくらいに。
「勝手に愛してればいいわ。私は物理を愛しているから」
「知っている。君が振り向いてくるまで口説くだけだ」
フェデリカはさっさと図書館を出た。顔が熱いのは――きっと気のせいだ。
1年後に白旗を上げるとは知らない、穏やかな午後の一幕であった。
***
フェデリカ・ヴェルディアナ・ディ・デアンジェリス(王国歴387-439)は光の回折、光速の測定、光の分散の原理の解明など、光学の分野に数々の功績を残している。
彼女の生涯は波乱万丈の四文字に尽きる。子爵家に生まれ、キエザ大学に入学した後に辺境伯家の養子となり、更には王妃にまでなったのである。しかも国王との婚姻は3年後に無効とされている。以後彼女は研究にその生を捧げ、史上最も偉大な物理学者のひとりに数えられるに至った。
物理学者として名高い彼女は、婚姻無効後にひとりの男性と結婚した。彼も物理学者であったそうだが、名も肖像画も残っていない。
デアンジェリス女史と同時期に大学に在籍していた数学者ラ・ヴァッレ卿の手記によると、彼はデアンジェリス女史を昼夜問わず口説いていたという。
一説によると、彼は死んだはずのデアンジェリス女史の元夫、レナート一世であり、妻恋しさのあまり死亡したと見せかけて彼女を追って大学に入ったという。これは流石に飛躍が過ぎようが、デアンジェリス女史が物理の次に愛していると述べた夫については、永久に解かれぬ謎であるようだ。
――物理学史第五巻第八章より抜粋。




