ひねくれた天使
「もう先に話してしまうわね。ジュード、アリスが急に記憶喪失になってしまったの」
「記憶喪失!?」
「ええ。昨日の朝、全てのことを忘れてしまったの。医者によると記憶以外はなにも問題がないとのことで、実際昨日睡眠をとったあとにかなり記憶を取り戻して、私や主人のことも思い出したようなの」
「どうして」
「原因はわかってないのよ。そして、今朝はさらに記憶を取り戻したようで安心していたのだけれど・・」
「まさか、僕のことを忘れた・・と?」
「そうなの。どうしてあんなにも好きで好きでしょうがないあなたのことを忘れたなんて、今朝まで知らなかったのよ」
「アリス?」
「ご、ごめんなさい」ジュードの顔を見るのが怖くて目をそらしたまま謝る。
「あなたのことを明日思い出すかもしれないし、もしかしたらずっと思い出せないかもしれない。私達もどうしたらいいのかわからなくて」
「アリスと二人で話してもいいですか?」
それは困るとお母様の腕に縋りつく。
「ごめんなさいね。この通りアリスも不安なの。今日いきなり二人きりで話すのは無理かもしれないわ」
「アリス?」私に向ける視線と声に不安が混じっていて、申し訳なくて身が縮むけれど、昨日の今日でまだ混乱していて二人きりで話すのは避けたい。
「本当にごめんなさい」
「じゃあ、僕のことで何か思い出せることはある?」
「それが・・何も覚えてないんです」
「全く?」
「ごめんなさい」
「・・参ったな」途方にくれたように天井を見上げている。
それから少し会話をして、肩を落としてジュードは帰っていった。
「はあ」見送って自室に戻ると大きくため息をついてソファにぽすんと座ると、ルナが「お疲れですね」と労ってくれる。
「ねえルナ、私ってそんなにジュードのことをお慕いしてたの?」
「ええ、それはもう。ジュード様がいらっしゃる日は朝からソワソワして、何を着ようかと悩まれたり、お手紙を出された後は返事がくるのを待ちきれず執事のトマスのところへ何度も確認に行ったりなさってました」
「・・そんなに」
「はい」
「まだ13歳だし、婚約解消してジュードを自由にしてさしあげたいのだけれど、記憶が戻ったときの私が立ち直れなくなりそうで怖いわ」
「早まらないでくださいね」
「・・はい」
今日も疲れてしまい、早めに寝ることにした。
ぐっすり寝て、起きたときにはまたアリスとしての記憶が蘇っているのを感じる。今朝はテオとシャーロット兄妹のことを思い出した。テオはお兄様と同じ歳で、シャーロットは私と同い年。二人は金髪の兄妹で、まるで王子様とお姫様のような容姿。シャーロットとは幼い頃からの友達で、なんでも話せる仲。テオは色香漂うタイプで、とにかくモテる。テオの甘い香りに吸い寄せられるように女性が集まってくるのだ。小さい頃から兄のように慕っているけれど、うっかり近寄りすぎるとフェロモンに当てられてフラフラしそうになるぐらい。今日、その二人の領地から兄のアーサーが帰ってくる。帰宅するまでに思い出せて良かったと胸を撫で下ろす。
朝食の席でテオとシャーロットを思い出したと報告し、両親から「ジュードのことは思い出した?」と尋ねられ、昨日と変わりないと答えると明らかにがっかりされた。
昨日と同じように自分の持ち物から記憶を辿ろうと、今日はクローゼットの中のドレスやバッグや靴を見ていく。手前のほうに学校の制服っぽいワンピースとジャケットを見つける。
「ルナ、この服はもしかして制服?」振り返って尋ねると「はい、来月から通われるリンツ学園の制服です」学園に関する記憶がまだ戻ってないことに焦りを覚える。
「ねえ、もしかして・・ジュードも同じ学園に通うの?」
「はい、そう聞いております」
「そう・・」
いくつかドレスにまつわる記憶があることがわかったものの、ジュードの記憶につながるような発見はなかった。夕方近く、アーサーお兄様が帰宅した。長距離の移動で疲れているだろうに、着替えもせず私の部屋にやってきて「俺のこともわすれちゃったの!?」と私の肩をガクガクと揺するので頭も揺れた。
「お、お兄様!落ち着いてください」少しめまいを感じながら必死に抵抗する。
「俺のこと、わかるの?」
「はい。一度忘れたのは事実ですけど、ちゃんと思い出しました」
「じゃあ俺の名前は?」
「アーサーお兄様です」
「小さいとき二人で隠した宝の場所は?」
「え?・・えーっと、確か端から二番目の楓の木の根元です」
「本当に思い出したんだね!」
「はい」なんだかお兄様が可愛くて笑ってしまった。よしよしと私の頭を撫でて、また夕食時に話そうと約束して部屋を出ていった。
家族揃って夕食を済ませ、今の状況をお兄様に説明すると「アリスがジュードを忘れるなんて」と、やはり同じような反応が返ってきた。
入学までの間に、何度かジュードから会いたいと手紙をもらったけれど、思い出せないまま会うのがためらわれて断ってしまった。いよいよ明日は入学の日、入学式のようなものはこの世界にないらしく、貼り出されたクラス表に従って教室に行けば良いとお兄様に聞いた。
