二 劣等感と優越感
二
黄金に輝くイチョウ並木を清涼な風が吹き抜ける。風が吹く度に金木犀の香りが周囲に漂う。その香りを胸一杯に吸い込みながら、鹿島は教室で憂鬱な気分に浸っていた。なぜならば、彼の大嫌いな運動会のシーズンが迫っているからだ。
鹿島は勉強こそ出来るものの、体育――というよりは運動――はまったく駄目だった。通信簿に付けられる評価も常に『1』で、周囲に鹿島ほどに運動の出来ない人間は一人しかいなかった。
その人物とは、同じクラスにいながらも、彼とは一度たりとも話したことがなかった男子生徒だ。彼の名前は、藤堂博といった。クラスの中でも影が薄く、陰気な表情で、いつも一人でいる、まるで空気のような存在だった。
鹿島は、藤堂を見ては優越感に浸った。僕はあいつよりも運動が出来るから大丈夫。そんなことを考えてはいつも自分を正当化した。そして、下を見続け努力をせずにいた。
ちらりと藤堂の方を見てみると、相変わらず陰気な表情で俯いている。彼もまた、運動会シーズンが嫌いなのだろう。
「今年も運動会が近づいてきました。今からみんなの出場種目を決めます。みんな、全員出場競技以外に、最低一種目は出てくださいね。それでは、学級委員の人は前に出て司会をしてください」
若い女教師の声を受け、学級委員の二人が黒板の前へと立った。
「じゃあ今から出場種目を決めます。一〇〇メートルは全員出場ですから、まずは二〇〇メートル走に出たい人は手を上げてください」
男子たちが一斉に手を上げた。二〇〇メートル走というものは運動の出来る者にとって、最高の活躍の場だ。ここで一等賞を取れば、クラスの英雄になることが約束される。だが、運動の出来ない鹿島にとっては、ただ恥を晒す場でしかなかった。
――どうせ出るなら、玉入れか、綱引きがいいかな。
玉入れや綱引きは団体種目であるがゆえに、鹿島一人がいくらミスをしても目立たない。それに、運動会までに開催される練習も比較的楽だ。他の種目は厳しい練習が待ち構えている。鹿島は、そんな独り言を言いながら、玉入れの出場選手を決める時を待った。
学級委員が四〇〇メートル走、騎馬戦、ミニマラソン、と手際よく出場選手を決めていく。時折、出場選手が過多な時には、じゃんけんホイ、というような掛け声が聞こえてきた。
そして、ついに鹿島の狙いの一つである玉入れの出場選手を決める時が来た。
「それじゃあ、次は玉入れに出たい人は手を上げてください」
鹿島はすかさず手を上げた。だが、さすがは楽な種目というだけあって、手を上げる人数も少なくはない。出場選手が六人に対して、八人の生徒が手を上げた。その中には藤堂の姿もあった。
「いち、にい、さん…………八人ですね。それじゃあ、じゃんけんで決めてください」
ぞろぞろと手を上げた生徒が黒板前に集結する。その様子は戦国の合戦のようだ。皆がこの種目を譲るまい、と闘争心をむき出しにしている。ただ一人、藤堂を除いて。
「いくぞ。じゃんけん……ほいっ!」
クラスでも比較的人気のある男子が指揮を取り、合戦が始められた。さすがに人数が多いだけあって、なかなか決着がつかない。何度もあいこになりながらも、着々と出場者が決まっていった。
そして、最後の勝利者を決めるところまで合戦は進んだ。残るは、女子一人と、鹿島、藤堂の三人だった。――決戦の火ぶたは切って落とされた。
「じゃんけん……ほいっ!」
チョキが一人にパーが二人。
合戦は終結した。
勝利者は鹿島……ではなく、一人の女子だった。当然、藤堂も敗北者だ。戦いに勝利した女子は歓喜の叫びをあげている。ただ二人だけがやる瀬無い表情をしている。
「決定ですね。負けた人は席に戻って、勝った人は黒板に名前を書いてください」
鹿島はとぼとぼと自分の席へ戻っていった。固い木の椅子に座ると、鹿島は大きなため息をした。ため息は幸運を逃がすとは言うが、やめられなかった。ふと藤堂の方を見てみると、さっきと何ら変わりのない表情で椅子に座っていた。
「それじゃあ、次は綱引きですね。出たい人は手を上げてください」
学級委員の一言に、鹿島は息を吹き返した。それは藤堂も例外ではなかった。鹿島は勢いよく手を上げ、やる気をアピールした。しかし、またも出場人数過多だった。二度目の合戦の火ぶたが切って落とされる。
だが、彼を待っていたものは二度目の敗北だった。今度はあいこの末の決着ではなく、一回目の勝負で敗北を喫した。またも鹿島と藤堂が敗北者となった。彼の顔から希望の色が消えた。藤堂は、生気のない顔から、さらに生気が薄れているように見えた。希望の色など、始めからないのだが。
「それじゃあ、次が最後の種目ですね」
学級委員のその言葉に、鹿島は仰天した。もう最後の種目なのか、と。そして仰天すると同時に、大きな後悔の念にさいなまれた。なぜなら、未だに出場種目の決まっていない彼らが最後の種目に出場することが確定したからだ。さっきも言ったように、一人最低一種目の出場が義務付けられている。
「最後の種目は、クラス対抗リレーですね。一〇〇メートル走のタイムが速い順から選んでいきます」
