22 ラムスデン現象 ~ 瑞穗 4日目
井村瑞穗 20歳(3月23日)②
外はすでに明るく、時刻は午前六時半前だった。まだ眠っている果圓の顔を見ながら、チラチラと元国の顔を、んっ、顔は同じか。
「まったく」と小声で口にしていたけど、自分でもどういうつもりで「まったく」と言ったのか、全く分からなかった。二度寝の誘惑にかられたものの、再び寝落ちするにはもったいないくらいの良い目覚めでもあった。
溜息をついて、ここに来てから朝食をまだ作っていなかったことに気付いた。今日の予定は急いで出かけるものではなかった。なかったけれど、別の行き先にしようかと二つの名前を持つ男の顔を見ながら考えていた。
その前にしっかりとした朝ご飯だ。そっと布団から這い出た。
冷蔵庫の中からブロッコリーを取り出す。調味料を含めて、食材の所在はきちんと把握していた。冷える日の朝ご飯には温かいスープは必須だ。七時十四分という、はっきりしない時刻に果圓の目覚まし時計が鳴った。
「おはよう。今朝は早起きだね」と布団から上半身を起こしたままの果圓が言った。彼の名前が決まったなんてことは、もちろん言わなかった。
「おはよう。今日は寝覚めが良くってね。ねぇ、今日の予定を変更したいの」
「うん……うん?顔洗ってくる」
朝ご飯を食べながら今日の新しい計画を伝えると、「本当にいいの?あまり、瑞穗には面白くないと思うけど」と、果圓は不安そうな面持ちで答えた。
「浮世絵の次は、民藝が見に行きたいとかの方がよかった?」と悪い顔で瑞穂は言って話しを続ける。
「ずっと、わたしの行きたいところに付き合ってくれたから。果圓が普段こっちでどんなところに行っているのかも少し知りたいなと思って。別に面白いとか面白くないとかは気にしないで。いつも通りが見てみたいの」
「あまりにもはっきりと面白くない顔をされたら……」
「大丈夫。つまらなかったとしても最後まで付き合う。夏休みの自由研究の観察日記みたいなものよ。あれだって、途中経過は単調で退屈なものじゃない」
「せっかくの東京旅行なのに、そんなのでいいのだろうか」
「いいのよ。予測できないからこその旅行じゃない」
「はあ」
ドッキリの仕掛け人のような気分で、腑に落ちない顔を隠しきれない彼の様子を見ていた。きっかけは元国だとは黙っておこう。同じ肉体であっても果圓と元国は異なる。純粋に二人のことをもっと知りたい。
秘密にしておくのは後ろめたい?隠し事にして背徳感がある?そう自問しても今は自分に蓋をしていられた。
果圓がスマートフォンと手帳を開いて予定を立てている間に、瑞穗は食器洗いから洗濯、掃除などの家事を滞りなく進めていった。行きつけの店とか思い浮かべているのだろう。そんな中でも何とかサプライズ的な多少の驚きや、感動の入り込む余地を探しているのかもしれない。別に無理しなくてもいいのに、記念日じゃないんだから。あまりにも真剣な顔をして考えているので少し意地悪な感じで、「連れて行ったらまずい所でもあるの?」と聞いてしまった。
「そんな、案内して困るような所はありません」と妙に丁寧な口調で否定された。
「本当に?歓楽街とか、繁華街とか、ネオン街とか」とはしゃいでみたけど、スルーされた。
「普段の買い物とかなら横浜方面、休日のプチ旅行イメージなら鎌倉だけど。一日で二つ回るのはバタバタするなあ」
「横浜に鎌倉か。いいね、どっちも」とにこやかに興味ある感を出した。しかし、実際のところはどちらでもよかった。否定的な意味ではなく、どっちにも行ってみたいし、まったく別のところでもいい。今日は果圓にお任せすると決めたのだから。お任せして何を思うか、何も感じないかは一日が終わってみないと分からない。何気なく座ってみた公園のベンチに背中を預けるように、今日は果圓に寄りかかってみたい。そうすることで、よく知っていると思っていた果圓に対して、改めてきちんと向き合える気がした。
「今時期は関東近郊の果樹園で果物狩りが出来るところはさすがにないか」とぼそっと彼が言った。
「果物狩り?」いったいどこに連れて行こうとしているのだ。
「やっぱりさ、北海道だけではなく色々と体験することで勉強になるからね」
「もしや、一人で行ったりしてる?」
「一人で行くこともあるよ、二回目とか。初めて行く所は大学の友達を誘ってみるけど、誰も見つからなければ一人でも行く」
「一人で果物の食べ放題って、おもしろい?」
「それは、そのワイワイ感はなくなるけれど、果物と正面から向き合うという真剣勝負。あとは果樹園の偵察もできる」
「ちょっと怪しいお客さんに見られているんじゃないの?」
「一度、あまりに熱心にノートへメモを取っていたら同業者の方ですか、と声をかけられたことがある」
「なんて答えたの?」
「別に隠す必要もないし、正直に答えたよ。何なら実家の宣伝もできたし」
「そうなのね」と、瑞穗は横浜か鎌倉が良いと切に願った。
連れられた書道具店の毛筆のコーナーでは、動物の毛の違いによる書き心地のレクチャーを受けた。墨のコーナーでは、硯の原産地の違いによる個々の特徴の講習を聞いた。
「この話、前にもしたことあったっけ?」と、不安になった果圓が何度となく振り向いて聞いてきた。
瑞穗は素直に、「確かに聞いたことある気がするけど、しっかり覚えていないから何度でも聞くよ」となんのフォローにもなっていない返答をした。果圓は半紙を買って行きつけの書道具店を出た。
元国の登場以来、意識的に果圓の後ろを歩いてみている。びっくりするくらいに見える景色が変わった、わけではなかった。
ランチは何系がいいか聞かれたので、果圓が三回以上は行ったことのある店が良いと答えた。そうだなあ、瑞穗は辛いものは苦手だし、あそこはちょっと遠いしなあ、と一人でぶつぶつ言いながら、どこに向かっているのか分からない場所を歩いていた。
すれ違った女子高生の服装と髪型と会話の一部がふわりと届いた。ほんの二年前までは自分も同じ位置にいたのに、ずいぶんと距離を感じてしまった。ここが横浜だからだろうと納得させていると、目の前にいるはずの果圓を見失っていた。あれっ、どこに行った?
