34 瑞穗の4月8日(金)
水島瑞穂 34歳
コーヒーカップを持ち上げるも、口を付けずにそのままテーブルの上に戻した。珍しく果圓がイライラしている。わたしは二人の会話に入り込もうとするけど、うまいタイミングが見つからない。助け船を探そうと青林さんに目線を配るが、このままで大丈夫だからとジェスチャーで返された。本当に平気なの?
この三人で昔から会うときは、この感じが毎度のことなのだろうか。端から見ていると険悪になりそうでならない際どい線上にいる果圓と矢野くんを、平然とした態度でわたしが作ったケーキを食べている青林さんが不思議でならない。笑顔の口パクで「おいしいよ」と伝えてくれた。もはや、ただの兄弟ケンカに発展するのか。成るようになれ。
イライラの元凶となっている矢野くんが、一方的に酷い人ではないことも初対面であるが分かる。彼が果圓のことを否定したり、非難している言葉を用いていないのは明らかだった。おそらく矢野くんはいつもの矢野くんなのだろう。では、やはりいつもと違っているのは果圓なのだろう。
「それは果圓さんっぽくないですよ。もっと、こう…」と矢野くんは話す。
「そうは言っても…」「本当のところは…」と重ねて要求する漫才みたい。でも、二人は芸人ではない。言われるたびに果圓の眉間にしわが寄る。
そもそも矢野くんの北海道への訪問は新しい脚本執筆のための取材旅行だ。物語の舞台となる場所を探しに来ていた。果圓からアドバイスをもらうのが目的で、別に険悪な雰囲気になるような会話ではない。おすすめの観光スポットや穴場の飲食店を紹介するようなものだ。普通は久しぶりの再会で和気あいあいとしているはずなのに。
「言いたいことは分かりますよ。でも、そんな僕でも知っている観光地の中でも、敢えてココはどうだい、と言ってくれるじゃないですか」
「ほら、水島くん、そんな顔しないで。いつもの感じで表を見せるときでも、裏の裏を狙って表にさせる、みたいな奴だよ。最初から表を狙うのではなくて」と青林さんがようやくフォローに入る。しかし、果圓は険しい表情で返答に困っている。
「瑞穗さんはどこかおすすめの場所ありますか?」と青林さんがわたしに話題を振ってきた。
申し訳ないけど、矢野くんのこれまでの作品を一つも見ていなかったし、さっき説明してくれた次回作のあらすじも半分以上はピンと来ていなかった。
〔幼馴染みの二人が住む場所を翻弄されていく。高校を卒業して地元に残る彼と、都市部の大学へ進学していく彼女。社会人になってお互いに不本意な理由で彼は地元を離れ、彼女は地元に戻ってくる。途中で状況がひっくり返る。距離的にはすれ違っても、気持ちは通じるものが合った二人はやがて結婚し、今度は仕事の都合で二人とも初めての土地で住むことになる。子供も生まれ地元には戻れそうにないけど落ち着いた生活を送っていたが、急に海外への移住を迫られる。住みたいところに住めないのは不幸せなことか。住む場所は幸せな人生の絶対的な条件なのか。〕
「タイトルはまだ決まっていないですが、これが大雑把なストーリーです。で、二人の地元を北海道にして最終的にはその雄大な自然に帰れるのか、あるいは帰れないのか、みたいなエンディングを考えているところです」と矢野くんは話してくれた。
およそ三週間、レンタカーを借りて道内を巡って脚本の構想を練っているそうで、その途中に別で北海道旅行に来ている青林夫妻とつかの間だけ合流してウチにやって来た。今晩はそれぞれに小樽のホテルを予約している。
「これから小樽に行くのなら、灯台なんてどうかな?」とわたしは言った。
「日和山灯台かぁ」と果圓がすぐに反応した。よほど外に出て気分転換でもしたいのか、その声は弾んでいた。
「水族館にも行くの?」と言ったのは果穂である。リビングで滋子さん(青林さんの奥さん)をソファに座らせて似顔絵を描いていた。
「小樽のホテルに行く途中に寄れるのなら良いかもね」と滋子さんが言う。
「どうする?矢野くん」と青林さんが決断を促す。
「灯台に水族館ですか、これまでスルーしていました。面白そうです」
「それぞれ離れてはいないけど二つ行くなら早めに出発した方がよさそうだわ。水族館って案外ゆっくりと見て回るとすぐに時間が経ってしまうから」とわたしは言った。
