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三 スタートライン


     三 


 運動場に笛の音が響く。笛が一度鳴る度に、四人の男子と女子が一斉に構えを取り、ピストルの音が鳴ると、彼らは一斉に駆けていく。その笛の音が耳に入る度、鹿島の心臓は高鳴った。そして、鹿島の走る順番がきた。


「位置について。よーい……」


 鹿島を含む四人が一斉にクラウチングスタートの構えをとる。

 これが運動会での基本だ。

 他にスタンディングスタートがあるが、これは運動会では使われない。使うものといえば、下級生の一〇〇メートル走か、リレーの第二走者以降だ。

 今日の体育は、運動会が近いということで走行練習にあてられている。


 ぱあん、とスターターピストルの音が鳴り響く。

 スターターピストルから白い煙が噴出される。


 鹿島は一生懸命にグラウンドを駆けた。

 だが、その必死な姿を横目で見ながら、クラス対抗リレーに選抜された男子が颯爽(さっそう)と彼を抜き去っていく。鹿島は、自分が抜き去られる寸前に男子の顔がにやけていることに気付いた。鹿島は思いっきり歯を食いしばる。悔しくて、悔しくて仕方がない。そして、彼に追い打ちをかけるかのように他の男子生徒も彼を抜き去っていく。


 彼らの姿が、どんどんと遠くなる。まるで蜃気楼(しんきろう)のように。


 鹿島がゴールに到着すると、一緒に走っていた男子が笑いながらこちらを見ていた。

「トシ。お前本当に走るの遅いな」

 颯爽と抜き去っていった男子が汗を拭いている。

 鹿島は、俊夫という名前の『俊』という部分を取ってトシと呼ばれている。鹿島は、『歳』と言われているようであまり良い気はしていない。


 鹿島は息を切らしながらこう答えた。

「俺だって一生懸命なんだよ」

「そうかあ。せいぜい頑張って走ってよ」

 この男子は、決して鹿島が嫌いでこのようなことを言っているわけではない。鹿島は、運動こそ出来ないものの、クラス全体からの人気はかなりあった。だが、いつも運動会シーズンにだけ、いじめにも似た待遇を受ける。


 鹿島は黙ってスタート地点に向かって歩き出した。


 途中、正面に目をやると藤堂がクラウチングスタートの構えをとっていた。そして、スターターピストルの音が響くと、それと同時に藤堂は転んでしまった。藤堂は涙目になりながらも一生懸命走っていた。彼の膝は赤く擦りむけていた。


 藤堂がゴールしても、周囲から何の反応もなかった。藤堂はただ黙って、元の位置へと戻る。


 藤堂は、クラスでは背景同然の扱いになっている。いてもいなくても何の関係もない。いじめの対象にすらならない。事実、彼は今日学校に来てからというもの誰とも挨拶すら交わしていない。


 鹿島は、うつむいて歩いている藤堂に寄り添っていった。

「なあ、さっき転んでたけど大丈夫かよ」

「うん。ありがとう、大丈夫だよ」

 藤堂が必死に涙をこらえているのがよく分かった。

 やはり、藤堂は根が強い奴なのだと鹿島は確信した。と言っても、鹿島たちは小学六年生だ。ある程度の自制は出来て当然のことである。だが、それを除いても藤堂は立派な人間だ。これ程までの完全な黙殺に耐えるということは、常人が可能なことではない。常人であれば、気が変になってしまうか、それこそ不登校にでもなってしまうだろう。何が藤堂を強くしているのか、鹿島は理解できない。


 鹿島と藤堂がスタート地点に戻ると、高らかな笛の音が、まき上がる砂埃を裂いて運動場中に鳴り響いた。鹿島が校舎に設置されている時計を見てみると、授業終了まで後一分というところだった。


