23、胡 ~ 果圓33歳、1/17
ホテルに戻って、部屋に入ったのを見計らったように、スマートフォンが着信した。帰り際に連絡先を交換できた、大原美津の名前が表示されていた。何か言い忘れたことでもあるのだろうか。時刻も二十二時を回っていたし、急用でもない限りは普通は電話はしないはずだ。
「もしもし、大原美津です。さっきまで会っていたのに、電話してごめんなさい。明日は早いと言っていましたので、迷ったのですが今日中に伝えておきたいことがあって」
「時間のことは気にしなくていいですよ。どうしたのですか?」
「今、少し話せますか?」
「大丈夫ですよ」と、果圓は部屋の暖房を入れてベッドサイドに腰掛けた。
「これから話すことは、真心愛さんには内緒にしてください」
「分かりました」と一呼吸の間をおいてから返答した。
電話は声と息づかいと言葉で成立している。じっと受話器に耳をあてて、途中からかなり集中して話しを聞いた。大原美津がどんな表情やどんな格好でどんな場所にいるかなんて考えなかった。その内容は映像的ではなく、文学的だった。しかし、人によってはSF的で映像化したい話だと思うかもしれない。果圓だからこそ素直に受け入れられた。素直な気持ちになったのは、彼女を同業者だと思いたかったからかもしれない。
要点は二つだ。一つ目は大原美津の抱えている現象は、活字が3D映画のように飛び出して見えるというものだった。二つ目は『眠りのノート』を読んでいたときにある一文字が飛び出してきた。この事実を伝えるために彼女の秘密を教えてくれたのだ。
「それで僕のノートのどの文字が飛び出して見えたの?」
「東です。トウホウジョウスケでしょうか?誰かの名前かと思ったのですが、その最初の東です」
「トウホウジョウスケ……ははぁ」
「読み方、違いましたか」
「それは、ヒガシカタジョウスケと読むんです」
「歴史上の有名な武将とかですか」
「あぁ、ある意味では、戦国時代のどの武将よりも強いかもしれない」
「そうなんですか、日本史はあまり得意じゃないので」と、真面目に受け答えしてくれる彼女に対して、悪いと思いながらも笑ってしまった。
「何か変なこと言いましたか」と、やや語尾が尖った感じで返事してきた。
「ごめんなさい、実在の人物ではないんだ。漫画のキャラクターです」
「ずっと真剣に話しているのに、ふざけないで下さい。なんか明日の運勢に関係があると思って、電話したのに」
謝りながら、彼女が普段からどのように向き合っているのかを聞いた。ずっと何らかの目の病気ではないかと、子供の頃からいくつもの眼科医を訪ね歩いていると言った。しかし、未だに原因は分かっていない。彼女が心理学を学び始めたのも、自分の身に起きていることの解決につながるかもしれないと思ったからだった。
「肉体的に問題がなければ、脳の問題か、それか精神面、心の問題しか考えられないと思っています」
どんなに名医な眼科の先生でも、その目の症状を突き止められていない。そう考えると、おそらくは目の病気ではないと思うのは自然な流れだ。意味が分からないことは、誰だってあまり考えたくない。生活の傍らには置きつつ、仕事なり学業なり趣味なりに邁進する方がよほど健全であると、彼女も気付いたのだろう。だから、果圓がしていることを不思議に思えたのだ。
果圓は大原美津の悩みを聞きながら、自分が何かの病気であるなんてほとんど考えてこなかったと気付いた。人よりも霊感が強いのかな、と思っていたくらいだ。気軽に誰かに相談できる事柄ではなかった。今だって、遠慮なく話しができるのは限られた人だけだ。最初からすんなりと受け入れたわけではない。少しずつ、例えば視力の低下のように、変化していく身体の状態を自然なものと思うようにしたのだった。果圓にとって、その助けが書道であった。大原美津にとっての心理学や弓道が、彼女の心と身体を平穏にしてくれることを願った。