果穂は自分のデジタルカメラを持ってきて、座らせたままの滋子さんの写真を撮った。「絵が出来上がったら送るからね」と言った。果圓は青林さんと矢野くんを連れて、早足で果樹園の見学に向かった。わたしは滋子さんと食器の後片付けをした。
「さて、これで少しは時間稼ぎができそうだね」と青林さんは穏やかな声で言ってくれた。
前方を走る我が家の車には果圓と果穂と滋子さんが乗っている。わたしは青林さんとともに矢野くんが借りているレンタカーに乗っている。
「さっき妻から瑞穗さんが水島くんのいないところで少し話がしたいそうだと聞いて、うまくごまかせて乗り合わせられたね」
「口裏を合わせてもらってありがとうございます、矢野くんも」と後部座席から運転中の彼に声をかけた。もはや果圓の変化を尋ねるのが日課のようになっている。事故からおよそ三ヶ月が経って彼は定期的に検診には行っているけど、もう事故前の日常に戻っていると言っても過言ではなかった。仕事量にしたって以前と変わらない。会話の齟齬がたまにあるのさえ気にしなければ何の問題もなかった。
今の環境に慣れてきた、慣れようとしている。しかし、事故前の果圓をよく知る人物と会うと、貴重な情報収集のチャンスだと思ってしまう。ただ、果圓の知り合いとなると話しを聞く状況をつくるのはなかなか難しい。果圓には怪しまれてしまったけど、滋子さんのおかげでなんとか場を設けられたのだった。青林さんはみんなでいるときには紳士的な方であったけど、意見を聞いてみるとはっきりと教えてくれた。
「三ヶ月ぶりに水島くんと会って、些細なことだけど『おや』と感じる瞬間は何度かありました。まず、話していていつもよりも返しが早かった。以前はワンクッション頭の中で考えてから返答している印象があった。時間的なことではなく目線や仕草で、今いろいろと考えているなと分かったもんです。今日は彼と話していてそのワンクッションを感じることがあまりなく、すぐにボールが戻ってくる気がしました」
「それはつまりどういうことでしょう」
「昔よりも考えるスピードが速まっただけかもしれない。自分の中で結論を出すのがうまくなったのかもしれない。しかし、その内容は彼には悪いけど、普通になった、凡庸になってしまった」
「その変化を青林さんはどう評価されますか?」
「評価と言うと偉そうに聞こえるけど、私は昔の水島くんの方が好きですね」とあまりにも自然体で言ったものだから、びっくりした表情のまま固まってしまった。
「果樹園の見学をしているときに、最近どんな映画を見たかという話になってね」と話を続けて、運転中の矢野くんも、そうでしたね、と合いの手を出した。
「私が見たのは水島くんも昔から好きな監督の最新作だからきっと見ているだろうと思いましてね。で、見に行ったと答えてくれたから感想を聞いてみると、それがあまりにも普通の答えだった」
「普通でしたね。悪いわけじゃないけど、物足りない返事でした」と矢野くんが言った。
「私も水島くんの言葉を聞きながら、あれっ何だか昔の彼の映画評とはちょっと違うなと思ったのです。あくまでも印象ですが、ボキャブラリーが少なく単調な感じです。思い浮かんだ言葉をそのまま口にしているような」
「以前は違ったのですね」とわたしは言った。
「私の知る彼はいつでも言葉を頭の中で探しながら発している人です。それは難解な単語をこれ見よがしに使うというわけではありません。大げさに言えば己の発する言葉に愛情と責任を持っていたと思います。今にして考えるとですが」
「言葉に愛情と責任、ですか」とわたしは繰り返してしばらく考え込んでいた。
助手席にいる青林さんと目を合わせることはできないが、わたしがそっと頷いたタイミングで、「なにか思い当たる節がありますか?」と聞いてきた。
「先日、新しいセット商品の宣伝文を考えてもらったのです。以前はその返答が一週間くらいかかっていました。けど今回は二日後に複数案を持ってきたのです。ただ出来映えはとても無難なものばかりで、どこかで見かけたことのある文章という印象です。わたしは笑いながら機嫌を損ねないように、もう少し良い感じにひねってみてよ、と再考をお願いしました。特別に嫌な顔はしなかったです。でも今の青林さんの話を聞いていて、熟慮の質が下がったみたいな。まあ、こっちからお願いしてるのでストレートに不満は言えませんが」
「前はもっと凝っている内容だったのですね」
