第九話 神聖な音
物心ついた頃から、ピアノの音が一番好きだった。
両親は二人とも音楽家で、家の中にはいつも音があった。
でも、私の耳が追いかけてしまうのは、ピアノの音だった。
鍵盤をひとつ押すだけで、澄んだ音が生まれる。
強く叩けば怒ったように、そっと触れれば囁くように。
同じ鍵盤なのに、触れ方ひとつでまるで別人になる。
不思議で、やみつきになる音。面白くて——たまらなかった。
幼い私は、居間のグランドピアノの椅子によじ登るのが日課だった。
重い蓋を開ける瞬間さえ、秘密の扉を開くみたいで好きだった。
ある日、気まぐれに弾いた旋律に、春の光景を重ねた。
お花見の、あの浮き立つような空気。
「ヴェルテ、何を弾いているんだい?」
気づけば父が後ろに立っていた。
「……お花見の音かな」
父は一瞬目を丸くして、それから笑った。
「そうか。楽しそうだ」
頭を優しくなでながらそう言って、父は隣に座る。
低い音が加わる。私の高い音と重なって、響きがふくらむ。
——音って、重ねるとこんなに変わるんだ。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
誰かと鳴らす音は、ひとりの時と違う。
その日から、私の遊びは少し変わった。
音を並べ、重ね、順番を入れ替える。
それが、作曲のはじまりだった。
* * *
中等部に上がる春、私は一人の先生に師事することになった。
初めてその音を聴いたとき——息が止まった。
透明で、迷いがなくて、音そのものに意志があるみたいだった。
ただ綺麗なのではない。
そこに“何か”が宿っているかのように神聖な音だった。
「この課題曲を弾いてみましょう」
レッスン初日、私は震える指で鍵盤に触れた。
弾き終えると、先生はしばらく黙っていた。
「音が、とても綺麗ね」
その一言だけで、帰り道の空気が軽くなった。
レッスンは厳しかった。
指の形、粒立ち、フレーズの呼吸。
少しでも曖昧になると、すぐに止まる。
「もう一度」
何百回と聞いたその言葉。
けれど不思議と嫌ではなかった。
やり直すたびに、音が変わる。
昨日より、少しだけ遠くへ届く気がした。
ある日、私は尋ねた。
「どうして、あんな綺麗な音が出せるんですか」
先生は少し考えてから答えた。
「弾くときに、何かを頭の中で思い浮かべているの」
「何を……?」
「その時々で違うわ」
微笑むその横顔が、やけに綺麗に見えた。
「あなたも、何かを思い浮かべてみて。音に、感情が乗るから」
それから私は、弾く前に目を閉じるようになった。
雨の匂い。朝の光。誰かの笑顔。
すると音が、ほんの少しだけ、先生の音に近づいた気がした。
作曲した音楽をフリー素材として提供する「ヴェルデ」としての活動を始めたのもこの頃からだった。
* * *
「ヴェルテ君、大事なお話があります」
パルフェ学園に入学したばかりの春。
レッスンの終わりに、先生は言った。
「来月のコンクールが終わったら……私、海外に拠点を移すことにしたの」
言葉が、すぐには理解できなかった。
「結婚することになって」
穏やかな声だった。
祝福しなければいけない。
頭では分かっているのに、喉が動かない。
「コンクール直前に、ごめんなさい」
「……いいえ」
やっと出た声は、驚くほど小さかった。
「ヴェルテのピアノは、もっと良くなる。私がいなくなっても、続けてね」
その瞬間——
胸の奥で、ひびが入る音がした。
先生がいなくなる。
その事実に触れたとき、初めて気づいた。
私がピアニストを目指してきた理由。
あの音に、近づきたかった。
あの人に、もっと「良くなったね」と言ってほしかった。
その気持ちが何だったのか、ただの憧れだったのか。
まだ分からない。
ただ、息が苦しかった。
* * *
そして今。放課後、第三音楽室。
コンクールで使われるものと同じピアノで、私はひとり課題曲を練習していた。
弾き終え、鍵盤をそっと撫でる。
——変わらないね、君の音だけは。
ポケットが震えた。
『オリジナル曲を提供していただけませんか?』
差出人は、リディ。
あの日、バンドに誘ってくれた彼。
先生の期待を裏切れないと思って、断った。
胸が痛む。
先生が去ることと、リディのバンドの誘いを断ってしまったことが重なり合っていた。
画面を見つめる。
夕陽が沈み、音楽室が薄暗くなる。
——本当は、少しだけやってみたかった。
『お引き受けします。曲が出来上がるまでしばらくお待ちください』
返信ボタンを押す。
静かな部屋に、電子音が小さく響く。
鍵盤に触れる。
澄んだ音が広がる。
春一番みたいな、あの子たち。
ならば、少しだけ軽やかに。
密かに私の好きなロックも忍ばせて。
指が自然と動き出す。
まだ形にならない旋律が、胸の奥から湧き上がる。
——なんて、楽しいんだろう。
その感覚は、久しぶりだった。
先生のことを思えば、まだ痛む。
未来も、コンクールも、何も分からない。
それでも今この瞬間だけは——
音楽が、純粋に楽しかった。
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