36 瑞穗の5月3日(火)②
シャキシャキと歩くこと、それがわたしのウォーキング。実際には素人の競歩もどきで、ただの早歩きの延長。それでもしっかりトレーニングウェアを着て専用のシューズを履いている。そういう形からの心構えも大切なのだ。
歩いているときは極端でものすごく余計なことを考えているか、あるいは全くのゼロ思考かのどちらかだ。まだ果圓と付き合っていた二十歳の頃、気になり始めたのは名前だった。結婚の話題がのぼるにはまだお互いに若かったけど、結婚すればわたしの名字が変わる。井村から水島になる。水島瑞穂、ミズシマミズホ。漢字ならまだしも、こうしてカタカナで書くとくどさが目立ってしまうのが微妙だった。
当時、友達のなかにはイムラミズホの頭と尻を取ってイムホと略して呼ぶ人もいた。この方式に当てはめるとミズシマミズホではミズホになり、つまり名前を呼び捨てにされているだけになる。果圓はそんなわたしの些細な悩みなんて全く気付いていなかっただろう。散歩中の犬に軽く吠えられながら、わたしはその横を通り越した。
二十歳で付き合うまでは果圓が腹を抱えて笑う場面などを見たことがなかった。冗談を言ったりすることもあったけど、クラスの他の男子とは雰囲気が違うところが確かにあった。規格外の商品にならない果物をもらって、それを使ったお菓子を作って返す。そんなやり取りが十代の頃のわたしたちの友達としての付き合い方だった。果樹園に赴けば彼の両親やお姉さんとだって顔を合わせることになるし、いつになったら交際に発展するのだろうかとやきもきさせていたに違いない。
高校を卒業すると進学先の違いによって物理的に離れることが分かっていたのに、お互いに距離を詰めることができなかった。その日が来ても何もなく、わたしの中では果圓とはこの距離感でずっとぼんやりと続いていくものになってしまった。彼氏と彼女の壁がこんなにも高いものだなんて、と。
結婚してから真顔で面白いことを聞いてきたことがある。いつ頃から自分に恋愛感情を抱いていたのか。冷静に考えるとなかなか偉そうな質問だ。晩ご飯の最中、わたしはスプーンですくったマカロニグラタンを口に運んでいるタイミングで、空中で手が止まってしまった。せっかく熱々のマカロニグラタンが冷めてしまうのが嫌だったので、「告白されてから」と素っ気なく答えた。果圓としては別の答えを期待していたのか残念そうな顔をした。そんな顔したって喜ばせる言葉なんて言ってやるものか。告白してきた時期も悪かったし、マカロニグラタンを食べているときにする質問じゃないだろ。
真剣に歩き続ける。こちらからあちらへの移動のために歩くのではなく、ただ歩くために歩く。集中して歩くこと、それがわたしのウォーキングの心得だ。イヤホンを耳に突っ込んで大音量でビヨンセを聞いているわけではない。そもそもイヤホンなど持ってきていない。鼓膜までの道筋はすっきりと空いているけど、普通の音量で名前を呼ばれたくらいでは振り向けない。安定した呼吸を意識する。
「ちょっと、瑞穗センセイ!」
「はい?」
わたしのことをセンセイと呼ぶのはお菓子教室に通ってくれている生徒さんだ。
「アミちゃん」
「正真正銘のアミちゃんです。センセイ、一生懸命に歩くのはいいですけど、車とか気をつけてくださいよ。声かけても全く無視。いったい何を考えていたんです?」
「歩いているときは無心で、と格好よく言いたいところだけど、さっきまでは、そう、マカロニグラタン」
「惜しい」
「惜しい、とは?」
「マカロニじゃなくて、マカロンです。今年中に挑戦してみたいです」
「マカロンですか」
「はい。でも、マカロニグラタンもいいですね」
「そうでしょう」
アミちゃんと別れて、わたしは再び歩き出す。建物や木々のすき間から強い西日が顔に当たるようになってきた。小樽まで行っている果圓と果穂のことだから、どこかに寄ってから帰ってくるだろう。たぶん夕飯のおかずの件で連絡をしてくる。時計を見て逆算をすると、そろそろ着信が来てもいい頃合いだ。
歩調を緩めた。果穂と同じくらいの小学生の男の子と女の子とすれ違った。手をつないで歩いていた。こっちの顔が思わず赤くなる。そして、電話が鳴った。
「出るのはやいね。今何してる?」
「ウォーキング中よ」
「それはちょうど良い、お腹空かしといて。コロッケとメンチカツを買って帰るから」
「まだ、お店?」
「いるよ」
「春巻きもお願い」
信号を渡ると見せかけて、くるっと回れ右して来た道を引き返す。もう西日に晒されることもない。ジャージのポケットに五十円玉が一枚入っている。スモモが見つけてくれた五十円玉だ。わたしはポケットに手を突っ込んで五十円玉を握りしめる。人によっては五十円の価値しかない。しかし、わたしにとっては五十円以上無限大の価値がある。
隠し持っている果圓の『眠りのノート』は捨てないでおこう。スモモの五十円玉に誓った。生活するのには全く不要なノートだけど、わたしにとっては其処にあることが重要なのだ。果圓が失ってしまった記憶と記録をわたしが引き継ぐ。彼と同じようなことをするつもりはない。彼の記憶と記録の中にわたしの思い出も入っているだから。
「面白い名前が良いのか?」
「俺はそれでも構わないが。じゃ、イムラの好きなものとかあるだろ」
「イムラが呼びやすいものにすればいい」
「好きにしたらいい。とはいえ明日も会えるかどうかは分からないけどな」
いつしかウォーキングがジョギングに変わっていた。その懐かしい声は走る風に遮られていった。ほんのわずか聞こえてきたのかもしれない。でも、わたしは足を止めてまで確かめなかった。答える相手はここにはいないのだから。