クラス対抗リレーといえば、運動会の花形だ。一つのクラス選りすぐりの人間が二チームに分かれて出場する。また、クラス対抗リレーは例年運動会の最後に行われており、これがチームの勝敗を決める。そんな重要なポジションに、運動音痴の鹿島と藤堂が立たされてしまった。
学級委員が一人、また一人とタイムが速い順に黒板に記していく。第一チームが三人、第二チームが三人書かれたところで、学級委員は手を止めた。
「ええーと。鹿島君と藤堂君だけ全員出場種目以外で一つも出場種目が決まっていないので、クラス対抗リレーに出場してもらいます」
鹿島の顔に絶望の色が浮かんだ。クラスの皆から痛々しい視線が送られる。鹿島は涙を溜め、それにじっと耐えた。だが、その我慢も無駄に終わる。
「ええー。最悪だし。なんでこんな遅い奴らと走らなきゃいけないんだよ。これじゃ、俺たちのクラス負けちゃうぞ。去年もこいつがいたから負けたんじゃん。それに、藤堂君も足遅いし」
クラスで一番足の速い男子の一言だった。その一言で、目の奥に溜めておいた涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。止めようと思っても、悔しさで止まらない。机が涙の模様で飾られていく。
教室全体がざわざわと騒ぎ出す。そんななかでも藤堂はいつもと何ら変わらぬ表情でいた。悔しくないのだろうか。
「みんな静かに!」
女性教員が乱れた秩序を正した。教室に、鹿島の泣き声だけが残った。
「そんなことは言わずに、みんなで協力して頑張ってくださいね。諦めなければ絶対に勝てます。鹿島君、藤堂君、頑張ってくださいね」
女性教員が鹿島の元にやって来てほほ笑む。そのほほ笑みからは優しさなんて微塵も感じられなかった。
最後に学級委員が締め、運動会の出場者を決める会は終わった。
放課後、皆が帰った後も鹿島は泣き続けた。何で俺がこんな目に合わなくちゃならないんだ、と自分を恨み続けた。夕日が落ちかけた時に、彼は泣きやんだ。薄暗い教室には誰もおらず、鹿島と悲しみだけが教室にいた。
「帰ろう……」
鹿島は涙を手でぬぐい、ランドセルを背負って教室を出て行った。
外はすっかり夕闇に染まり、烏が鳴いていた。普段ならば山なり河なりに寄り道をして遊んでいくが、今日はそんな気分ではなかった。一刻も早く家路について、泣きたかった。
「ただいま」
精いっぱいの虚勢で帰りの挨拶をする。鹿島は部屋に戻り、ランドセルを置く。そして、ベッドの上に寝転んで、すすり泣いた。枕に顔をうずめて、泣き声が聞こえないようにする。
足が遅いことは罪なのか? そんなことはありえないはずだ。鹿島には、なぜ自分が責められたのか理解出来なかった。
思考がぐるぐると回る。憎たらしいあの声が脳の中でリピート再生される。何度も何度も何度も。その度に鹿島は拳を握りしめ、柔らかいベッドを殴った。
悔しさと憎しみに震えていると、階下から母親の呼ぶ声がした。
「俊夫。藤堂君から電話だよ」
一瞬、誰だ、と思った。そして、すぐにあの陰気な表情をしている藤堂博の顔を思い浮かべる。鹿島は、藤堂と一度も話したことがなく、ましてや一緒に遊んだことなど一度もない。
一体何の用なんだろう。そんなことを考えながら階下へと降りて行った。そして、黒い受話器を手に取った。
「もしもし」
『鹿島君。あいつらにあんなこと言われて、悔しくないの?』
突然の声に、鹿島は受話器を離す。
初めて聞く藤堂の声は、優しい雰囲気をまとっていた。偽善的な言葉をかける、あの女性教師よりも。
藤堂の突然の言葉に、鹿島は一瞬戸惑ったが、即答した。
この際、藤堂がどんな人間でも構わなかった。
「悔しいさ。俺だって出たくて出たわけじゃないのに」
鹿島の目からまた涙がこぼれ落ちた。あの時の悔しさが胸に込み上げてくる。
受話器の向こう側で、藤堂が小さく笑う。
『じゃあさ、あいつらを見返してやろうよ。僕らだってやれば出来るってところを見せてやろうよ』
藤堂の言っている意味が分からなかった。いくら努力をしても、あいつらを見返すことは不可能だと鹿島は思った。だが、あの時の言葉や気持ちを思い出すと、はらわたが煮え繰り返るような思いに包まれ、鹿島はこう答えた。
「いいよ、やってやるよ!」
また、受話器の向こう側で藤堂が笑う。
『よーし、決定だね』
「でも、急に何で?」
『そりゃあ、僕も悔しいからだよ。バカにされて嬉しい人間はあまりいないと思うけど? それに、一緒に頑張る相手がいた方が身も入るしね。だから鹿島君を誘ったんだ』
「ふぅん。それで、いつから、何をするの?」
『明日から二人で特訓をしよう。内容は全部僕が決めておくから、鹿島君は気にしなくてもいいよ。放課後に学校の近くにある河原に丁度良い場所があるから、そこでやるつもり』
「うん、分かった」
『それじゃあ、また明日学校で』
藤堂はそう言い残すと電話を切った。
藤堂の声は終始落ち着いたものだった。あれだけ蔑まれたにも関わらず、そんなことは歯牙にもかけない様子だった。藤堂はあんなに強い奴だったのか、と鹿島は考えを改めた。うかうかしていれば藤堂に負ける。そんな思いを秘めて鹿島も受話器を置いた。
そして、彼ら二人の秘密の特訓が始まったのである。