第三十五話 限界
「寝ている間に随分と色々あったな......」
レナートはベッド脇に置かれた資料を手に取って溜息を吐く。毒を盛られてから5日ほどで回復していたのだが、経過観察のためと更に2日ベッドの住人となっていた。この7日間、必要なものは書類越しに指示を仰がれたが、大半はフェデリカが処理してくれたようだ。使節団の見送り以外、レナートがやることはないかもしれない。
時計は夜中の3時を指している。長い間ベッドの上から動けないでいたから、体内時計が狂ったらしい。レナートはフェデリカの様子を見ようと個人の寝室に向かった。しかしそこにフェデリカの姿はなく、首を傾げながら執務室に向かった。
執務室にはまだ蝋燭がともされていた。ペンを走らせる音が響いている。まさかまだ政務をしているのだろうか。フェデリカ、と声をかけるが反応はない。近づいても気づいたそぶりがなかった。
「――フェデリカ」
顔を覗き込み、肩をゆすぶってやっとフェデリカの瞳が焦点を結んだ。目の下には隈が濃い。苦労をかけたのだと思うと胸が痛んだ。
「レナー、ト」
「もう3時だ。早く寝なさい」
「......レナートは、もう起きて大丈夫なのですか」
「ああ。大事ない」
そうですか、と視線を合わせずにフェデリカは呟いた。その手はまだペンを握っている。
「その恰好では冷えますから、先に戻っていてください。私もすぐに寝ます」
「ペンを持ったまま言われても、信憑性がないな」
「徹夜には大学の時から慣れているのでお気になさらず」
「睡眠をとらないと頭が通常以下の働きをしないと言ったのは誰だったかな」
国王が倒れた後、レナートにそう言ったのは他でもなくフェデリカだ。フェデリカもそれを覚えているのだろう、唇を噛みしめる。
「......できる限り、早く寝ます」
「その仕事はすぐにやらなければいけないわけではないだろう。一緒に寝室に行こう」
フェデリカが見ていたのは、とある伯爵領の代官からの上奏文だ。急ぎではない。
「いえ、まだ体調が万全ではないでしょうから、私は副寝室で寝ます」
「もう大丈夫だ。昨日の夕方、明日からは政務をとってもいいと医師に言われた」
「病み上がりの体を蹴飛ばす危険性があるので嫌です」
「私は気にしない」
「あなたが気にせずとも私は気にします。早く主寝室に戻ってください」
「君が寝るまで私も寝ない」
「どうしてそう頑ななのですか」
「その台詞、そっくりそのまま君に返す」
フェデリカは唇を引き結び、視線を落とした。
「......分かりました。でも今日は副寝室で寝ます」
「わかった」
書類を整理して立ち上がった途端、体勢を崩した。机越しに支えるが、肉を捨ててきたのではないかと思うほど軽かった。
「すみません......手を離してください」
「フェデリカ。ご飯は食べているのか?」
「使節団の方とご一緒するときは、食べています。あの、手を離していただけませんか」
「それ以外は」
フェデリカが視線を逸らし、レナートは頬を引きつらせた。食べていないということだ。
「......大学では寝食を忘れて研究していたので、問題ありません。それより手を」
「見るからに体調が悪そうなのに何を言う」
「一週間前のあなたほどではありません」
「当たり前だ——フェデリカ。どうした」
「何がですか」
「どうしてそうも思いつめている」
フェデリカは息を呑んだ。怯えたような紫の瞳がこちらを見て、すぐに逸らされる。
「思いつめてなど、いません」
「わかりやすい嘘だな」
「――っ、分かりやすくて結構です。放っておいてください」
「そう言われて放っておく馬鹿がいるか」
「お願いですから、何も言わないで。あなたには関係ありません」
「私は君の夫だ」
「あと2年半もしたら他人です」
レナートは目を見開いた。フェデリカの言葉が鋭い刃のように胸に刺さった。だというのに、フェデリカ自身も傷ついたような表情をしていた。
「―—分かっている。無理に言う必要は確かにない」
レナートは机に脚をかけた。執務机の書類を幾らか地面に落としながら、反対側に着地する。隔てるものがなくなり、怖気づいたようにフェデリカは後ずさった。靴が壁にあたり乾いた音を立てる。
「――君のせいではない」
「は」
「私に毒を盛ったのも、子爵を殺害したのも、デル・ヴェッキオ令嬢を疵物にしようとしたのも、君ではない」
紫の瞳が歪んだ。首を横に振る度、緩く束ねた黒髪が揺れた。
「皇国が私を狙っていると聞いていました。なのに私は、周りの人に危害が及ぶかもしれないとは考えなかった。私の過ちです」
「子爵の件は残念だったが、デル・ヴェッキオ令嬢の件は防ぐことが出来た。私も死なずに済んだ。君が応急処置をしてくれたおかげだと聞く」
フェデリカは首を横に振り続ける。違います、と細い声が漏れた。
「私は、何もできませんでした」
「使節団との交渉も貴族たちへの牽制も、すべてやってくれたと聞いた」
「......何かしていないと、気が狂いそうなんです」
「フェデリカ」
「また、私のせいで人が死んだら? 死なずとも、疵物にされたり怪我をさせられたり。誰かが傷つけられるのではないかと思うと、恐ろしくて眠れない」
「君のせいではない」
「私が手を下したのではありません。けれど私の存在が周囲に害を及ぼすのです」
「害を及ぼしているのは君を狙う者であって、君ではない」
「ええそうです、私ではありません!」
フェデリカの声は悲鳴のような響きがあった。
「でも、だったらどうすればいいのですか!? 私が死ねばよかったと? それとも、大学にいたままであればよかったのですか? そもそもカヴァリエリ令嬢に復讐しようなどと考えたのが過ちだったのですか? どうすれば、どうすれば私はまた穏やかに研究する日々を送れるのですか?」
「フェデリカ」
レナートはフェデリカを抱きしめた。涙がレナートの服に染みを作った。
「君の周りも含めて、私が必ず守ると誓う。失われた命は戻らないが......これ以上、君の周囲で人を死なせないと約束する」
「死にかけた人の言葉に説得力はありません」
「......手厳しいな」
レナートの服を握るフェデリカの手は震えていた。
「すべての責任を負わせてしまって済まない。本来なら、私も共に事に当たるべきだった」
フェデリカが政務をこなすようになってまだ8か月だ。そもそも大学にいて社交にも慣れなかっただろうに、レナート不在の最中にも王宮を回してくれた。どれほどの重圧だっただろう。自分と親しい人が襲われるかもしれないという不安を抱いたまま政務をこなすのは、どれほど苦しかっただろう。
「済まない。不安にさせて、ひとりにさせて、済まない」
フェデリカの瞳に涙が浮かんだ。肩が震え、嗚咽が漏れる。レナートはフェデリカを強く抱きしめた。
「子爵が、死んで、しまった」
「......ああ」
「ペネロペも、危なかった」
「君はそれを防いだ」
「あなたが、死んでしまうかと思った」
「こうして生きている」
「こわかった」
「ああ」
「くるしかった」
「ああ……傍にいてやれなくて、済まなかった」
「研究したい」
「......あぁ」
「大学に戻りたい」
フェデリカはレナートの胸の中で泣きじゃくり、泣き疲れて眠ってしまった。