「はい。今日の授業は全部終わり! 教室には戻らず、ここで終わりの会をしましょう」

 担任は宿題の話や、保護者に伝えておくべきことなどを端的に生徒に話した。


「それでは運動会まで後一ヶ月です。皆さん頑張って練習をしてください。さようなら」


 担任の一言を受け、生徒たちは一斉に散っていった。


 ただ、鹿島と藤堂を運動場に残して。


 鹿島は、ずっと藤堂の赤く擦りむいた膝を見ていた。膝から滴(したた)る血は、とても痛々しく、鹿島の心を同じように痛々しくした。友達と言えるかどうかはさておき、人が傷ついているのにも関わらず、クラスメイトは誰一人として藤堂の心配をしなかった。


「なあ。その膝、大丈夫なのかよ」

「ちょっと擦りむいただけだからね。大丈夫だよ」

「嘘つくなよ。お前、さっきから泣きそうじゃないか」


 鹿島は藤堂の表情の変化を見逃さなかった。転んだ直後は泣きそうな表情だったが、今はもう泣いているのと同じような表情をしている。目尻から涙がこぼれ落ちそうになっている。傷の痛さと、周囲の冷たさが合わさり、痛烈なものとなっているのだろう。


「そんなことないよ」

「うるさい。保健室へ行くぞ」

 鹿島はぶっきらぼうに言い捨て、それでも保健室に行くことをためらう藤堂に、さらに言った。

「今日の放課後から特訓を始めるんだろ? それなのに初日からそんなことでどうするんだよ。怪我はしっかり治さないと」

 鹿島は藤堂の手を強引に引っ張って保健室へと連れて行った。こころなしか、藤堂の表情は柔らかくなり、嬉しそうな雰囲気を感じさせた。



 保健室へと行くと、とても保健室の先生とは思えないほど厳(いか)つい顔つきをした男が、長い髪を眼前に垂らして本を読んでいた。男の読んでいる本は芥川龍之介の『羅生門』だ。男は、誰がそう呼び始めたのかは知らないが『怪物黒田』と呼ばれている。


「黒田先生。こいつが怪我したんで、治してやってくれませんか」


 鹿島が声をかけると、黒田は野太い声で返事をして藤堂の方へと歩み寄っていく。藤堂は黒田に怯えているらしく、蚊の鳴くような声で大丈夫だから、と言って保健室から出ていこうとしていた。これは、この学校の生徒なら誰もが通る道だということを、鹿島は知っていた。


 黒田は藤堂のすぐ前で立ち止まり、傷を眺める。そして、黙って傷口を水の染み込ませたガーゼで拭きとり、次にオキシドールを別のガーゼに染み込ませて傷口にあてた。


「いてっ」


 藤堂は黒田に聞こえないように小さな声で言ったつもりでいたが、黒田の耳にはしっかりと届いていた。

 黒田の鋭い眼光が藤堂に浴びせられる。

 藤堂は怒られる、と思ったのだが黒田からの言葉は予想以上に優しかった。男なら我慢しろ、というような過去の遺物と化した言葉は発せられなかった。


「男でも、痛いもんは仕方ないよな。泣きたければ、泣いても良いんだぞ?」

 黒田は、仕上げに傷口に絆(ばん)創(そう)膏(こう)を一枚貼り付けた。


「これで大丈夫だ。それにしても盛大に転んだようだな」


 黒田の容姿のイメージからは考えられないほど優しさに満ちた笑い声をあげる。人は見かけによらぬ、という言葉が黒田にはよく似合う。しかし、そんなことは鹿島と藤堂以外は誰も知らぬだろう。何せ、黒田の容姿に怯えて、誰もこの保健室を利用しないのだから。


「そうなんだよ。こいつスタートした瞬間に転んだんだぜ」

 鹿島も黒田と一緒に笑った。藤堂は一人顔を紅潮させている。


「君、名前は?」

 黒田の言葉にびくりと肩を上下させた。優しい、と分かったはいいものの、未だに黒田の厳つい容姿に慣れない様子だ。


「藤堂です」

 黒田は首を縦に振った。

「藤堂君。男だからって泣いちゃいけないとか、男らしくしていないといけないだなんてことはないんだよ。自分に正直にならなくちゃ。もっとも、我慢しなきゃいけないことも沢山あるけどな」