立ち止まって首を伸ばして辺りを見渡すと、そばとうどんの暖簾が掛かっている店から果圓が顔を覗かせているのが見えた。目が合って、手招きされる。
「おそば?」
「そばとうどん以外にも色々あって。ここの親子丼が好きでよく来るのだけど。ここでいい?」
「いいよ、もちろん」
果圓が三回以上も通う理由がわかる親子丼の味だった。しかも、このお手頃価格で。横浜でこれだけ揃っているならば、わざわざ都内へ出る必要もなさそうだ。
「都内へ出かけるときは、行く場所がちゃんと決まっている。目的のところへ行って、目的が終わればウロウロせずに帰ってしまうことがほとんど」
「最近ではどこに行った?」
「たまに行くミニシアター系の映画館があって、そこに先週行った。来月には見に行きたい書道展がある」
いつも『眠りのノート』を持ち歩いているのか聞いたら、その日の気分次第という答えだった。今日はこれ、と鞄の中から手帳ほどの小さいノートを出してくれた。それには現れた一文字ごとのページが作ってあり、外出中にも思いついたことをメモしているそうだ。
瑞穗にとってのお菓子作りのように、果圓の書道も趣味のひとつでしかないと勝手に思っていた。しかし、その認識は甘かった。彼にとっての書道には、一般的ではない深い背景が潜んでいたのだ。瑞穗の知らない間に、深刻に悩んでいた時期もあったかもしれない。この前の話しぶりでは、吹っ切れている、という表現が適切か分からないけど、不思議な体験を楽しんでいるようにも思えた。しかし、本人にしか実感できないということは、決して軽くない人生を歩んできたにちがいない。何気なく発した質問に、じっくり考えながらゆっくりと答えてくれた。
「果圓はその能力のおかげで、漢字にも詳しくなったり、書道も上手になったりして良かったと思ってる?」
「これは能力ではないんだ」と言って少し黙った。次の言葉を探している様子なので、瑞穗は待った。
「これは能力ではなくて、単なる現象なのだと思っている」
「超常現象?」
「そうだね」
「心霊現象」
「そうとも言う」
「怪奇現象」
「もういいから」
「ラムスデン現象」
「ラム?」
「ふふっ、さすがに知らないか」
「ラム酒伝?」
彼が話すところの能力の定義とは、ある目的のために発揮される力を指す。能力と目的は切っても切れない関係だ。『眠りのノート』に文字が書かれる目的はずっと分かっていない。誰が何の目的で?というやつだ。果圓は単なる現象と他人事のように話しているけど、おそらくは長い年月を経て自分なりに考え抜いた上での現在地なのだ。努力や練習で向上できるものが能力というならば、確かに果圓のそれは能力ではなかった。一般常識を超えているものを、気軽に能力という言葉で括ってしまうのは如何なものか、と彼は言っているのだ。
「書道には能力が必要だし、いろんな種類の能力がある。一種の技術と捉えれば、練習することで成長が可能だ。漢字や言葉の知識にも能力はある。能力や技術に限界はあるのか。目的や目標を設定するのは自分自身。それをゴールとするのか、通過点とするのかも自分自身。『眠りのノート』の現象には目的もゴールもない。少なくても自分では決められない」
「未知の道だね」
「うまいことを言う」
好きな人のことを理解するとは単純化させることであり、複雑化させることでもある。一日、果圓の日常に付き合ってみて、意外な一面が見れてびっくりしたなんて瞬間は実際にはなかった。ふーん、へぇ、とバカみたいに大笑いもしないで淡々と時間が過ぎた。その割に距離はいっそう縮まった気がした。




