第十二話
「……マドカ」
誰? 誰かが呼んでいる。
「『マドカ』。それがお前の名前だ。わかるか?」
私の名前? 私って誰だろう。でも「マドカ」という響きは何となく懐かしい感じがする。あれ? でも懐かしいって何が?
「マドカ、お前は以前、話してくれた。マドカの名前の由来を。『マドカ』という名前には『丸い』という意味があるんだと。だから昔は『丸い』という意味に対して複雑だった。でも、今は気に入っていると、マドカは教えてくれた」
丸い。それって何が丸いんだっけ。何か思いだせそうな気がするけれど、わからない。
この人の事かな? でも丸いっていうのとは違う気がする。ぼんやりと目の前にいる人を見ていると、なぜか嬉しそうに微笑まれた。なんでだろう?
「マドカ、マドカの名前を考えたのは、マドカの大切な母親だ。そしてそのことを教えてくれたのは、お前の祖母だ」
「は、はおや……」
「あぁ、マドカの大事な人だ」
「ははおや」と声に出してみると、何か思いだせそうな気がする。ははおや。それは私にとって大事な人だった気がする。そぼ、という言葉も、どこか懐かしい響きだ。「私」にとってそれだけ印象深い人だったのだろうか?
ずきんっと心の奥が痛む。なぜだろう。思い出せないことが悲しい。悔しい。その「ははおや」と「そぼ」は思い出さなければならない気がするのに。
思い出そうとすると、思い浮かぶのはなぜか「月」だ。月が一体何に関係あるというのだろうか。
月は、空にある。夜に浮かぶ。月は形を変える。いろいろと月の印象を思い浮かべてみる。だがどれも当てはまらない。
かぐや姫、うさぎ。月見団子。これはなんだっけ。日本での月の印象だ。私の想像するものとは違う。では一体何だろう。
あぁ、でも、よくイメージする月の形は――「丸い」。高く浮かぶ満月の月だ。
なぜか小さい頃の自分が思い出される。満月を眺めている最中、私は眠ってしまい、横にはおばあちゃんが座っていた。そして、仕事から帰ってきたお母さんに頭を撫でられるのだ。私はそれに気づいていたけれど、起きてしまうとお母さんが撫でるのをやめてしまいそうで、わざと寝たふりをしていたんだ。今なら、起きてもお母さんは撫でてくれたと分かる。
あれ? でもなんでこんなこと、私は忘れていたんだろう。
なぜ夜空に高く浮かぶ満月を、忘れていたのだろう。
だって、私の名前は――。
「……マドカの本当の名前は、『タカツキマドカ』。『高くて丸い月』。夜空に浮かぶ満月」
――そうだ。私の名前は……。
「高月、まどか」
「! マドカ! 思い出したのか?」
目の前の青年――ユークが、私の腕に手をかざしていた青年――アイドさんの方を見た。アイドさんはなぜか嬉しそうに「魔道具がきちんと動いています!」と叫ぶ。
正直、どういう状況かよくわからなかった。ぼんやりしている頭のせいか、理解できない。
するとなぜかユークが、「すまない」と謝ってきた。
「話している暇がない。今からマドカは元の世界に帰る。だからお別れだ」
「どういうこと? ユーク」
話が呑み込めず尋ねると、ユークはなぜか嬉しそうに「私の事もきちんとわかるんだな」と微笑んだ。だがすぐにその表情は真剣なものへと変わる。
「言葉の通りだ。マドカの魂は今から元の体へと戻る。今のままだと、マドカは完全に思い出したわけではないからだ。大丈夫、心配しなくていい。あとは私たちに任せろ」
「任せろって……!」
そんなことできるはずがない。私が戻っても、まだ魔物の問題や国の問題は解決していない。
そう訴えたいが、なぜか体が浮いていないのに、ふわりと浮く感覚に襲われる。どうして帰ることができるのかとか、どうして今このタイミングで帰るのかとか、まだまだたくさん聞かなければならないことはたくさんあるのに。
最後に私がこの世界で見たものは、もう昇り始めていた太陽だった。
それはまるで、私という存在がこの世界からいなくなることを意味しているようで、ずきりと胸が痛んだ。
私の名前は高月まどか。高校三年生らしい。
「らしい」っていうのは、私の本当の名前は違うから。本当は「鈴瀬美奈子」っていうの。年齢は一六歳。本当はこんないきなり受験生になんてなるはずなかった。
それもこれも、元をたどれば全部あのわけわかんないゲームが悪い。
よく知りもしないおばさんからあのよくわからない恋愛ゲームを押し付けられ、ちょっと興味本位で起動させてみたら、よく知らない国にいきなり聖女として召喚。いきなり「ここは異世界です」とか言われて何の冗談かと思ったわ。
しかも「国を襲う穢れの元である瘴気をはらえ」とか、そんなもの、得体のしれない小娘相手によく頼めたわね。
でも引き受けないと元の世界に帰れないと言われたから、渋々了承したわ。私一人だけじゃなかったしね。