 黒田は、さっきよりも大きな声で笑い始めた。藤堂はとまどいの色を隠せずにいた。男は男らしくなければならない、それは当然のことだと思っていたようだ。


 藤堂が黒田の言葉に戸惑っていると、鹿島が笑いながら彼の背中を三度叩いた。それに合わせて藤堂の体が前後に揺れる。

「いつまで怖がってんだよ。良い先生だろ?」

「え、ああ、うん」

 藤堂の態度はいつまでも煮え切らなかったが、鹿島はそれで満足だった。



 二人は、一通り黒田と雑談をした後に教室へと戻り、着替えを済ませた。藤堂は青い短パンにシャツ一枚という簡単な服装だ。特訓をすることに差支えはなさそうだ。


「じゃあ、河原へ行こうよ。鹿島君」


 藤堂は小学生にしては珍しい青いランドセルを背負っている。青いランドセルには、鹿島のいる小学校のものではない校章が張り付けられている。


「張り切っていこうか」

 そうして、二人は小学生らしい元気な姿で教室を後にした。


 向かう先は小学校近くにある河原だ。そこには陸上競技場などにも似たトラックが用意されている。


 二人が河原に辿りつく頃には太陽が橙(だいだい)色に染まり、川もまた同じ色に染められていた。川原で遊んでいたのであろう子供たちが帰っていく姿がちらほら見られる。


 余談ではあるが、鹿島の家の門限は五時である。が、特訓をするんだと母親に言うと、すんなり門限はなくなった。ただ、遅くなり過ぎないように、と言われただけだった。藤堂の家庭のことは分からないが、鹿島はこれで心おきなく特訓に励むことが出来るようになった。


 二人は川原に備えられているベンチにランドセルを置き、手際良く準備体操を済ませた。体操の最中に周りを見てみると、ランニング中の男や、犬の散歩をしている女性など、様々な人間が日常生活を営んでいる様子がうかがえる。


「よし、準備完了だ。それで、練習は何をする?」

「鹿島君、ちょっと待ってね」

 藤堂はランドセルの置いてある所まで走っていき、ランドセルの中から一枚の紙切れを取りだした。そして、それをじっくりと眺めた後にこう言った。


「まずは、軽くジョギングかな」

「軽くって言うと?」

「んー、二キロくらいかな」


 その言葉に、鹿島は硬直した。二キロというと、鹿島の通っている小学校のマラソン大会の距離の半分だ。大人の目で見れば大したことのない距離だが、子供の目から見れば相当な距離なのだ。鹿島のような運動音痴の人間には、たった二キロがフルマラソンのように感じられるだろう。少々大げさだが。


 鹿島はしばらくの間ためらっていたが、決意を固めた。


「分かったよ。やるよ」

「そうこなくちゃ。えーと、ここから二キロだから……。ここの直線を十往復だね」

 藤堂はゴール地点を指差した。彼らの目の前に伸びる道は、直線で丁度一〇〇メートルだ。彼の瞳には迷いはなさそうだ。絶対にリレーで勝ちたい、そんな意志の強さを感じさせる。