この数週間で、ジュード以外のことはほぼ思い出せた感覚がある。けれど「天使のように優しいアリス」にはなれていない。戻った記憶の中のアリスは、あおいよりも素直で可愛らしい女の子だ。可愛いねと褒められれば純粋に「嬉しい」と喜び、自分より刺繍が上手なシャーロットのことを純粋にすごいと尊敬している。
あおいなら「可愛いね」と言われたら「お世辞をありがとうございます」か「なにか頼みたいことあるの?」で、最悪に調子が悪ければ「私なんて可愛くないし」と褒め言葉を心で全否定だ。
自分より誰かのほうが上回る能力があるなら、すごいと思う反面「私だって!」と負けず嫌いを発動して拗ねたり、その誰かに勝てている部分を探して溜飲を下げているだろう。
天使のようではなくなったアリスである自分にため息をついて空を眺めてしまうことしばしば。明日はきっとジュードに会うだろう。避け続けてきたけれど、ちゃんと向き合おう、そう思いながら眠りに落ちた。
□ □ □
入学の朝、早くに目が覚めた。今日から5年間通うことになる。同時に乙女ゲームなら攻略対象と、ヒロイン、悪役令嬢などがいるはずだ。ジュードのことは気が重いけれど、学園生活は楽しみにしている。両親に見送られ、兄と共に馬車で向かう。制服は凝りに凝っている。男女ともジャケットなのだが、男子は白いジャケットと紺色のジャケット、式典向けの黒い長めのジャケットがあり、ズボンはチェック、紺色、黒があり、ネクタイも三種類、ベストやセーターもある。今朝のお兄様は、白いジャケットに薄いグレーのシャツにネクタイを締め、紺色のスラックスで、金色の髪と蜂蜜色の瞳が朝日にきらめいている。
女子も同じようにジャケット三種類で、ひとつはロングジャケットの代わりに短めの丈になっている。清楚なロングワンピースは白と紺色と、後ろ部分だけがチェックのフリルでドレスっぽいつくりのものもある。カーディガンやセーターもあり、どれも可愛くて着るのが楽しみだ。
今日はお兄様に合わせて白いジャケットに紺色のワンピースを合わせて着た。
15分ほど馬車を走らせて到着し、お兄様に案内してもらう。白亜の建物の入口にクラス表が貼り出され、1組に自分の名前を見つけた。ジュードと同じクラスだった。
教室まで連れてきてくれたお兄様と別れ、教室に入る。まだ3人ほどしかいない教室の窓際に立つジュードに目が吸い寄せられた。
射抜くように私を見つめるジュード、動けなくなる私。
ジュードが私に近寄ってくる。怒っているような瞳から目が反らせない。
「アリス」少し掠れた声で私の名前を呼び、手を握って窓際まで連れて行かれる。最後に会ったときより背が伸びたのか、向き合って立つと私の目線はジュードの顎辺りになる。
抑えた声で「まだ記憶は戻らない?」と訊かれ、私は小さく頷いた。ジュードの目を見上げると、少し瞳が揺らいだ気がしたけれど、今も怒っている雰囲気のままだ。
どうしたらいいのかわからずにいると「アリス!ジュード!」と嬉しそうに弾む声が聞こえた。振り向くとウイリアムが私達のほうへやってくる。
「みんな同じクラスだね」ニコニコと喜んでいるウイリアムを見ると、なんだかホッとした。「さっきシャーロットも見かけたから、もうすぐ来ると思うよ」そう言われてドアのところを見ると、シャーロットも私達を見つけてやってきた。
美しい顔に心配を纏って「聞いたわ、記憶喪失なんですって?」声を潜めて尋ねてくる。それを聞いたウイリアムが「えっ!?」と大きな声を出したので、周りの目が気になった私は「後で説明するね」とウイリアムに言ってから、「かなり戻ったの」とシャーロットに答える。
「そう、それなら良かったわ」と言うシャーロットに
「良くない」と低くて掠れたジュードの声が重なった。ビクッと体が震えてしまい、恐る恐るジュードを見上げると「良くない」と私に向かってもう一度言った。
先生が来て席につくように言われ適当に座ると、隣にジュードが座る。私の頭の中でさっきのジュードの声が何度も再生されて、先生の説明が頭にちっとも入ってこなかった。先生の話が終わると、校舎を見学して回るとのことで4、5人ずつのグループ行動となり、私は面識のない男女のグループに入れられた。校舎はロの字になっていて、中庭には大きな木が数本生えていて、自習したり食事ができるテーブルや、ベンチなどがあり、陽当りも木陰になってる場所もあって居心地が良さそうだ。
全ての場所を回るのに、2時間近くかかり、教室に戻ったら下校時刻になっていた。
ウイリアムとシャーロットに説明したいけれど、まずはジュードと話そうと思う。「ジュード、話をしたいと思うんだけど、いつがいい?」そう尋ねると「今日、うちに来てほしい」と言われ了承した。
お兄様と一度家に戻り、食事と着替えを済ませてジュードの家に向かう。30分ほどで到着し、案内されたのはジュードの部屋。ジュードの家にも部屋にも見覚えがなく、いつもジュードの部屋で会っていたのかもわからない。
お茶の用意が終わると、部屋で二人きりになった。
重い雰囲気に耐えかね、口火を切る。
「あの・・。私」正直に告げるつもりで、言い淀んで唇を噛み締めた。
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