「一つや二つは奇をてらいすぎていてそのままでは使えないけど、今回も果圓節が効いているなあと感心するものがありました」
「そうそう、果圓節」と、赤信号で停車している矢野くんがバックミラー越しにわたしを見ながら言った。
「矢野くんはどうだった?」と青林さんが主導権を譲った。
「事故による一時的な記憶障害があると前もって教えてくれたので、正直、そこまで強い変化は感じなかったです。脚本家のくせに」
「脚本家にも色んなタイプがいるから」と青林さんがフォローを入れる。
「ただ唯一びっくりしたのは、新作のタイトル題字に果圓さんの書を使いたいと言ったら、すんなりとオーケーしてくれたことです。これまで散々お願いしてきて、なしのつぶてで断わられ続けてきたものだから、ダメ元で聞いてみただけなんです。いったい、どういう心境の変化なんでしょう」
少し失礼な言い方にはなってしまうけれど、という前置きをして青林さんが話した。
「私は彼が大学生の頃から知っているから、どうしても父親目線的な見方になってしまいます。だから、瑞穗さんが悩んでいるような妻の目線では本質的には見られないでしょう。友人関係であれば、まあ、嫌になれば関係を断つことはできます。しかし、家族はそう簡単ではありません。しかし、現実では数年ぶりに会う息子が随分と変わっていることも珍しくはありません。その変わりようがどうであれ、他人に迷惑をかけないように暮らしているならば、私だったら大抵のことは飲み込んでしまうかもしれません。死ぬ間際になって遺言として、思っていたことを書き残すかもしれませんが」と言って優しく笑ってくれた。
小樽のホテルの前で青林夫妻と矢野くんと別れた。帰りの車中では果圓から、わたしが青林さんや矢野くんとどんな話をしていたのか尋ねられた。気になるのも無理はないけど、それは内緒よとはぐらかした。
「パパの愚痴をたくさん聞いてもらったのよ、きっと」と果穂が大人ぶって言った。
「そんなに言いたいことがあるのかい?」
わたしは果穂と後部座席で目を合わせて、そりゃねぇ、と笑い合った。
深夜、どれくらい寝ていたか分からないけど何かの気配を感じて急に目が覚めた。金縛り、体がこわばって動かせない。目も開けられないから周囲の状況もわからない。
「元国?いるの?」とわたしは頭の中で声を上げた。
「ねぇ、聞こえているなら返事して!」とさっきよりも大きな声を頭の中で響かせた。じっと待ってみたけど、何の返事もない。現実の耳を澄ませてみても静かなままだ。
「うぅぅん」と果穂の声がした。わたしたちは果穂を真ん中に川の字で寝ている。隣には確かに果穂がいるのだ。布団の擦れる音がする。寝返りをうっている。
指先に力を入れ続けていたら少し動いた。グッパーグッパーを試みる。もっと動いた。そして、目が開いて体の自由が戻った。わたしは半身を起き上がらせて右を見た。果穂がいて、果圓がいた。二人とも普通に熟睡していた。枕元の目覚まし時計は午前三時前だった。普通の金縛りか、紛らわしい。普通の金縛りなんて初めてだったけど。
窓の外から猫の鳴き声がした。果樹園に数年前から棲み着いている黒猫がいる。『魔女の宅急便』からジジと名付けようとわたしが言ったが、メスだとわかったのでもう少し可愛らしい名前にしようと三人で考えた。結果、採用されたのは果圓の案だった。猫の名前はスモモになった。
「黒猫からいろいろと考えてみて、パッと思いついたのは竹久夢二の『黒船屋』だった。モデルとなった女の子の名前も調べたけどちょっと曰く付きで。次は黒船からペリー来航のことを考えてみて、ペリーってフルネームはマシュー・ペリーって言うのだけど、マシューも良いかもといったん候補にした。でも、やっぱり男性の名前だし。それで身近なところから色の濃いプルーンでサンプルーンが思い浮かんだ。サン?これじゃ、『もののけ姫』だ。プルーンは日本語ではスモモだよな、スモモの方がかわいいな、ということでスモモに一票」
果圓とはこういう男だ。黒猫のジジは映画のラストでは普通の猫になってしまう。でも、それはジジのせいなのか、魔女のキキのせいなのかは分からない。元国が現れなくなったのは果圓のせいなのか、わたしのせいなのかわからない。スモモがその理由を知っていたらなと思いながら目をつむった。明日、見かけたら聞いてみよう。