 鹿島は靴ひもを固く縛りなおして、藤堂と一緒にゆっくりと駆けだした。


 静かな川原に少年の駆ける音がこだまする。


 静かに、着実に、息を少しずつ乱しながら駆けていく。


 コースを折り返し、また同じコースを走る。


 そしてまた静かに、着実に駆ける。


「はい、終わり」


 藤堂はけろりとした顔で鹿島を見つめた。どうやら、藤堂には鹿島が思っていた以上の体力が備わっていたようだ。

 鹿島は息を切らし、何も話すことが出来ない。ただ、荒い息づかいを放つだけだった。


 そんな鹿島の姿を見て、藤堂は心配そうに語りかけた。

「大丈夫? ちょっと休む?」

「なんで、そんなに体力があるんだよ」

 ぜえぜえ言いながら鹿島が問う。

「実はね、ちょっと前から走り込んでたんだ。もちろん運動会の為にね」

「じゃあ、クラス対抗リレーに出場することも……」

「それはさすがに予想してなかったよ」

 藤堂は明るい笑顔を鹿島に見せる。夕日が後光のように輝く。


「ちょっと、休憩させて」

 鹿島はランドセルが置いてあるベンチまでよろよろと歩いて行き、座ることの出来る範囲まで近寄ると、力なく崩れた。自分にはまったく体力がない、と痛感させられた。鹿島はしばらくうなだれたままでいた。

 ふと鹿島が顔を上げると、藤堂が横に座っていた。さっき見ていたメモをじっくりと眺めている。

「さっきから気になってたけど、それなんなの?」

「これ? これはね、図書館で調べた練習メニューを書いたメモさ」

「用意周到だなぁ」

「もちろんだよ。僕は絶対に勝ちたいんだから。もう今年で卒業だからね。それに……」


 川原の近くを走る電車で、藤堂の言葉がかき消された。鹿島はそれを聞きなおそうかと思ったが、それどころではなかった。


 二人のつややかな髪が風に揺れる。

「よし、俺だって負けてられないぞ」

 鹿島は両手で太ももを叩き、一気に立ち上がった。その後、自分の頬を二度平手で打った。頬がきゅっと引き締まる。

「お相撲さんみたいだね」

 藤堂はそう言うと、くすくすと笑い始めた。鹿島もそれにつられて笑った。さっき引き締めたばかりの頬が緩む。


「俺、運動の努力は嫌いだったけど、こんなのなら好きかな。こうやって笑いながらやるなら、問題ないよ。なんだか運動が好きになってきた」

「あはは。じゃあ次のメニューにいこうか」

「よおし、準備万端だぞ」

「次はさっきのコースを全力で五回走るよ。その時、タイムが二十秒を上回ったらもう一本追加で」


 鹿島はさっきの言葉を撤回した。


 やはり運動なんて嫌いだ、と。



     ◆◆◆



 鹿島がゆっくりと語っていると、さっきまで快晴だった空はどんよりと曇り始めていた。一雨きそうである。だが、そんなことに気付く由(よし)もなく、鹿島は一つ息をついた。

「これが特訓一日目ですね」

 鹿島はもうとっくに冷え切った茶を一口すすった。茶の苦い味が口内に広がっていく。


「面白い話ですね。実は陰で努力をしていたとは」

「いや、まったくです。それを聞いた時は本当に驚きましたね。いつも運動が出来ない、出来ないと思っていたのに。本当は私よりも出来る人間だったのですから。おっと、少し失礼」

 鹿島はもぞもぞと鞄を漁り始めた。


「タバコですか?」

 鹿島は首を横に振る。

「飴玉ですよ。一つ食べてもよろしいでしょうか? どうも口の中が寂しくて」

「どうぞ。ああ、良ければ私にも一ついただけませんか?」

 どうぞ、と鹿島は一言言い、飴玉を手渡した。そして、ほぼ二人同時に口に放り込んだ。


「おや、なんだか食べたことのある味ですね。何でしたっけ」

「どんぐりアメというものです。噛めばガムにもなります。小さい頃流行りませんでしたか?」

「ええ、確かに流行りましたね。当時はこんな駄菓子がご馳走でしたからね。それにしても、今時よく見つけましたね」


 がりっ、という音が部屋に響く。短髪の男は早々と飴を噛み砕いてガムにしたようだ。


「近くにまだ売っている場所がありましてね。大量に買い込んでおきました。次はいつ発見できるか分かりませんし。さて、続きをお話しましょうか。特訓二日目です。これがまたみっともなく……」


 鹿島は再び語り始める。



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