第二十話 小さな悲劇
『わぁ......可愛い!』
留学に行った兄から、早めの誕生日プレゼントが届いた。小ぶりな貝殻を使ったネックレスは不思議な光沢を帯びていて、アイシャは一目見て気に入った。
『よかったですね、アイシャ様』
『うん! お兄様にお礼のお手紙を書かなくっちゃ』
アイシャはこのネックレスをいつも身につけた。眠るときは枕元に置き、側にいない兄の身代わりであるかのように大切にしていた。
年の暮れのことである。アイシャはいつものように図書館に足を運んだ。前王朝を滅ぼした時に貴重な書物が多く失われてしまったが、それでも十分な数の書物が残っている。アイシャはいつものように窓際の席に腰かけて書物を読んでいた。
『――あーら、こんなところにネズミがいるなんて。書物を食べに来たのかしら?』
アイシャはびくりと肩を震わせた。恐る恐る振り返ると、年上の姪であるバドリーヤ皇孫女が歪な笑みを浮かべて立っていた。アイシャは慌てて跪き、唇を噛みしめた。
——ついてないわ。バドリーヤ様にお会いするなんて。
バドリーヤは2年前、アイシャの異母兄である皇太子がアイシャを襲おうとした場面に居合わせ、以降アイシャを父を誑かした女として毛嫌いしているのだ。恥をかかされた、という理由で皇太子にも憎まれている。同母兄であるアーキルまで巻き込んでしまったのが申し訳なかった。
『ば、バドリーヤ皇孫女さまにお目にかかります』
『お前、どうしてこんなところにいるの? まさか、書物を盗もうとしていたんじゃないでしょうね? ああ、信じられない! こんな卑しい娘が皇宮にいるなんて』
『わ、わたしはただ書物を読んでいただけで』
『煩いわね、誰もお前なんかに聞いてないわよ!』
『きゃっ!』
蹴り飛ばされて、アイシャは背中を強かに打ち付けた。バドリーヤはそれを見てせせら笑う。
『地面に転がっている方がお似合いよ。下民——あら?』
アイシャが起き上がった瞬間、強い力でネックレスごと引っ張られた。間近で睨みつけられ、アイシャは震えあがった。
『お前、これは何?』
『そっ、それは......アーキルお兄様がわたしの誕生日に下さったもので』
『そんなことを聞いているんじゃないわよ! これは貝殻でしょう?』
『は、はい』
『あたくしに寄越しなさいな』
『え』
アイシャはぽかんと目を見開いた。これまでバドリーヤがアイシャから物を奪ったことはなかった。アイシャが持つ物は平民のもののようで、奪う価値もなかったからではあるが。
『光栄に思いなさい。このあたくしが欲しいと言っているのよ』
『あの、でもこれは......お兄様がわざわざ南の王国で買ってくれたもので』
『何よお前、このあたくしに逆らう気!? お父様に言いつけてやるわ!』
『あ、あ、お許しください!』
アイシャは涙目で這いつくばり、許しを請うた。自分を襲おうとした30も年上の異母兄の存在は恐怖の権化だった。あれ以来、兄以外の男性とは話すことさえも儘ならない。
『分かればいいのよ、早くあたくしにおよこし』
『あ、あの......これは、そんなに高価ではないと聞きました。皇孫女さまなら、もっといいものを手に入れられると思います』
普段のアイシャならば素直に渡していただろう。しかし留学中の兄からもらったプレゼントを手放しがたく、思わず逆らってしまった。
途端にバドリーヤは眉を吊り上げる。
『はあ!? このあたくしに喧嘩を売っているの?』
『ちが、わたしはただ、』
『もういいわ! 兵! この生意気な小娘のネックレスを奪っておしまい!』
『いや、やめて、いやーーーっ!』
男に触れられているという恐怖で、アイシャは暴れた。手足を振り回した精一杯の抵抗は、寧ろ衛兵たちの怒りを招いた。
『こいつ......生意気な!』
たまたま肘打ちを食らったのは、身分ある兵士だった。頭に血が上った男は、勢いのままにアイシャの首を絞めつけた。猛烈な抵抗が次第に弱くなり、ぱたりと止まった。
『お、お前......』
周囲は愕然としてアイシャを絞め殺した兵士を見つめた。そこで初めて、兵士は組み敷いた皇女が息をしていないことに気づいた。兵士たちは波が引くようにアイシャから一歩離れる。
『ようやく奪えたの? さっさとあたくしに渡しなさい』
『で、殿下......あいつが、あいつが皇女さまを殺しました!』
バドリーヤは目を見開いた。視界に入れば気に食わないし、虐めてやったけれど、死んでほしいとまで思ったことはなかった。なぜなら彼女は薄々理解していた。10になったばかりの子供が40過ぎの男――しかも異母兄を誘惑するはずがないと。
——己の父がそのような屑であると認めたくなかっただけで。
『ちが、違うんです! 皇女さまが抵抗するから仕方なく......そもそも皇孫女さまがネックレスを奪えと命令するから!』
狼狽えた兵士が立ち上がり、アイシャの体を跨ごうとして転んだ。周囲の兵士がそれを避け、アイシャの亡骸がバドリーヤの視界に入る。赤黒く変色した顔が。
バドリーヤは悲鳴を上げた。何事かと図書館にいた者たちが集まり、皇女が死んだという報が広まっていく。
アイシャを殺した兵士は速やかに牢に入れられた。しかしながら兵士の祖父が建国の功臣であったため、その罪はもみ消されることとなった。それどころか兵士の父は、さもアイシャが悪いかのように話が仕立て、アイシャをこそ罪に問うべきであると皇帝に訴えたのである。
皇帝は話をろくに聞いていなかったため、では死後処刑せよ、と命じた。
アイシャは遺体をばらばらにされ、埋葬されることもなく捨てられた。アイシャを擁護した付き人たちは舌を抜かれ、過酷な労働に従事させられることになった。
アーキルがこれを知るのは2か月後のこと。皇孫女バドリーヤからの手紙によるものであった。