私の護衛にとつけられた人たちは四人だった。皆、それぞれかっこよく、私に優しくしてくれたけれど、私は元の世界に帰りたいという気持ちが強かった。
だから申し訳ないけど、彼らとはできるだけ仲良くしないようにした。だって仲良くしたら、元の世界に帰りたくなくなっちゃうかもしれないでしょ? だから意図的に名前も呼ばなかった。最終的には彼らの名前も忘れちゃったけれど。それでもなぜか騎士の人と魔術師の人は優しかったかな。まあ、魔術師の人は「聖女」を崇拝している感じだったから、私を見てはいなかったんだけれど。そこはお互い様かもね。
でも、旅を続けていたある日、森の魔女と知り合った。
最初見たときびっくりしたわ。あの最初にゲームを押し付けたおばさんと同じ顔をしていたんだもの。よく見ると違って優しそうではあったけれど。
彼女に話を聞くと、あのおばさんは彼女の祖母らしい。祖母って年には見えなかったけれどね。魔女みたいだから見た目も多少若く見えるのかも。
森の魔女曰く、あのおばさんがくれたゲームはこの世界に渡るための魔道具らしい。あと、聖女にしか使えないんだって。あのゲームの内容自体は、あのおばさんが見たパラレルワールドのこの世界なんだとか。そのことはどうでもいいか。
つまり、私はあのゲームを起動させなければ、召喚されることはなかったみたい。あのゲームを起動させている間は、こちらの世界にある魔道具で向こうの世界を見ることができるんだって。ようは、私が起動させたときに魔道具を通して私を見たこの国の王が召喚したんだってさ。ひどい話よね。
単純にあのゲームを使ってこちらの世界に来ることもできるけれど、私がこちらの世界に行きたいとは思っていなかったので、あのゲームは魔道具としての機能は果たさなかったみたい。だからこんなことが二度と起きないように、帰ったら絶対に捨ててやるとそのとき誓った。
そしてもう一つ、森の魔女に話を聞いた。こちらから元の世界に帰れる方法はあるのかと。
意外なことに、国が使う送還魔法以外にも方法はあった。それはあのゲームみたいな魔道具が存在するという話。
ただ、それを作ったのは祖母――つまりあのおばさんで、今は祖母が持っているので使えないとの話だった。
がっかりしたのと同時に、森の魔女は面白い話をしてくれた。
「魂を入れ替える魔道具ならありますよ。それは異界の魂であっても可能です。あなたは聖女ですから特別に教えてあげます」
それを聞いて私は思ってしまった。
「少しでも元の世界に帰りたい」と。
そこからの展開はすぐだった。
まず、なぜか私を崇拝している魔術師に、この考えを知られてしまった。普段と様子が違う私が気になっていたみたいで、問い詰められたからだ。
けれど、魔術師は怒りもせず、協力すると言った。もちろん、「一月だけ」という条件付きではあるが。
そして森の魔女の家からその魔道具を盗んだ。魔道具の特徴は事前に知っていたし、魔術師もなぜか知っていたしね。
念のため、魔術師が森の魔女の記憶を書き換えた。私たちが家に入ったことを覚えているままだと、すぐに犯人だとばれるからだ。もちろん、こんなひどい真似を誰にでもしているわけではない。今回は大事なことだったからだ。
だが、森を出る際、うっかり魔道具に魔力を込めてしまった。森の魔女との話を思い出し、「相手との共通点」を慌てて何かないかと考える。そして浮かんだのが「私と同じ国に住む、聖女の素質がある人間」という条件だった。
魔術師が一瞬「それは難しいだろう」という顔をしたが、そこで私の意識は途切れた。
そして意識を取り戻すと、この体に入っていたのだ。
「まどか、じゃあね」
「うん、また明日」
友人たちと別れ、家路を急ぐ。
この「まどか」と呼ばれることにも慣れた。今では私の一部だ。
……慣れた? 何を言っているのだろう、自分は。昔から、それこそ生まれたときから「まどか」だったのに。今更慣れるなんてことを思うなんて。
そうだ。私は「高月まどか」。受験生だ。そんなくだらないことを考えている場合ではない。おばさんたちのためにも、私はちゃんと大学に合格しなければならない。それがたとえ、自身の希望していることじゃなくても。
『ミナコ』
どこかで呼ばれている気がする。でも私は「ミナコ」なんて名前じゃない。じゃあなんで自分が呼ばれていると思ったんだろう。
『なぜ……なぜ、ミナコが来ない? なぜミナコの気配がない?』
誰か知らない人が嘆いている。でもその人物がどこにいるかわからない。嘆いている本人がどこにいるのかもわからない。助けたいけれど、私にはどうすることもできなかった。
私は急いで家に向かう。まだ勉強しなくちゃいけないことがたくさんある。今日は図書館が休館日だから、外では勉強できないのだ。ならば家でしか勉強する場所はない。
少しでも夕飯前に模試のミスを確認しなくちゃ。私はどこか先ほどの声が引っ掛かりながらも、家まで走った。