「それで浮かび上がった文字が、何を意味するかはどう捉えているの?」
「少し大きめの単語帳を持ち歩いて、書き写しています、一応。どんな状況だったとか。だけど、水島さんみたいに深く考察したりはしていないです、実際」
「でも、今回は教えてくれたんだ」
「さっきのタロット占いのことを聞いていたら、黙っておいたら良くないと思っただけです。今回はわたしのことではなく、水島さんに関わりがあるはずです。根拠はありませんが、あのノートに書かれてある漢字ですから」
果圓は彼女に感謝の言葉を述べて、「東か東か東か。その答えは今出るものではないね。これから、何らかの壁にぶつかったときに、切り札になるキーワードかもしれない」と言った。そして、次のように続けた。
「漢字のことも、大原さん自身のことも教えてくれて本当にありがとう」と言って電話を切った。
鞄の中からノートを取り出して、該当しているページを開いた。東方仗助と書いてある。しかしながら、東の文字は『眠りのノート』で現われた漢字ではなかった。東方仗助、この四つの漢字のうちで『眠りのノート』に出現したのは助の字だった。誰かを助けるのか、それとも誰かに助けられるのか、そんなことをずっと考えてきた漢字だった。大原美津が指し示してくれた東が何かの助けになるのか。飲み会の席で真心愛師がふいに話していた例え話を思い出した。空港に行く途中で急病人に遭遇するかもしれないという仮定の話。
東方仗助をインターネットで調べてみると、趣味がテレビゲームとプリンスの曲を聴くことと書いてあった。試しに「プリンス タイトル East」と検索してみるとプリンスがデビュー前に在籍したという「94 East」というバンドの情報が出てきた。危ない危ないと果圓は思った。今夜はこのくらいにしておこう。明日は朝の出発が早いのだから。
~ ~ ~ ~ ~ ~
音が消されたテレビが点いている。ヨーロッパの山岳鉄道がゆったりと走っている。京急蒲田駅まで徒歩十一分のビジネスホテル、午前三時八分。部屋のカーテンはしっかりと閉じられているから、外に明かりはほぼ漏れていない。廊下から誰かの足音が聞こえる。トイレを流す水の音も聞こえてくる。窓の外からは大型トラックの重たいエンジンの響きが路面を削りとるように走っている。その音は一月中旬の凍りかけた空気の層をつたって、この四階の部屋にも入り込んできていた。肘掛けのない簡素な黒い椅子に座り、『眠りのノート』を広げ、持ち慣れたボールペンを持つ三十四歳の男。彼が起きている姿は誰にも見られてはいない。見られないことを分かっているから、彼は起きている。ただ一人、この起きている男を認識している女性は、今は北海道にいる。
急峻な山に穿たれた長く暗いトンネルを抜けて、山岳鉄道は明るい昼の世界に戻ってきた。いつの間にか、男は立ち上がって画面を見ていた。ボールペンを器用にくるくる回しながら、まるでアイデアの浮かばない小説家に見えなくもない。冒頭の一行目すら書きあぐねているかのようだ。しかし、彼は作家ではないし、物語を書こうとしているわけでもない。忘れていたタスクを思いだしたのか、掛け布団の上にほっぽり出されていたリモコンを拾い上げる。この部屋に泊まってきた人間たちの記憶が、ボタンの一つ一つに残っている。変えられたチャンネルでは通販番組がやっていて、饒舌そうな男性MCが掃除機を持ってしきりに喋っている。作動音は静かなのに吸引力は抜群とテロップが表示された。テレビの音は相変わらず消されたままだから、とびっきりの笑顔の男性MCがどんな声をしているのかは分からない。男は覚悟を決めたらしく、いよいよ重たい腰を上げて椅子に座り直し、ボールペンをしっかり握り、開かれたノートのページに一つ目の漢字を記した。
飛




